桜のころ

 一学期の終業式の日。
 この日も朝からうだるような暑さだったが、明日から始まる夏休みに生徒たちはみんな浮足立っているように見える。
 愛梨も日菜子と麻帆を誘って帰りにカフェでも寄ろう思っていたが、今日は二人とも用事があるからと振られてしまった。
 なんとなくそのまま帰りたくなくて、コンビニでサンドウィッチとドリンクを買って美季の墓地へ向かった。
 墓地近くの花屋にブルーの涼しげな花があったので、白い花と一緒に包んでもらう。
 
 あの花火大会から一週間経とうとしているが、隼人の濡れた髪、真っ直ぐな目、大きな手を思い出してはそれを打ち消すように頭を振る毎日だった。
 駅に着くまでも、電車から降りて家に帰る道でもずっと手を繋いでいた。
 今考えると恥ずかしすぎてどこかに隠れたい気持ちになる。
 でもあの時は愛梨も手を離したくなかった。
 男達に声をかけられ、久しぶりに味わった息が詰まるほどの恐怖。
 隼人が来てくれて涙が出るほど安心した。
(私、心の底から安心したんだ…)
 美季の墓に花を供えて手を合わせた後、桜並木の下のベンチに座った。
 すっかり夏の緑に変わった木々の下は少し風が抜ける。
 愛梨はタオルで額の汗を拭きながらスマホを見ると、隼人からメッセージが届いていた。
『今どこにいる?もう帰った?』
『美季さんの墓地にいる』
 既読になったと思ったらすぐに返信がきた。
『そのまま待ってて』
(なに…どういうこと…?)
 心臓の音が早くなり、また汗が出そうだった。
 少しでも落ち着こうとサンドウィッチを口にしたが、味がしない。
 味がしないままサンドウィッチを食べ終わると、並木道の向こうから隼人が走ってきた。
(ほんとに来た)
「待たせてごめん」と言って愛梨の隣に座る。
「すごい汗だよ」
 愛梨は思わずタオルで拭こうとしたが、隼人と目が合いその手が止まる。
「二人から聞いた。佑香の友達から呼び出されたこと」
「え?麻帆と日菜子から?」
「おまえ、俺と佑香のこと誤解してるみたいだけど、ただの友達だから」
 愛梨は目を逸らして少し俯く。
「でも、林間学校の夜二人で会ってたじゃない」
「見てたのか?」
 隼人は少し遠くを見てこう続けた。
「…実はあの夜、告白されたんだけど…」
 愛梨は胸を押さえる。
 また鼓動が早くなってきた。
「好きな子がいるからって、断った」
「え?」
 見ると隼人は耳まで真っ赤になっている。
「おまえのことだよ」
 愛梨はベンチに置いていたペットボトルを倒してしまった。炭酸水がこぼれる。
「あー、なにやってんだよ」
 慌ててタオルで拭く。
「俺らこの前からびしょびしょになってばっかだな」
 そう言って隼人は愛梨の手を取った。
「俺は…愛梨が好きだ」
 隼人の真っ直ぐな目を見て少し逸らしてしまう。
「でも、城見さんと花火来てたじゃない」
「前から中学のみんなと行くことになってたんだよ。佑香も友達としてみんなで一緒に行きたいって言ったんだ」そして、「佑香は、中学時代の仲間たちとはこれまで通り仲良くしたいって言ってた」と続けた。
 そして、愛梨の目をじっと見つめる。
「おまえは俺のこと、どう思ってる?」
「どうって…」
 目の奥がツンと痛くなってくる。涙が出ないよう必死で抑える。
 隼人は真っ直ぐな目を向けてくる。
「水野とは友達なんだよな?」
 愛梨は黙ったまま頷いた。
 色々な感情が頭の中をぐるぐるしているのは確かだった。
 隼人は俯いたままの愛梨の顔を覗き込んでこう言った。
「なぁ、愛梨。今度二人でどっか行こう」

 愛梨の頭の中がぐるぐるしている間、隼人はあっという間に予定を決め、来週末に一緒に出掛けることになった。
(あーもう、ほんとにどうすんのよ、私…)
 隼人からきたメッセージ画面を見ながらため息をつく。
(隼人って、こんなぐいぐい来る性格だっけ?)
 隼人とは友達に戻れるだけで充分、何度も自分に言い聞かせてきたつもりだが、好きだと言われた時は涙をこらえるのに必死だった。
 その時、待合室に穏やかな呼び出し音が流れ、テレビ画面に愛梨の番号が表示された。
 診察室に入ると、医師の三条が笑顔で迎えてくれた。
 アメリカに住んでいた時も何回か精神科クリニックに通ったが、やはり言葉の壁が大きく、薬を処方してもらう目的のほうが大きかった。
 日本に帰ってからは真知子の知り合いの医師の紹介で、女性医師が居るこの心療内科クリニックに定期的に通っている。
 やはり日本語で話せることは大きく、また、三条医師は真知子くらいの年齢で、いつも話しやすい雰囲気を作ってくれていた。
「最近発作の薬を飲むようなことはあった?」
 三条医師はパソコン画面を確認しながら訪ねた。
「飲んでないんですけど…」
 愛梨は先日の花火大会で男たちに絡まれそうになったこと、怖かったが同級生の男子が助けてくれたことを話した。
「そっか。夜の恐さは大丈夫だった?」
「はい。人も大勢居たし、お店もたくさんあって賑やかだったので。それから、帰りはその男子が家まで送ってくれました」
 三条医師は目を細めて頷いた。
 愛梨は少し間をおいてから続けた。
「…あの…この前告白されて…」
 顔が赤くなるのが分かる。
「その日家まで送ってくれた男の子?」
「はい…」
 愛梨は持っていたハンカチに目を落とす。
「どうしたらいいのか迷ってて」
 三条医師は少し顔を近づけて愛梨の目線に合わせようとしてくれた。
「告白された時、どう思った?」
「…嬉しかったです」
 顔が熱くなってきたような気がして、ハンカチを頬に当てる。
「あの事件のことは知られたくなくて…でも、何かのきっかけでバレてしまったらどうしよう、とか考えちゃって…」
「そうねぇ」
 そう言って三条医師は目線を少し天井に向けた。
「事件のことを話すか話さないかは木下さんが決めたらいいと思う。まずは自分の気持ちに正直になってみたらどうかな?」
「気持ちに正直に」
「そう。話すかどうかとか、話すタイミングとかは、また考えていけばいいんじゃないかな」