「お母さん……」
「ああ、咲菜! 咲菜!」
お母さんが私を抱きしめようとして寸でで止まり、改めてそっと、触るか触らないかの加減で抱きしめてきた。
お母さんが泣いている。コンクールに参加しているみんなはテレビの中。
私はなんでこんなところで寝ているの?
眉間に皺が寄る。また美結に笑われちゃうよ。真奈美に心配されちゃう。なんで私は。
「ここ、どこ?」
私が聞くと、お母さんが体を離して涙を拭いた。
「病院だよ。車とぶつかったの、覚えてない?」
「車に……?」
以前、信号無視の車とぶつかりそうになったことを思い出した。あの時は真奈美が止めてくれたから無事で済んだ。それがもし、間に合っていなかったら。
「でも、意識も取り戻したし、もう大丈夫ね」
──全然大丈夫なんかじゃない。こんな絶望なら、覚めたくなかったよ。
私の言葉は、再び溢れたお母さんの大粒の涙でへなへなと萎んでしまった。
「それって、いつ?」
ナースコールを押す横でなんとなく聞いてみる。コンクールの生放送がやっているから、今日が八月九日なのは分かる。でも、交通事故に遭った記憶は全く無い。
「六月だから、一か月半は経ってるかな」
「六月!? じゃあ、私一か月半も病院で寝てたの!?」
「そう。心配したんだよ」
それは当たり前だ。一人娘が交通事故に遭って目が覚めないんだもん。どれだけの心労をかけたか。お母さん、頬がこけた気がする。
一か月半、一か月半か……。
「ちょうど夏休みだし、夏休み明けから登校できるように頑張ろうね」
お母さんが握りしめる左手はがりがりで、右手には点滴の針が刺さっていた。
ああ、これが私か。
「そうだ、真奈美ちゃんに連絡しないと。真奈美ちゃんね、しょっちゅうお見舞い来てくれてたの。あとで一緒にお礼言いましょ」
お母さんがスマートフォンを取り出す。私は震える手でテレビを差した。
「生放送でしょ、それ。真奈美、電話出られないと思うよ」
「あら、本当。やあね、お母さんったら慌ててたから」
目を腫らしたお母さんが笑う。きっと、今までも泣いてたんだろうな。一分泣いたくらいじゃこんなに腫れないもん。私は親不孝者だ。
お父さんに連絡を取っているお母さんの声は明るい。目を覚ましたことが嬉しいんだ。ごめんね、こんな娘で。
「出たかったな」
聞こえないように呟く。
だって、ほんの数分前まではあの舞台にいた。
夢でも、私は立っていた。
ソロという大仕事も待っていた。
待っていたのに、全部泡沫の跡だった。
やがて、病院の先生がやってきて、脈を測ったり聴診器を当てられたり、問診されたりした。結果、特に異常は無かった。私以外。
いまだに頭がふわふわする。
どこまでが現実で、どこからが夢だったんだろう。
私はきっとソロに選ばれなかった。
ずいぶん都合の良い夢だった。
それでも、一生懸命練習したんだ。
周囲の明るい声とは裏腹に、私の心は深海の底へと沈み込んでしまった。
私が元気がないのはお母さんも分かっていて、私のスマートフォンを渡してくれたり、最近あったことを話してくれたりした。
お母さんは何も悪くない。悪いとしたら、私だ。ごめんなさい。
コンコン。
はっきりしたノックが聞こえてきた。お母さんがどうぞと言うと、ドアがバタンと開いた。飛び込んできたのは真奈美だった。まだあれから二時間も経っていないのに、会場から急いで来てくれたのかな。
「咲菜ァ!」
真奈美はすでに泣いていた。やっぱり、事故に遭ったのは真奈美の目の前だったのかもしれない。
「わ、私が、もっと早く気付いて声をかけられてたら、ごめん。ごめんね」
「ううん、真奈美は何も悪くないよ。コンクールで大変だったのに、来てくれてありがとう」
「咲菜……」
真奈美からは学校のこと、合唱部のこと、そして今日のコンクールの結果を聞いた。結果は残念ながら上へは上がれなかったらしい。そして、ソロをしたのは家原先輩だった。
「そっか。残念、でもみんな全力で頑張ったから」
「うん、ありがとう」
「来年は私も出るよ」
「絶対だからね」
何気なく言った言葉に指切りをされてしまった。その横でお母さんがニコニコ笑っている。自ら道を一本に減らした私は相当愚かだ。目が覚めたばかりで、夢を引きずっていたのかもしれない。
それから真奈美は一時間くらいいて、部員から預かった手紙やお菓子を沢山くれた。みんなも心配したよね。元気になったら、部活に顔を出さないと。
「部活はお盆明けに数日あるくらいだけど、さすがに来られないか」
「病院の先生と相談してから決めるね」
「そっか。来るの楽しみにしてる」
名残惜しそうにする真奈美と別れる。
「ふう」
「大丈夫? 先生呼ぶ?」
「ううん、平気」
急にいろいろ話したからかどっと疲れた気がする。でも、真奈美だってコンクールで疲れてるのに来てくれたんだよね。友だちっていいな。
いい加減、こっちが現実だって納得しなくちゃ。私の時間は動いている。立ち止まっていたら、本当に置いていかれちゃう。
「お母さん」
「なぁに?」
「頑張るよ、私」
「うん、えらい。お母さんも全力で応援するから、何でも言って」
誰の為でもない、私の人生だ。私が頑張らないでどうする。頑張る人は私しかいないんだから。
少ししてお母さんが帰った。先ほどまでの空元気は限界を迎え、私は頭まで布団を被った。
「ふ……うう……ああ」
泣きたくないのに、勝手に涙が落ちていく。
今は一人きり。泣いたって誰も来やしない。だから、いいよね。
「うわぁ~ん!」
私は幼児みたいに泣き続けた。
神様、今日だけ。今日だけは泣かせてください。
明日からまた頑張るから。
だから、目をつぶっていて。お願い。
「ああ、咲菜! 咲菜!」
お母さんが私を抱きしめようとして寸でで止まり、改めてそっと、触るか触らないかの加減で抱きしめてきた。
お母さんが泣いている。コンクールに参加しているみんなはテレビの中。
私はなんでこんなところで寝ているの?
眉間に皺が寄る。また美結に笑われちゃうよ。真奈美に心配されちゃう。なんで私は。
「ここ、どこ?」
私が聞くと、お母さんが体を離して涙を拭いた。
「病院だよ。車とぶつかったの、覚えてない?」
「車に……?」
以前、信号無視の車とぶつかりそうになったことを思い出した。あの時は真奈美が止めてくれたから無事で済んだ。それがもし、間に合っていなかったら。
「でも、意識も取り戻したし、もう大丈夫ね」
──全然大丈夫なんかじゃない。こんな絶望なら、覚めたくなかったよ。
私の言葉は、再び溢れたお母さんの大粒の涙でへなへなと萎んでしまった。
「それって、いつ?」
ナースコールを押す横でなんとなく聞いてみる。コンクールの生放送がやっているから、今日が八月九日なのは分かる。でも、交通事故に遭った記憶は全く無い。
「六月だから、一か月半は経ってるかな」
「六月!? じゃあ、私一か月半も病院で寝てたの!?」
「そう。心配したんだよ」
それは当たり前だ。一人娘が交通事故に遭って目が覚めないんだもん。どれだけの心労をかけたか。お母さん、頬がこけた気がする。
一か月半、一か月半か……。
「ちょうど夏休みだし、夏休み明けから登校できるように頑張ろうね」
お母さんが握りしめる左手はがりがりで、右手には点滴の針が刺さっていた。
ああ、これが私か。
「そうだ、真奈美ちゃんに連絡しないと。真奈美ちゃんね、しょっちゅうお見舞い来てくれてたの。あとで一緒にお礼言いましょ」
お母さんがスマートフォンを取り出す。私は震える手でテレビを差した。
「生放送でしょ、それ。真奈美、電話出られないと思うよ」
「あら、本当。やあね、お母さんったら慌ててたから」
目を腫らしたお母さんが笑う。きっと、今までも泣いてたんだろうな。一分泣いたくらいじゃこんなに腫れないもん。私は親不孝者だ。
お父さんに連絡を取っているお母さんの声は明るい。目を覚ましたことが嬉しいんだ。ごめんね、こんな娘で。
「出たかったな」
聞こえないように呟く。
だって、ほんの数分前まではあの舞台にいた。
夢でも、私は立っていた。
ソロという大仕事も待っていた。
待っていたのに、全部泡沫の跡だった。
やがて、病院の先生がやってきて、脈を測ったり聴診器を当てられたり、問診されたりした。結果、特に異常は無かった。私以外。
いまだに頭がふわふわする。
どこまでが現実で、どこからが夢だったんだろう。
私はきっとソロに選ばれなかった。
ずいぶん都合の良い夢だった。
それでも、一生懸命練習したんだ。
周囲の明るい声とは裏腹に、私の心は深海の底へと沈み込んでしまった。
私が元気がないのはお母さんも分かっていて、私のスマートフォンを渡してくれたり、最近あったことを話してくれたりした。
お母さんは何も悪くない。悪いとしたら、私だ。ごめんなさい。
コンコン。
はっきりしたノックが聞こえてきた。お母さんがどうぞと言うと、ドアがバタンと開いた。飛び込んできたのは真奈美だった。まだあれから二時間も経っていないのに、会場から急いで来てくれたのかな。
「咲菜ァ!」
真奈美はすでに泣いていた。やっぱり、事故に遭ったのは真奈美の目の前だったのかもしれない。
「わ、私が、もっと早く気付いて声をかけられてたら、ごめん。ごめんね」
「ううん、真奈美は何も悪くないよ。コンクールで大変だったのに、来てくれてありがとう」
「咲菜……」
真奈美からは学校のこと、合唱部のこと、そして今日のコンクールの結果を聞いた。結果は残念ながら上へは上がれなかったらしい。そして、ソロをしたのは家原先輩だった。
「そっか。残念、でもみんな全力で頑張ったから」
「うん、ありがとう」
「来年は私も出るよ」
「絶対だからね」
何気なく言った言葉に指切りをされてしまった。その横でお母さんがニコニコ笑っている。自ら道を一本に減らした私は相当愚かだ。目が覚めたばかりで、夢を引きずっていたのかもしれない。
それから真奈美は一時間くらいいて、部員から預かった手紙やお菓子を沢山くれた。みんなも心配したよね。元気になったら、部活に顔を出さないと。
「部活はお盆明けに数日あるくらいだけど、さすがに来られないか」
「病院の先生と相談してから決めるね」
「そっか。来るの楽しみにしてる」
名残惜しそうにする真奈美と別れる。
「ふう」
「大丈夫? 先生呼ぶ?」
「ううん、平気」
急にいろいろ話したからかどっと疲れた気がする。でも、真奈美だってコンクールで疲れてるのに来てくれたんだよね。友だちっていいな。
いい加減、こっちが現実だって納得しなくちゃ。私の時間は動いている。立ち止まっていたら、本当に置いていかれちゃう。
「お母さん」
「なぁに?」
「頑張るよ、私」
「うん、えらい。お母さんも全力で応援するから、何でも言って」
誰の為でもない、私の人生だ。私が頑張らないでどうする。頑張る人は私しかいないんだから。
少ししてお母さんが帰った。先ほどまでの空元気は限界を迎え、私は頭まで布団を被った。
「ふ……うう……ああ」
泣きたくないのに、勝手に涙が落ちていく。
今は一人きり。泣いたって誰も来やしない。だから、いいよね。
「うわぁ~ん!」
私は幼児みたいに泣き続けた。
神様、今日だけ。今日だけは泣かせてください。
明日からまた頑張るから。
だから、目をつぶっていて。お願い。

