嘘でいいから、 抱きしめて




【怪我しないこと】というのは、極秘任務を行う上で不可能であるだろうから、という、彼なりの譲歩らしい。

実の子どものように可愛がってくれる健斗さんに迷惑も心配もかけたくなくて、黒宮家の人間は気をつける。
当主である結でさえ、昔のような無茶をしなくなった。

基本的に受動的で、人形のような結は健斗さんをはじめとする黒橋家の皆様にだけ、自ら言葉を発し、近付き、触れ、膝を折り、希う。

圧倒的なカリスマ性がある、というのだろうか。
ついて行きたい、人にそう思わせることが上手な健斗さんは、今回の千春の件を聞いて、どう思うだろうか。

「……あいつは、ほんっとうに」

黒いひとりがけのソファーに荒々しく座った男はサングラスを外すと、帽子も取り、髪を適当に手で梳かした。

「あ"ーーーー、イライラする。煙草吸いてぇ〜」

「…気持ちはわかるけど落ち着いて」

先程まで、氷点下かと思うほどに静かに怒っていた夏鶴が、男をなだめる。ハルは知らないはずがないのに、何故かいつも、悪い事をした自覚があると、夏鶴を怖がる。

(絶対、目の前のこいつのが怖いだろ)

秋良(アキラ)はそう思うが、ハルはそうじゃないらしい。

「あと、栄養失調だって」

「あ"?」

─低い声。夏鶴の眉が、少し動く。

「先生(勇真)が血液検査もしてくれたんだけど、極度の栄養失調になってるって」

明らかにブチギレている男と夏鶴のことを認識していないのか、淡々と続報を口にし続ける男─冬璃(トウリ)は目が見えていないのか。

なんか部屋が寒くなったのか、アイスもあと数口しかないのに、食べる気がしなくなってきた。

「……あいつ、合わせる気あんの?」

男が低い声で言いながら、夏鶴を見上げる。
夏鶴は目を伏せて、首を横に振る。

「“千春”は可愛いから、それを崩さない限りは無理」

「どうやったら届くんだ」

「知らないよ。─“あの子”が、どこを見てるのかなんて」

夏鶴の言葉に、シン、と、部屋が静まり返った。
冬璃はその部屋の空気も我関せず、書類の整理をし、男は腕を組んだまま、椅子の背もたれに全力で寄りかかりながら仰け反り、「あ"〜〜〜」と、何度目か分からない、苛立ちを隠せない声を上げた。

それを眺めながら、溶け始めたアイスの最後の一口を食べる。ブルッ、と、走る寒気に、腕をさすっていると、部屋の入口の扉がノックされた。

男は身体を起こし、帽子とサングラスをつけ直す。
そして、扉の向こうに許可を出した。