don't back

「はい。じゃあ、自由曲は仕舞って、課題曲の楽譜を出してね」

 余韻に浸る暇も無く、課題曲の練習が再開された。パートごとの練習は終了し、今は全員揃って通しで歌っている。

 一年生は隣同士にならないよう上級生を挟み、声を出しやすい環境を作る。つまり、私は隣の田尻君の見本にならないといけないわけで。指揮の方を向いているから彼がどんな顔をしているのか分からないけれど、下手だと思われていたら嫌だ。慣れていない曲でも、一生懸命練習している。それを否定された気分になる。

 まあ、全部私の妄想なんだけど。

 田尻君っていつも自信満々なんだよね。たしかに音を覚えるのは早いと思う。でも、それは他の子たちが初心者だから早く感じるというのはある。とにかく、私も負けません。というか、仲間だから。うん。

 そうだよ、私たちは仲間なんだ。ライバルの前に、全員で同じ方向を向く仲間。だから、誰かを蹴落とすわけじゃなく、自分自身が上を目指して、その結果一番上にいた人がソロになる。

 まあ、来年三年の時選ばれなかったら悔しいけど。
 けど、選ばれなかったら終わりじゃない。コンクールで優勝を目指すことには変わりはない。どんな状況でも歌いきる。それだけ。

 頑張ろう。

「ソプラノ、隣の人の音を聴いて合わせよう」
「はい」

 先生の指示がパートごとに飛ぶ。歌っている側ではあまり分からないけど、先生からするとばらばらなのだろう。まだ一年生が入ってきたばかりだから仕方がない。でも、なあなあにしていたら完成しないもんね。

 ちらりと横を向くと田尻君と目が合った。すぐに視線を逸らす。先生の指揮だけを見つめた。

「曲の雰囲気は分かったかな。頭の上から声が出ているイメージでね。爽やかな曲だから、あまり固い声にならないよう注意して」

 まだ始まったばかりだから、曲全体での指示が続く。楽譜の一ページ目にそれらを書き込んだ。

 今日の部活はこれで終わり。私はクリアファイルに入っている自由曲の楽譜を覗いてはによによと笑った。多分、今気持ち悪い顔をしている。顔に力を入れて真顔を意識する。そうしないと、変な先輩だと一年生に怖がられちゃう。せっかく入ってきてくれたんだもの、仲良くしたい。

「お疲れ様でした」
「お疲れ様」

 田尻君は今日も早く帰る。毎日一番に帰っている。誰かと帰ったこともない。

 できれば、一度くらい一緒に帰って交流を深めたいというか、どういう考えを持っているのか知りたいというか。

 別に私が知らなくてもいい。一年生の誰かと帰って、友だちになってくれたらそっちの方がいい。

「田尻君って友だちいるのかな」

 そんなことを想っていたら、つい帰り道で声に出してしまっていた。ぎょっとして横を見る。真奈美がきょとんとした顔でこちらを見ていた。

「あ、ごめん。失言。いや、違う。ただ、いるのかな~って思っただけで」
「あはは、慌てすぎ」
「はは」

 気まずい。しかも、田尻君に難しいところがあるって前から言っているので、嫌味っぽい感じに聞こえたかも。田尻君みたいなタイプは友だちいないんじゃないっていう遠回しなあれ。

「何かあった?」

 慌てて両手を振る。

「ううん。全然、何も無いよ。何も無いというか、慣れない野良猫が遠い距離から何かテレパシーを送っているみたいな」

「わ……分かるぅ~~~!」
「分かる!?」
「分かる。アルトでも分かるよ~」

 このぷすぷす燻った気持ちを分かってもらえて、思わず大きい声が出た。周りを見渡す。うん、こんな公共の場で話す内容じゃないや。