八月九日、晴れ。ついに、ついに、コンクールの予選がやってきた。

 この一か月、本当にあっという間だった。あれから田尻君は表面上おとなしくなり、笠野さんはめきめき強くなった。時々田尻君が独り言で文句を言うと、笠野さんがわざとらしくどうしたのか聞きに行ったりしていた。強い。

 お盆前の今日は最高気温が三十四度になるらしい。もしバスじゃなくて各々電車と歩きで現地集合だったら、会場に着くまでに熱中症になりそう。バス手配してくれた先生に感謝です。

「うーん、暑い!」
「そうだねぇ、でも今のとこ平気」
「咲菜って、結構暑いの平気だよね」
「うん、昔より平気になった」

 みんなは下敷きや持ってきたうちわをぱたぱたさせている。私は冷たいお水を一口飲んだ。

「うわ~エアコン入ってる、涼しい!」

 バスの中はひんやりしていた。中は自由に座っていいので、真奈美と隣同士で座った。

 顔を見合わせて手を取り合う。

「緊張してる?」
「うん、もうしてる」

 私は何度も頷いた。

「だよね。でも、楽しみだね」
「うん」

 緊張というより興奮に近いかもしれない。楽しみすぎてよく分からなくなっているやつ。

 会場まではバスで四十分くらい。真奈美や美結と話していたらあっという間に着いた。

 受付を済ませ、各自トイレ休憩となる。もう客席に行ってもいいと言われたので、みんなでホールの扉を開けた。

「うわぁ、相変わらずすごい光景」

 客席は出場する中学生でびっしり埋まっている。当然、保護者が座る席は全く確保できない。これを見たらお父さんたちに来てほしくてもさすがに諦めるしかないね。

 今波中学校の席に座る。だいたいパートごとに分かれて、その中では自由に。

「田尻君、他の男子と一緒の席でも大丈夫だよ」
「結構です」

 右手のひらをずい、と顔の前で見せられる。そうだよね、田尻君男声パートの人ともあまり話さないもんね。

 私は部活を頑張りたい気持ちと同じくらい部員と仲良くしたい方だから、一人で平気な彼の行動は不思議に映るけれども、それも人それぞれ。それで寂しく思わないならそれでいいと思う。

「笠野さん、高橋さん、気分はどう?」
「き、緊張しています」

 二人とも引きつった笑顔で返してくれた。完全に空気に飲まれている感じ。これは大変だ。

「私も! でも、緊張しただけじゃ失敗しないくらいめいいっぱい練習したでしょ。だから大丈夫」

「なるほど……」
「たしかに」

 素直な二人はきょとんとした顔ながらも頷いてくれた。こんな可愛い後輩たちと一緒にステージに立てることがとても嬉しい。

 まだ本番じゃないのであちこちから話し声がする。
 ええと、去年本選に行った学校は……あそこだ。やっぱり雰囲気あるなぁ。

 私も小学生の時は一度ブロック大会まで勝ち進んで、CDにも収録されたんだよね。懐かしい。もうあれから三年か。

 さて、私たちの出番は三番目か。結構早い。

「みんな、一番目の学校が移動したら私たちも移動するからね」
「はい」

 小川先生の説明を聞いた後に後ろを向く。あった、カメラ。お母さん、配信観てくれるかな。

 間もなくして開会式が始まる。そしてトップバッターが始まるというところで、先生が立ち上がって合図をした。ぞろぞろとステージの裏側に向かう。

 ついに、ついにだ。

 春から全力で走ってきた。

 ソロのオーディションを受けて選ばれた。

 先輩は変わらず優しくて、後輩はなんだか一筋縄ではいかなくて。でも、毎日楽しくて。

 終わってほしくないなぁ。

 これで、終わりは嫌だ。

 両頬を軽く叩く。よし、気合を入れていこう。

 整列した私たちの前に小川先生が立つ。

「大丈夫。貴方たちは頑張った。それはもう頑張った。きっと上手く行く。口角を上げていきましょう」

「はい!」

 指揮棒を持った先生が両手の人差し指をほっぺに当てて、くい、と上に上げる。見慣れた光景だ。合唱は口の開け方がとても大事。小学校からずっとやり続けて、魂レベルで刻み込まれている。

「三上さん」
「はい」
「うん、大丈夫だね」

 間もなく、前の学校の演奏が終わる。私の体はどんどん熱くなってきた。

 どくん、どくん。

 規則的に聞こえてくる、少しだけ緊張した心臓の音。

 私はこの音が好き。

『三番、今波中学校。課題曲は──』

 生きてるって実感できるから!

 私は目を閉じる。開けたらもう本番だ。
 ソロという大役を任された。精いっぱい、胸を張れる音を紡ごう。






「──はッ」

 パチパチパチパチ。

 目を開けた瞬間、静かなステージ、ではなく真っ白な空間が視界を覆った。そして、耳元に飛び込んでくるのは割れんばかりの拍手。

 どうして!?

 今、私はステージに歩き出すところだったのに。終わったって言うの?

「なんで?」
「咲菜!」

 私の呟きに反応したのは、合唱部の仲間じゃなくてお母さんだった。

 目の前にお母さんがいる。なんで。

 さっきから、景色も変。舞台袖じゃなくて真っ白な壁ばかり。なんで。

 体を動かそうとしたらうまく動かなかった。私、これ、寝てる。だって、天井が見える。どうしちゃったの……?