「うん」
私たちは、在来線の改札の前に立っていた。
終電間際、駆けこむように改札へ吸いこまれて行くひとびと。私たちも急がなければならない。
「なぁ」

照れると急にぶっきらぼうになるその声色が好きだった。
(とっても好きだった)
だから、
次の句を聞く前に、改札へ逃げこんだ。大衆の中へ。
(今でも好きだと言う気持ちをわかってほしかった。
きみの古いアルバムを汚したかった)

駅は、思惑の交差点。

かつて愛したひとをただ見かけるだけの邂逅もあれば、
愛の言葉もなく、ただふたりで思い出の上塗りをする邂逅もある。
何も言えない。何もできない。きみの言葉の続きを聞くことも、アルバムの続きをはじめる勇気も。
あぁ、本当に雑誌を買い忘れた。大切な今の恋の表面にヒビが入る。

ありふれたラブストーリーこそ、忘れがたい。
かんたんな歌詞の歌を何十年も覚えているように。
心のすみに追いやった痛みを起こしてはいけなかった。「会いたい」と願ってはいけなかった。
(涙をこらえてホームへ向かう)
きみはどの電車に乗るのか、ついぞ聞けなかった。

ホームから見える暗い空から白いなごり雪が降りはじめた。
列に並び、ただ、ぼんやりとそれを見上げる。
(きみはまたいつか、私を思い出すだろうか)
古くとも色あせず、消えることのないアザを撫でるように。
この駅でまた出会うだろうか。他人のふりをしてすれ違うだろうか。
(あの番号にはまだつながるのだろうか)

不意に、
右腕を強く引かれた。

「帰さない。
もう失いたくないから」

切実な願いを秘めた切れ長の目に、戸惑った私が映っていた。いつか、きみと同じ速度で青いフィールドを走る夢を見ていた。
ずっと、ずっと、ずっと -

「きみ、
何か言いたいことがあると黙りこむ。
この唇をふさぐんだ」

なごり雪のかけらが、乾いたきみのサンゴ色の唇をそっとうるおして消えた。
終電間際の電車がすべりこんできて、うるさいくらいのアナウンスが響くホーム。午後10時半。

駅。


2025.03.12
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