夢かうつつかわからないままふらふらと家に帰り、まんじりとしたまま朝を迎えた。
次の日は家の近くの中学校へ出勤し、ぼんやりとしているのは「二日酔い」だとごまかした。
(昨日見たものは何だったのだろう)
黒衣のひと。美しくつやめく長い黒髪を持つひと。黒い蝶のようなまつ毛を持つひと。
深い深い夜の湖のような目。踊る、おどる、おどる、真珠。

日本には動物に化かされる話がよくある。僕の国にもだ。そう言うことをあまり信じてはいないが、昨日のひとはあまりにも美しすぎた。
化かされたのかもしれないが、何もされていない。財布もスマートフォンも家の鍵もきちんと持っているし、職場はいつもと変わらない。先生方は親切で、生徒たちは元気で可愛い。いつもと変わらない。変わらない、のに。
まるで心のひだがひとつだけささくれたみたいに、昨日のひとが脳裏から離れてくれない。
黒衣。淡色パールのネックレス。単純に考えれば、誰かを亡くしたのだろう。その悲しみを川に流しに来たのかもしれない。
世界でいちばんきれいなのは「狂うひと」だと言ったのは誰だったか。そのひとは、愛するひとを失ったのか。それとも。

導かれるように今日も、同じ時間、その橋に来てしまった。

真珠のいくつかがまだ残っていたので、僕は、一生懸命それをひろいあつめた。手袋をしていてはやりにくいので、
凍えそうになりながら冷たい手で真珠をひろった。車のハイビームが僕を照らして去っていったが、僕では映画は作れない。道路にあるものはひろえない。
そのひとの首ではたくさんあったように思った真珠だったが、そうたくさんはひろえず、コートのポケットに入れた。凍るような川風が僕の全身を切り裂くみたいな寒さだ。月はない。代わりに味気ないオレンジ色のライトが点々としている。
歩いてくる。

向こう側から、そのひとが。
長い黒髪が揺れる。黒衣のすそが揺れる。ランウェーを歩くような姿勢のよさで。
(悲しみなどみじんも見せず)
そして、
僕の目の前に来て、そっと右手を差し出した。白い、白い、今にもすうっと消えてしまいそうな小さな手だった。