最後の旋律を君に

 最初の一音がホールに溶け込むと、静寂が優しく空間を包み込んだ。

 律歌の指が鍵盤をなぞる。

 そっと、まるで風が頬を撫でるように。

 高音の旋律が夜空に瞬く星のようにきらめきながら、静かに広がっていく。

 それに寄り添うように、奏希さんの低音が重なる。

 深く、温かく、まるで大地のようにしっかりとした音。

 二つの音色が絡み合い、ゆっくりと一つの物語を紡ぎ始めた。

 旋律が流れるたびに、律歌の心は軽くなっていく。

 不安も迷いも、過去の傷さえも、ピアノの音に溶けて遠ざかっていくようだった。

 今、ここにあるのはただ――奏でる喜び。

 響歌との共演で痛んだ心も、もう揺らがない。

 ピアノが、私を前へと進ませてくれる。

 静かに始まった演奏は、次第に力強く、輝きを増していく。

 流れるアルペジオは、水面を跳ねる光の粒のように舞い、

 奏希さんの和音がそれを優しく包み込む。

 二人の指先が呼応するたびに、音が生き物のように息づいていく。

 優雅で繊細で、けれどどこか儚く――

 まるで、夢の中を漂うような旋律。

 奏希さんの音がそっと律歌を導き、律歌の音が奏希に寄り添う。

 そして、クライマックスへと向かう瞬間。

 律歌の指が鍵盤を駆け抜ける。

 それに呼応するように、奏希さんの音も高鳴る。

 まるで夜空に打ち上がる花火のように、壮大な音がホールを満たした。

 客席が息を呑むのがわかる。

(もっと、もっと――)

 心が震える。

 まだ、この音を止めたくない。

 けれど、曲はやがて終わりを迎えようとしていた。

 静かな余韻がホールを包み、最後の和音がふたりの指から生み出される。

 温かく、穏やかで、まるで微笑みのような音色。

 それは――律歌が"ピアノを愛していた頃"の記憶を呼び起こす音だった。

 そして。

 最後の音が響き渡り、静寂が訪れる。

 一瞬の沈黙のあと、客席から大きな拍手が沸き起こった。

 まるで波のように押し寄せる歓声。

 律歌はゆっくりと顔を上げた。

 隣を見ると、奏希さんが穏やかに微笑んでいた。

 彼の瞳には、まるで「おかえり」と語りかけるような優しさが宿っている。

(――私は、やっぱりピアノが好きだ)

 そう、心の底から思えた。