桜のころ

「マジで英語ヤバいんだけど」
 新田が英語のテキストをパラパラめくりながらため息をつく。
「ちょっと、いま藤島くんが説明してるんだから、あんたは黙ってなさいよ」
 日菜子が新田をキッと睨んだ。
 来週からテスト期間に入るが、どうしても数学が心配な愛梨と日菜子が隼人に泣きつき、急遽学校近くのハンバーガーショップで勉強会となった。
「新田は家で一人で英単語覚えたほうがいいんじゃない」
 麻帆の言葉も冷たい。
「藤島くんの説明、すごい分かりやすい」
 日菜子は思わず隼人と愛梨を交互に見る。
(藤島くん、ちょっと話しにくい雰囲気だったけど、愛梨が一緒だとぜんぜん大丈夫なんだよね…おっと)
 隼人が愛梨のノートに数式を書き込もうとして急接近した。
 愛梨の顔が赤くなる。
 麻帆も二人の様子を見て目を細めている。
 その時新田が店の入り口の方を見た。
「おーい、佑香」
 振り返ると佑香が友達二人と入ってきた。愛梨は思わず隼人から少し離れる。
 また林間学校での二人の姿が脳裏を過った。
 佑香は新田にだけ言葉を交わしてレジに向かって行った。
(そういえば、林間学校終わってから、城見さん、教室に来なくなったな)
 やはり二人の間で何かがあったと思わざるを得ない。
 愛梨は麻帆に「ノート見せて」と言って隼人の隣の席から離れた。

 テスト期間が終わり、心配していた愛梨の数学もなんとか平均点を超えることができた。
「今日は暑いくらいだね」
 日差しが眩しく、だんだん夏に近づいているのを感じる。
 日菜子も補習にはならずに済んでホッとしている。
「あ、新田から返信きた」
 麻帆が日菜子のスマホを覗き込む。
「今日、藤島くんもオーケーだって」
 日菜子が「テストお疲れさま会&藤島くん勉強教えてくれてありがとう会」を提案したのだ。
 林間学校以来、愛梨たち三人と隼人と新田で行動することが増えた。
 食堂から教室棟に続く渡り廊下に差し掛かると、背後から「木下さん」と声がした。
 振り返ると、佑香といつも一緒にいる友達二人が神妙な面持ちで愛梨を見ている。
「今日の放課後少し時間あるかな?話したいことがあって…」
 愛梨はまた林間学校での夜を思い出した。
「うん、少しなら…」
 二人は放課後の場所を指定して足早に去って行った。

「大丈夫?ほんとに私たち付いていかなくていいの?」
 麻帆が愛梨に何度も念押しする。
「大丈夫。二人は先に行ってて」
 日菜子も心配そうな表情だ。
「城見さんも来るんだったら三対一だよ。こっちも三人いたほうがいいって」
「いや、決闘じゃないんだからさ」
 愛梨はもう一度「大丈夫だよ」と言って校舎裏に向かった。
 音楽室から吹奏楽部の練習の音が聞こえる。
 そこには佑香の姿は無く、呼び出した友達二人だけだった。
「ごめんね、木下さん。突然呼び出して」
 愛梨は小さく息を吐く。
「佑香と藤島くんのことなんだけど…」
 そして、二人は交互に話し始めた。
 隼人の母が中学の時に亡くなり、佑香と新田でずっと支えてきたこと。
 佑香は隼人と同じ高校に行きたくて必死で受験勉強したこと。
 高校に入って思いを伝えようとしたが、これまでの友達関係が崩れるのが怖くてできずにいたこと。
「そんな時に幼馴染っていう木下さんが転校してきて…藤島くんと仲いいから、佑香、すごく気にしてて…」
 愛梨は二人の話に頭が揺さぶられたような気がした。
(ああ…私はぜんぜん分かってなかった…)
「私たちが言うことじゃないのは分かってるんだけど、最近の佑香、もう見てられなくって…」
「藤島くんのことただの幼馴染だと思ってるんだったら、少し考えてあげてほしい」
 去年の夏。
 日本に一時帰国した際、美季と墓地の話をしたことを思い出し、花を供えに行った。
 その時、制服姿の隼人が現れたのだった。
 愛梨は咄嗟に隠れ、隼人の後ろ姿を泣きながらいつまでも見ていた。
 隼人と同じ高校に行きたい。日本での生活を取り戻したい。
 愛梨の中に強い決意が芽生えた。
 心配する両親の反対を押し切り、今の高校の編入試験を受けた。
(高校に入って隼人と友達に戻れた…それだけで十分…)
 愛梨は胸を押さえて深呼吸する。
(私は二人に割って入る立場じゃない)

 ファミレスに着くと四人は店の前で待っていてくれた。
「ごめん、遅くなって」
 日菜子と麻帆は明らかに心配そうな顔をしている。
 隼人の優しい目を一瞬見たが、すぐに反らした。
 席に着いた愛梨は努めて笑顔で普段あまり食べない大きめのパフェを注文した。
 そんな愛梨を見て日菜子と麻帆にも笑顔が戻る。
 隼人とはなるべく目を合わせないようにした。
「もうこんな時間か」
 皆で時計を見る。店の外は薄暗くなりはじめていた。
 新田は自転車、日菜子と麻帆はバス停に向かったので、愛梨と隼人は駅まで歩く。
 愛梨のスマホが鳴った。
「ママ?…うん。そっち着く時もう暗くなってると思うから駅まで迎えに来て」
 隼人は電話を切った愛梨に尋ねる。
「これから何かあるの?」
「え?いや、何も無いんだけど…私、暗いのがちょっと苦手で…」
 愛梨はファミレスの時からずっと目を合わせない。
「俺、送って行こうか?」
「いいよ。ママが迎えに来てくれるし」
「…なんか、今日、変じゃない?」
 隼人が立ち止まった。
「え?…変って?」
「この前言っただろ。俺には遠慮するなって」
 愛梨は隼人を見上げた。
「…べつに…遠慮してないけど」
 隼人はまた歩き出した。
「この前からずっと聞きたかったんだけど、林間学校で倒れた時、水野と一緒だったんだよな。何かあったのか?」
 愛梨はスマホをぎゅっと握りしめる。
「…あの時はホントに山登りの疲れが出ただけ」
 そして駅の方を見る。
「もうすぐ電車来るよ。急ごう」

「なんだかなぁ…」
 日菜子は教室の窓の外を見ながらため息をついた。
 麻帆は弁当箱の蓋を閉めて愛梨の席を見る。
 今日愛梨は体調不良で休んでいる。
 佑香の友達二人からの話はやはり佑香と隼人のことだったようだが、詳しい内容は教えてくれなかった。
 ファミレスでのお疲れさま会以来、五人で集まっていないし、明らかに愛梨は隼人と距離を取っているのが分かる。
「愛梨はなんであんな頑固に、藤島くんのことをただの幼馴染って言うんだろうね」
「そもそも、愛梨ってあまり多くは語ってくれないよね。ちょっと秘密主義っていうか…」
 日菜子も愛梨の席を見つめる。
「転校してきてまだそんなに経ってないし、距離感がつかめないんじゃない? まぁ日菜子はなんでもかんでも喋っちゃうからね」
「ひどっ、そんなことないし」
 麻帆の目線が日菜子の背後に向いた。
「愛梨の休みの理由って何か聞いてる?」
 隼人がスマホを片手に二人に尋ねた。
「ちょっと頭が痛いってメッセージあったけど」
 愛梨にメッセージしようか迷っているようだった。
「明日の小テスト範囲のプリント、愛梨に渡しに行こうと思ってたんだけど…」
 麻帆は日菜子に目配せする。
「私たち用事あるから、藤島くん届けてくれないかな」
 隼人は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに頷いてプリントを受け取った。

 愛梨はリビングのソファに横になり、日菜子と麻帆にメッセージを返した。
『復活したよ 明日は行けると思う』
 そしてウサギが元気に跳びはねているスタンプも送る。
(転校してまだ少ししか経ってないのに、ダメだなぁ)
 林間学校の時も心配をかけてしまったし、隼人との関係も気を遣ってくれているのが分かる。
「だだいま」
 玄関のほうから真知子の声がした。
「愛梨、隼人君来てくれたわよ」
(え?隼人?)
 愛梨が飛び起きると、真知子の後ろから隼人がリビングに入ってきた。
「明日の小テストのプリント持ってきたんだけど…」
 愛梨は言葉が出ない。
 そして、ドアのガラスにぼんやり映った自分の姿を見て唖然とする。
 少しよれたTシャツに短パン、髪はボサボサだった。
「ちょっと待って、着替えてくる」
 真知子は隼人に「座って待っててね」と言いながら目は笑っている。
 隼人はソファの隅の方に遠慮がちに座った。
「朝ちょっと頭痛いって言ってたんだけど、もう大丈夫そうね」
 真知子は麦茶の入ったグラスをテーブルに置いた。
 隼人は「すみません」と言ってグラスを手に取り、真知子を見上げる。
「あの、愛梨って、よく体調崩すんですか?」
「…うん…時々、ね。あの子前から何にでも全力投球って感じでしょ。だから時々疲れが出るんだと思う。この前の林間学校でも山登りで張り切りすぎちゃったのよ」
「すみません…俺、一緒に登ってたのに、体調に気付けなくて…」
 申し訳なさそうな隼人の顔を見て真知子は慌てて手を振る。
「隼人君がそんな責任感じることないって。久しぶりの日本の学校行事に、自分の体調考えず無茶した愛梨が悪いのよ」
 そしてこう続けた。
「愛梨が自分自身で乗り越えないといけないのよ…」

 愛梨はブラシで髪をとかしながら鏡を覗き込む。
 目が少し腫れぼったい感じがするが、リップを塗ってリビングに戻った。
「あれ?ママは?」
「買い物行ってくるって」
 隼人はソファの隅に座り、バツの悪そうな顔をしている。
「…ごめん、突然来て。…マンションの下で真知子さんに会って…」
「あ、こっちこそごめん。ママが強引に連れてきたんでしょ」
 少し沈黙が続いた後、隼人がクスッと笑った。
「え?」
 愛梨は視線を上げる。
「いや、おまえ、わざわざ着替えなくても、今さらっていうか」
「なによ」
「さっきの爆発頭、もう見たからさ」
 愛梨は顔を真っ赤にして両手で頭を押さえた。
 隼人は立ち上がって愛梨の顔を覗き込んだ。まだクスクスと笑っている。
「思ったより元気そうでよかった」
 愛梨の鼓動がまた早くなる。ますます顔が赤くなってくる気がした。
「そうだ、美味しいブドウがあるの。一緒に食べよ」
 愛梨はこれ以上顔を見られないよう、冷蔵庫に向かう。
 隼人と距離を置くようにしていたのに、来てくれたことが嬉しくて、ブドウで引き留めるようなことをしてしまった自分の行動に矛盾を感じていた。

(ちょっと、これ、小テストってレベルじゃないんだけど)
 愛梨は隼人が持ってきてくれたプリントを開いて勉強机に向かっていた。
 スマホが鳴る。
 麻帆から『藤島くんにプリント託しました』とメッセージが届いた。
 更に続けて『余計なことしたかもしれないけど、わたしと日菜子は愛梨を応援してるよ』
(もう二人には私の気持ち、バレてる)
 隼人の近くにいる限り気持ちを隠すのは無理かもしれない。
 爆発頭を見られたことはかなり恥ずかしかったが、隼人が心配してくれたことが嬉しかった。
 さっきの隼人の顔を思い出して胸が締め付けられる感じがしたが、すぐさま佑香の友達の言葉が頭をよぎった。
 壁に貼ってある桜の木の写真に目をやった。
 アメリカに住んでいた時から毎日見ていた桜だ。
(私…日本に帰ってきてよかったのかな…)