愛を知った日、君は星になったーー。

 第二章 君には全てを許してしまいそうになる。

 その後、電車内では、彼が一方的に話し続け、時間が過ぎていった。
 数分後、私たちは岬ヶ丘駅に着き、電車を降りて改札を通り過ぎた。
 すると、改札を出たところで彼が急に足を止め、
 「さっき、家の近くの公園までって言ってたけど、なんて名前の公園?」
 と、顎に手を当てて首をかしげながら聞いてきた。
 「確か、すくい公園って名前だった気がする。」
 「あ、あそこの公園か!」
 「えっ? 知ってるの?」
 「うん! 昔よく遊んでたんだ。確か、夏祭りの金魚すくいをしてたおじいさんが公園のベンチに座ってたから、この名前がついたらしい。」
 「へぇー、そうなんだ。」
 「って言っても、その名前をつけたのは俺と友達なんだけどね。」と冗談を言いながら舌をぺろっと出し、昔の話をしてきた。
 「かえでちゃんはその公園でよく遊んでたの?」
 「いや、私は……。」
 家庭の事情で一度も公園で遊んだことがなかった私は、どう返せばいいのか分からず、目線を下にやり、自分の足元を見つめた。
 「あ、でも、女の子はあんまり外で遊ばないよね!」と、思い出したようにぽつりと呟いた。
 「う、うん! 公園で遊ぶのは男子くらいでしょ!」
 何も考えていない彼のおかげで、なんとか公園の話はうまくごまかせた。そのまま、たわいもない会話を続けながら、「すくい公園」に到着した。
 着いた時には日が暮れ、辺りは薄暗くなっていた。
 「じゃあ、この辺で。」
 と私が言った瞬間、彼が声をかぶせてきた。
 「うわぁー、懐かしい、この公園!」
 目をキラキラ輝かせて、私に一つ一つ昔の出来事を説明してきた。
 「ここのベンチにおじさんが座ってたんだよ! 何も変わってないなー!」
 あまりにも無邪気な笑顔で説明してくるので、私はただ聞いているしかなかった。
 それに気づいた彼は、
 「あ、ごめん、懐かしくてつい興奮しちゃった。」
 無邪気に舌をぺろっと出して謝ってきた。
 「この辺り、全然来ないの?」
 同じ駅なのに、あまりにも背景に懐かしさを感じている彼に、不思議に思いながら尋ねた。
 「うん、こっちの方は家も反対だし、あんまり来ないかな。」
 「でも、昔は遊んでたって言ってなかった?」
 「俺、中学生の頃に引っ越したんだ! って言っても駅は変わらなかったし、そんなに遠くないんだけどね。」
 そう言いながら目尻にシワを寄せて、クスッと笑った。
 「よく笑う人だな。」と、そう思った。
 その時、向かいのスーパーから、食材の入った袋を持った女性が出てきた。その姿を見た瞬間、思わず「あっ!」と小さく声を漏らしてしまった。
 私はとっさに彼の腕を掴み、公園の影に引っ張り込んだ。
 「えっ、ちょっ、何! 何! かえでちゃん!? 痛っ……」
 突然のことに彼は驚き、目を見開いて私を見つめている。
 「しっ! 静かにして!」
 私は人差し指を立て、必死に彼を制した。
 「え、一体なんなんだよ……」
 「いいから!」
 「あの人がどうかしたの?」
 彼は戸惑いながら小声で問いかけてきたが、私は答える余裕もなく、心臓が恐怖でドクドクと音を立てて息を殺し、公園の影にじっと身を潜める。
 やがて、袋を持った女性は私たちに気づくことなく公園を通り過ぎ、どこかへ去っていった。
 「……ふぅ、もう、いいよ。」
 「なんなんだよ、急に手を引っ張られて心臓飛び出るかと思った。」
 彼は安堵したのか、大袈裟に胸を押さえながら息をつく。
 「……ごめん。でも、もう、これを機に今後一切私に関わらないでください。さようなら。」
 私は彼に背を向け、そのまま歩き出した。
 「えっ……?」
 何か言いたげに手を伸ばしてくる彼を横目に、私は振り返ることなく家へと帰った。
 よく笑い、優しく話しかけてくれる彼に気を許してしまい、思っていたよりも長く一緒に過ごしてしまった。そして、さっきスーパーから出てきたあの女性ーーあの人は私の母親だ。もし、彼と一緒にいるところを見られていたら、きっと彼氏だと誤解されて、面倒なことになっていたに違いない。
 母の姿を見つけたときの恐怖が、まだ体の中に残っている。心臓の鼓動は速いままで、落ち着こうとしてもなかなかうまくいかない。必死に深呼吸をしたり、スマホの画面を眺めたりしながら、重たい足を引きずるようにして家へと向かった。

 「ただいま……」

 ドアを静かに開けながら、靴を脱いで小声で呟く。その瞬間、背後から冷たい声が響いた。
 「遅かったじゃない! 何してたの?」
 振り返ると、母親がゆっくりとこちらへ歩み寄り部屋へ続く通路を塞ぐように立っていた。私はすぐに言い訳を作ろうとした。
 「えーっと、放課後は図書室で勉強してたの……」
 しかし、母の表情が一瞬にして曇り、
 次の瞬間ーー
 「バシッ!」
 静かな部屋に大きな音が鳴り響いた。
 母の右手が、私の頬に平手打ちを加えた。痛みが走り、思わず「うっ……」と声が漏れる。
 母は私の痛む顔を見ても、構うことなく冷たく言葉を続けた。
 「もぅ! あんたが遅いせいで、私が買い物に行ったんだからね! 分かってるのか?」
 震えるような声で「はい、すみません……」と返す私は。
 「住まわせてあげてるのに、役立たずね! だから誰にも愛されないのよ!」
 その怒声は、隣の部屋まで聞こえるほど大きく、耳を塞ぎたくなるようなもので、私の心を締め付けた。
 気が済んだのか、母は無言でリビングへ戻っていった。
 その瞬間、恐怖と孤独で体が動かなくなり数秒間、ただ立ちすくんでいた。
 私の家族は、母と父、そして私の三人。兄弟はいない。でも、父はほとんど家におらず、出張ばかりだから、実質、私は母と二人きりの生活だった。小さい頃から、母の暴言を何度も浴びてきた。正直、こんな家から一刻も早く抜け出したいと思っている。でも、バイトをすることも許されず、母の約束を破ればどんな仕打ちを受けるか分からない。そんな状況だから、私は自由に動くことができなかった。
 もしあの時、會野くんと一緒にいるところを母に見られていたら、学校にも通えなくなっていたかもしれない。いや、それだけじゃない。會野くんにまで迷惑をかけていたかもしれない。
 私は人間不信で、他人を信用できない。だけど、それでも、誰かに同じような辛い思いはしてほしくない。
 「おい! かえで!」
 リビングから響く母の声が、鋭く耳に突き刺さる。
 「はい!」
 玄関で立ち尽くしていた私は、すぐに部屋に入り、母のいるリビングへ向かった。部屋の中は、昼間から飲んでいるお酒の匂いで充満している。
 「何くずくずしてんだよ! 早く食器洗え!」
 「……はい」
 母は椅子に片膝を乗せ、片手にお酒を持ったまま、私を怒鳴りつけた。背筋が凍る。いつ手が飛んでくるか分からない。そう思うと、恐怖で頭がいっぱいになった。
 その時ーー
 「ピンポーン」
 普段ほとんど鳴らないインターホンが鳴った。
 「おい、出てこい」
 「……はい」
 急いでインターホンの前に移動し、モニターを確認する。
 「どなたですか?」
 「かえでちゃんと同じクラスの、會野裕です。」
 ーー心臓が飛び跳ねそうになった。
 信じられない。
 母に見つかるのが怖いのはもちろん、それ以上に、どうして彼がここにいるのかがわからなかった。家の場所なんて、教えた覚えはないのにーー。
 「インターホン、誰だったんだ?」
 母の声に、私は慌ててインターホンを切る。
 「あ、宅急便でした。ちょっと取ってきます」
 つんけんした様子の母にそう嘘をつき、急いで玄関を開けた。外には、さっきと同じ笑顔のまま、會野くんが立っている。
 「ちょっと来て! ここじゃダメ!」
 「え? どこ行くの、かえでちゃん?」
 母に見つかったら終わりだ。
 そう思い、私は彼の腕を掴んで近くの「すくい公園」まで引っ張って行った。
 「また急に腕引っ張って……、意外と強引だね、かえでちゃん!」
 こんな状況なのに、彼はどこか楽しそうだ。
 「冗談言ってる場合じゃない!」
 「ごめん、ごめん」
 「で、何? 家の場所なんて教えてないよね?」
 「あ、違う違う! これを渡しに来たんだ」
 彼が何かを言いかけた瞬間、私は不安に駆られ、思わず話を遮った。
 母にばれたんじゃないかと思うと、いても立ってもいられなかった。
 「お願いだから帰って! もう二度と来ないで。」
 彼が何か言おうと口を開いたが、私は無視してその場を立ち去ろうとした。
 その瞬間ーー
 「バッ!」
 今度は彼が私の腕を掴んだ。強い目で、じっと私を見つめている。
 ーー手を挙げられる?
 反射的に恐怖がこみ上げ、思わず目をぎゅっとつぶった。声を震わせながら、口から言葉がこぼれる。
 「ごめんなさい……ごめんなさい……」
 「いや、そうじゃなくて、これ!」
 「え?」
 恐る恐る目を開けると、彼は優しい目で私を見つめ、手のひらに何かを乗せて差し出していた。
 「これ、かえでちゃんのでしょ? さっき公園で隠れた時に落としてたよ!」
 私のバックにつけていたパンダのストラップーー。確かに、いつの間にかなくなっていた。
 「あ、ありがとう……」
 彼の穏やかな声と優しいまなざしに、少しだけホッとする。
 「でも、なんで私の家が分かったの?」
 「ストラップを見つけた後、すぐに追いかけたんだけど……、途中で見失っちゃってさ。でも、周辺の家の名前プレートを見たらすぐ分かったよ!」
 「あ、なるほど……」
 「ごめん、驚かせちゃって」
 あまりにも怯えていた私の様子に気づいたのか、彼は申し訳なさそうに眉を下げて謝ってきた。
 「あ、あの……それより……。」
 「ん?」
 「もう手を離してください」
 話に夢中になっていたせいか、彼はまだ私の手をつかんだままだった。
 「あっ……ご、ごめん!」
 ハッと気づいた彼は、慌てて手を放し、みるみる顔を赤くした。
 「……あの、ストラップ、ありがとう。じゃあ、私戻るね」
 「う、うん、また明日!」
 動揺して真っ赤になっている彼に、小さくお辞儀をして、私は家へと戻った。
 家に入ると、母はソファに座ったまま、手にしたお酒をこぼしながら眠っていた。酔いが回ったのだろう。
 ふと時計を見ると、針はすでに八時半を過ぎ、九時になろうとしていた。慣れない異性との会話に、いつも以上の疲れを感じる。
 私は冷凍食品を温め、さっと食べ、早めに寝ることにした。
 翌朝、酔っ払って眠る母を起こさないよう、そっとドアを閉めて家を出た。
 「それにしても、昨日はいろんなことがあったな……このまま、誰もいない遠い場所に行ってしまいたい。」
 どこへ行っても、自分の居場所なんてないーー。そう再確認すると、気持ちはますます沈み、足取りは重くなるばかりだった。
 そのときーー
 背後に、嫌な気配を感じた。その瞬間、体中に鳥肌が立つ。
 「おはよっ! かえでちゃん!」
 ーーこの、やたら元気で、女子が惚れそうな優しい声。聞いた瞬間、誰だかすぐに分かった。
 「げっ……!」思わず声が漏れる。
 「會野くんだ。」
 隣で立ち止まった彼を無視し、私は足早に学校へ向かった。
 「おい! また無視かよー!」
 後ろから軽快な足音が近づく。振り返らなくてもわかる。彼はきっと、ほっぺを膨らませて拗ねている。
 「言ったはず! 二度と話しかけないでって。」
 私はピタリと足を止め、彼の顔を睨んだ。
 案の定、會野くんは頬をぷっくり膨らませ、まるで餌をもらえなかった犬のように拗ねていた。
 「昨日、わざわざストラップ届けに行ってやったのに、俺拗ねちゃうよ?」
 その言葉に、胸がチクリと痛む。確かに彼の言う通りだった。あのストラップは、唯一父からプレゼントしてもらった、大切なもの。
 「それは感謝してます。 でも、それとこれとは別!」
 私は強めに言い返した。
 「じゃあ……」
 彼は腕を組み、遠くを見つめながら何かを考え込む。
 「……あ!そうだ!」
 突然、パッと腕をほどき、顔を輝かせた。
 「昨日のお礼として、今日、屋上で一緒にお昼食べない?」
 「は? ちょっと、今私の話聞いてた?」
 「来なかったら罰として、今週の日曜日、駅前集合!」
 訳の分からないことを次々と言いながら、彼は「言ってやったぜ」と言わんばかりにスクールバックを肩にかける。
 「……って、え? 駅前集合って、どういう意味!」
 思わず聞き返す。
 「そのままの意味だよ!」
 「そのままって……つまり、一緒に遊ぶってこと?」
 「うん!」
 彼は深く頷いた。
 半信半疑で問いかけたが、その瞳は驚くほど真剣でーー。こんなことを、さらっと女子に言えるなんて……私には考えられなかった。
 その時、
 「キーンコーン」
 学校の朝のチャイムが通学路に響いた。
 それを聞いた彼は、
 「やば! 遅刻になる。 かえで走るぞ」
 「え、ちょっと!」
 彼は慌てて私の手をギュッと握り、学校に向かって走り出した。私も遅刻しないように必死で追いかけた。
 「はぁ、はぁ、ギリギリ間に合った……」
 チャイムが鳴り終わる直前に門を通り抜けた。
 「ふぅー、走ったから暑いな」
 彼は額から垂れる透明な汗を手の甲で拭き取る。
 「かえでちゃんも大丈夫か?」
 「はぁ、はぁ、なんとか……」
 息を切らしながら、額を伝う汗を見た彼が、
 「かえでちゃんもすごい汗だな」
 と言って、クスクスと笑い始めた。
 「何がそんなにおかしいんですか! 會野くんだって汗すごいじゃない!」
 「ごめんごめん、つい! それより、汗拭かないと風邪ひくよ?」
 少し笑みを浮かべながら、彼は私にゆっくり近づいた。そして、ピタッと目の前で止まり、片方のブレザーをまくり上げ、ブラウスの袖を掴んで私の汗を拭こうとした。
 「あ、私、ンカチあります。ほら!」
 急いでポケットからハンカチを取り出し、バッと彼の前に差し出した。ハンカチを突きつけられた彼は、驚いて目を丸くして動きが止まった。
 「なんだ、ならよかった!」
 そして、何事もなかったかのように爽やかな笑顔を見せた。
 「それより、朝礼始まっちゃうよ!」
 「それはまずい! 急ごう!」
 私たちは急いで上履きに履き替えた。
 教室に向かおうと足を急ぐ彼に
 「ちょっと待って!」
 今にも泣きそうなくらい震えた声で呼び止めた。
 「どうした?」
 「あの、学校内では絶対に話しかけないで。 これだけは約束してほしいです。」
 声だけでなく、足もガタガタと震え、声が徐々に小さくなっていった。学校内のことを思い出すと、急に怖くなった。
 「分かった。 学校では俺からは話さない! 約束する。」
 彼は優しく、透き通るような声でそう言ってくれた。完全に安心できたわけではなかったが、彼の言葉で少しホッとした。
 そして、私たちは急いで教室に向かった。ギリギリ朝礼にも間に合い、それぞれ席についた。
 すると、早速。
 「どうしたの? チャイムギリギリじゃない、もしかして寝坊?」
 「この年になって寝坊とかありえないんですけど!」
 いつもの二人が私の前に立ち塞がった。
 「鈴葉さんと高橋さん……。」
 「今日はちゃんとおはようって言えるかな? ほら、言いなさいよ。」
 「お、おはようございます。」
 「何その今にも消えそうな声! 本当にいるのか、いないのか分かんないわ。」
 メイドの高橋さんは隣でただ嘲笑うように私を見ているだけで、一方的に発言してくるのは鈴葉さんだった。そして、片方だけ筋肉を動かすように笑いながら、二人はそれぞれの席に戻った。
 一番前の席に座っている會野くんの視線を感じ、こんなところを見られたと思うと恥ずかしさのあまり涙が滲んできた。
 「はーい、みんな、朝礼始めるぞー。」
 出席簿を持った担任の先生が教室に入ってきた。いつも通り朝礼が行われ、授業が始まる。
 授業中は意外とみんな真剣に取り組んでいて、先生に当てられない限り、平和な時間が流れる。私は机に肘をついて、ボーッと窓の方を眺めていた。
 その時、ふと朝の出来事が頭に浮かぶ。
 「あの時、『かえで走るぞ』って彼、私の名前を呼び捨てにしてた?」次々と思い出す。
 「門の前で汗を拭こうとされて、それで……無理無理!」思い出すたびに顔が熱くなっていくのがわかる。
 赤くなった頬を両手で挟んで、恥ずかしさでいっぱいになった。授業中なのに、つい彼のことを考えてしまい、先生の話が全然頭に入ってこない。
 時間があっという間に過ぎ、気づけば四限目の終わりのチャイムが鳴っていた。
 「あ、もうお昼の時間か。」
 前の席の會野くんを見ると、お弁当箱を持ちながら、楽しそうに友達と話していた。
 「會野、今日お昼どうする? 食堂行っちゃう?」
 「え、ごめん、今日は先約があるんだ。」
 「えー! だれ誰? まさか女?」
 「さぁーな! 想像に任せるわ。」
 「んだよぉー! じゃあ、明日は俺と約束な?」
 「わかったよ! 明日約束な!」
 「よっしゃー!」
 友達に抱きつかれ、じゃれあっている二人。
 そんな楽しそうな彼の顔を見たことがなかった。私は、好きでもない彼に少し嫉妬している自分に気づく。
 「先約? そういえば今朝、會野くんにお昼一緒に食べようって言われてたんだ。」
 他のことで頭がいっぱいになっていた私は、すっかり朝の会話を忘れていた。
 急いでお弁当箱をバッグから取り出し、教室を出て、屋上へ向かって走った。
 バッ! 
 屋上の重たいドアを勢いよく開けると、携帯を触りながら壁に寄りかかって座っている會野くんの姿があった。屋上には私たち以外誰もいなかった。
 「お、来てくれたんだ!」
 彼は微笑みながらそう言ってきたけど、私は目を逸らしながら答える。
 「まぁ、一応ね?」
 「ってことは、日曜遊びに行くより、お昼ご飯食べたほうがいいってこと?」
 「当たり前でしょ! 何言ってんのよ!」
 彼が少ししょんぼりとした顔をして、床を手のひらでトントンと叩く。それに従って、私は彼の隣に腰を下ろした。
 お弁当の蓋を開けて食べようとしたその時、急に彼が身を乗り出してきた。
 「わぁー! かえでちゃんのお弁当、美味しそう!」
 「ちょっ、そんなに見ないでください!」
 彼の目はキラキラ輝き、今にもよだれが垂れそうな表情をしていた。
 「それ、自分で作ったの?」
 「うん、まぁ、料理は得意だから。」
 「え、すげぇーじゃん! 俺なんか目玉焼きも焦がしちゃうよぉ! 今度かえでちゃんに作ってもらおうーっと!」
 「なんで、私が!」
 「いただきますー!」
 私の言葉を無視して、彼は無邪気な笑顔でお弁当を頬張った。
 それから、彼の面白くないギャグや質問に私が答えながら、二人で楽しく過ごす時間が続いた。
 意外とあっという間にお昼の時間が過ぎ、チャイムが鳴った。
 少しでも彼との時間を減らして一人になりたかった私は、彼より先に腰を上げ、お弁当箱を急いで片付けた。
 「チャイムも鳴ったし、私、先行くね。」
 座って乱れた制服のスカートを手で整え、さっさとその場を離れようとした瞬間、
 「ねぇ、ちょっと聞いていいか?」
 座っていた彼が急に立ち上がり、普段の優しい声とは違う、真剣な眼差しで私を見つめていた。
 「えっと、」
 「なに? 早く言って!」
 普段のように遠慮なく質問してくる彼が、今日は何かためらっているようだった。
 「いや、俺の勘違いかもしれないんだけど、」
 「だから何?」
 「ストラップを渡しに行った時、気づいたんだけど、かえでちゃん、腕に傷あるよな?」
 「え?」
 「俺の見間違いかもしれないけど、それにしては傷口が深かったし、ほっぺも赤くなってたから、心配で。」
 真剣な表情の彼が、だんだんと眉を寄せ、心配そうに私を見つめていた。
 彼の言葉と顔に、私は困惑して頭が回らなくなった。心臓がドキドキと高鳴り、どう答えるべきか全く分からなかった。
 「そんな傷、私知らない。」
 咄嗟に言ってしまったその言葉が、まさか通用するとは思わなかったが、それ以外に思いつかなかった。
 腕が、肩が小刻みに震え始める。震えている私を見た彼が、何かを感じ取ったのか、
 「知らないわけねぇーだろ。」
 「知らない! 知らないんだって!」
 彼の少し強めの言葉に、私は必死に叫び返す。
 一瞬、周囲が静まり返った。屋上に吹く風が私たちの服を揺らし、気まずい沈黙が広がった。
 「かえでちゃん。」
 彼が私の名前を静かに呼んだ。きっと、彼も私の行動に何か異変を感じていたんだろう。
 ストラップを届けに来てくれた時も、母親みたいに手を上げられるんじゃないかと思って怖くなって、咄嗟に言ってしまった「ごめんなさい。」って言う言葉も、学校帰りにはなかった腫れた頬が、数分で赤く膨らんでいたことも、その他にも、学校でのいじめや、つらかったことを考えると、彼が心配するのも無理はない。
 そう思うと、ずっと我慢してきた涙が今にも溢れそうになった。
 でも、泣いている情けない姿を彼には見せたくなくて、グッと拳を握りしめて、息を呑んだ。
 「授業始まっちゃうので、私行きますね。」
 顔を長い髪で隠しながら、屋上を後にした。
 私が去ろうとすると、彼が一瞬手を伸ばしてきたけれど、すぐに力なくその手を下ろし、私が屋上を出るまで何も言わずに立っていた。
 屋上を出て一人になった瞬間、胸の中にいろんな感情が押し寄せてきた。
 「辛い、こころが苦しい。」
 胸を押さえながら、階段を急いで駆け降りていった。
 私はかつて自分に誓ってたことがあった。
 「今まで親から受けていた暴力のことは誰にも話してはいけない。絶対に知られてはダメ。家族の問題は自分だけで抱えなきゃいけない。他人を巻き込むなんて絶対にしない。」
 そう、固く心に誓っていた。