桜のころ

 それから三日後、愛梨は学校に姿を見せた。
 いつもの笑顔、のように見えるが、日菜子や麻帆はそれが無理して作られたものだと分かった。
 教室で隼人と目が合った。
「おはよう」
 愛梨は笑顔だった。
 友達だよ、と念を押されたような気がした。
 隼人はスマホを取り出し、『今日の放課後、話がしたい』と愛梨にメッセージを送る。
 胸は苦しかったが、ある決心をしていた。
 
 昨日、隼人は真知子とカフェで会っていた。
 真知子がアメリカから送ってきた手紙を読んだことを伝えた。
 真知子は運ばれてきたコーヒーに目線を落として口を開いた。
「あの手紙にも書いたけど、隼人くんが責任感じることないからね。中学生の保護者である私たち親の責任だから…」
 そして、こう続けた。
「隼人くんにはこれからの未来がある。愛梨の心の回復もいつになるか分からないなかで、隼人くんが抱える必要はないのよ」
「でも、俺は、もう愛梨一人に辛い思いをさせたくないんです」
 隼人は強く真っ直ぐな目で真知子を見た。
「二人で、乗り越えていくのは…だめですか」
 真知子は何も言わずコーヒーカップを口に運び、しばらく黙っていた。
 そして静かに、ゆっくり告げた。
「愛梨の主治医の先生から聞いたんだけど…。あの子、隼人くんにあの事件のこと伝えてもいいかなって、思い始めてたみたい」

 美季の墓地の前で待っていると、花を手にした愛梨がやってきた。
 笑顔は無かった。
 愛梨は花を供え、手を合わせる。
「どうしても、もう一度愛梨と話がしたかった」
 隼人の思いつめたような声に、愛梨は思わず下を向く。もう泣かないと決めてきたのだ。
 隼人は短く深呼吸してからこう告げた。
「愛梨、ごめん。中二の時の…あの事件のこと、知った」
 墓地に冷たい風が吹いた。
 愛梨は驚きの表情で隼人を見る。
「ほんとにごめん。あの日、俺が愛梨を送らず病院に戻ったから…」
 隼人の目には涙が溢れていた。
「隼人…」
 愛梨が供えた白い花が風で揺れている。
「…だから、隼人にだけは知られたくなかった。ぜったい自分を責めると思ったから…」
 愛梨の頬にも涙が流れた。
 隼人は愛梨を抱き締めた。
「ごめん、愛梨。怖い思いさせてごめん。ずっと言えずに一人で抱えさせて、ごめん」
 愛梨の涙は止まらなくなった。
 そのまま声を出して小さい子どものように泣いた。
 隼人は愛梨の華奢な体をしっかり抱き締める。
 あの事件の日からの苦しみが、その体を通して伝わってくるようだった。
 隼人は水野の言葉を思い出した。
「愛梨は俺を責めるために日本に戻ってきたんじゃないって分かってるよ。離れてた時間を取り戻したかったんだよな」
 隼人は愛梨の肩をそっと掴み、顔を覗き込んだ。
「本当は、俺に助けてって言いたかったんじゃないのか?」
 愛梨の目の前にあの時の光景が蘇る。
 いきなり後ろから抱きつかれ、声も出なかった。
 その場に倒され、荒い息遣いの男が愛梨の髪を掴む。
 『隼人』
 愛梨は心の中で何度も呼んだ。
 『隼人、助けて』
 愛梨は泣きじゃくりながら隼人の目を見た。
「助けて…ほしかった…」
 隼人はしっかりと愛梨を抱き締めた。
「助けられなくて、ごめん」
 そのまましばらく二人で泣いた。
 愛梨をしっかり包んで受け止めてくれる隼人の腕の中は、とても穏やかで暖かかった。
「中学の、時から、隼人と一緒の、高校に、行きたいって思ってたの」
 隼人は愛梨の涙を手で拭った。
「だから、日本に戻って、隼人と一緒の高校に通いたかった」
 冬の灰色の空から柔らかな光が差してきた。