神殺しのクロノスタシス7〜前編〜

こんなことは初めてだった。

仕事を躊躇ったことなんて、これまで一度もなかったのに…。

何故か、僕は動けなかった。

僕の脳裏に浮かんでいたのは、ルーデュニア聖王国に残してきた、仲間…だった人達の顔だった。

人を殺すのは良くないことだからやめなさい、と彼らに言われたことは一度もない。

それなのに、今、無抵抗の、罪のない人を殺すことを、何故か躊躇っていた。

この親子に、一体何の罪があろうか。

このあばら家を見るだけで分かる。

親子は何も、望んで危険な武器の密輸に加担している訳じゃない。

それ以外に生きていく手段がないから…それ以外に…お金を稼ぐ方法がないから。

生きる為に、仕方なく危険に身を晒し、武器を密輸しているのだ。

まともに職があれば。食べるものがあれば。こんなことはしなくて良かったはずだ。

それなのに…『アメノミコト』は…それに、僕は…。

何の罪もない親子を…こうして殺そうと、

その時。

「ごほっ…ごほっ、げほっ…」

「…!」

眠っていたはずの老婆が、突然咳き込んだ。

その咳は重く、痰が絡み、とても苦しそうな咳だった。

明らかに、肺を病んでいる人の咳だった。

咳を聞いて、隣で寝ていた息子も飛び起き。

背中を丸めて咳き込む母親を、急いで看病しようとした…。

ところで、暗闇の中に立ち尽くす僕に気づいた。

「だ、誰だ!?」

…しまった。

ターゲットを寝たまま仕留める前に、躊躇っていた為に起こしてしまった。

こんな失敗をしたのは初めてだった。

「お、お前…一体…」

僕が片手に持っている小刀を見て。

息子は目を見開き、そしてなおも激しく咳き込んでいる母親を庇うように、背中に隠した。

「た、頼む…。母さんは、母さんは殺さないでくれ。悪いのは俺なんだ。許してくれ」

「…」

大の大人が、まだ子供の僕に命乞いをしている。

滑稽な光景だが、彼はとにかく必死だった。

「こうでもしなきゃ、食べていけなかったんだ…。母さんは病気で、その薬代も…」

「…」

「も、もうやめる。そこにある武器は、全部持っていって良い。もう二度と、武器の売買なんてしないから」

「…」

「頼む、許してくれ。母さんだけは見逃してくれ…!頼む…!」

息子は床に膝と手をつき、頭を擦り付けるようにして謝罪した。

…子供を捨てる親もいれば、病気の親を救う為に土下座をする子供もいる。

それが、ジャマ王国という国だった。

僕がこの時、何をすべきか。

そんなことは分かりきっている。

僕が受けた任務は、「武器の密輸人を懲らしめろ」ではない。

「武器を密輸する親子を殺せ」と言われたのだ。

命乞いを聞く必要はない。ただ淡々と、いつも通り、命令に従ってこの親子を殺せば良い。

目を覚ましてしまったのは想定外だったが。

それでも、僕とこの親子の差は歴然だった。

息子には、まったく抵抗する意思はなかった。

こうなったら僕を返り討ちにしてやろう、なんて気概もなかった。

激しく咳き込んでいる老母を庇いながら、何とか母親だけでも助けてもらおうと必死に拝み込んでいた。

仮に彼が逆上して、包丁を持って突っ込んできたとしても。

その包丁を躱して、むしろ包丁を奪い取って彼の腹に突き刺すことくらい、赤子の手をひねるより簡単だった。

病に苦しんでいる母親の方は、もっと簡単だ。

ほんのちょっと首を絞めるだけで、あっという間に絶命するだろう。

今、この親子の命は、完全に僕の手のひらの上だった。