最後の旋律を君に

柔らかな春の風が、そっと頬を撫でる。
満開の桜が、舞い散る花びらとともに光を浴びて輝いていた。

律歌は深く息を吸い込み、目の前にそびえる大きな屋敷を見上げた。
そこは――奏希くんの家。

奏希くんがいた場所。
彼が夢を語り、共にピアノを奏でた場所。

6年ぶりに訪れたこの家は、以前と変わらぬ姿で静かに佇んでいた。
けれど、奏希くんがいないという事実だけが、そこにぽっかりと空いた穴のように感じられる。

「久しぶりですね、律歌さん」

玄関の扉が開き、奏希くんの母が微笑んでいた。
彼女は変わらず上品で、けれど少し年を重ねたように見える。

「本当に立派になられて……あなたの演奏、何度もテレビで拝見しましたよ」

「……ありがとうございます」

律歌は少し照れくさそうに微笑んだ。
22歳になった今、律歌は世界的に有名なピアニストとして活動している。
ヨーロッパを拠点に、世界各国でコンサートを開き、名だたる音楽祭にも招かれるようになった。
でも――。

「律歌さん、どうぞ。奏希の部屋へ」

律歌は深く頷き、懐かしい廊下をゆっくりと歩き出した。
一歩踏み出すごとに、6年前の記憶が鮮やかに蘇る。
彼と過ごした日々、彼の言葉、彼の笑顔――。

静かに扉を開けると、そこには変わらぬままのピアノ室が広がっていた。
大きなグランドピアノが、優雅に佇んでいる。
あの時と同じ、黒く艶やかな鍵盤。
奏希くんがいつも弾いていた、彼の音が詰まったピアノ。

律歌はそっと、鍵盤に触れた。
指先に伝わるひんやりとした感触。
それはまるで奏希の手のひらを思わせる温もりのようだった。

「奏希くん……私、ここまで来たよ」

小さく呟いた声が、静かな部屋に優しく溶けていく。

奏希くんが遺してくれた音楽を、律歌は今も奏で続けている。
彼の分まで、彼の夢だった音を、この世界に響かせるために。

目を閉じて、ゆっくりと鍵盤を押す。

奏希くんと一緒に弾いた、あの旋律が、空間に優しく広がる。
まるで彼が隣にいて、一緒に演奏しているかのように――。

「奏希くん、聴いてる……?」

涙が零れそうになるのを必死でこらえながら、律歌は微笑んだ。

音は消えない。
彼と紡いだ音楽は、これからも響き続ける。

そして、律歌はまた前を向いて、新たな旋律を奏で始める。

――奏希くんの想いと共に。