桜のころ

 校門をくぐると校舎横は一面桜色だった。
 うなじに当たる風はまだ少し冷たいが、確実に春の匂いをまとっている。
美季(みき)さん、見ててね。大丈夫、深呼吸、深呼吸)
 木下愛梨(きのしたあいり)は真新しいブレザーの制服の上から胸を撫でる。そしてもう一度大きく深呼吸して校舎のガラス扉を開けた。
 担任の先生が二年三組と書かれた教室の前で足を止めた。
「この学校に転校生が来るのは珍しいから最初はみんな戸惑うかもしれないけど、二年生は行事も多いしすぐに慣れると思うよ」
 先生の後ろに続いて教室に入ると、視線が一斉にこちらに向けられた。
(居た…)
 窓側の一番後ろの席。前席の生徒より頭一つ出ていて相変わらず機嫌が悪そうな表情の男子生徒。
 愛梨は目だけで教室内を見回し、最後にその男子生徒を見つめた。
「木下愛梨といいます。よろしくお願いします」
 一番後ろの男子生徒は驚いたように目を見開いた。
 愛梨が斜め前の空いている席に座っても視線を逸らすことができない。
「木下さんはお父さんの仕事の都合で、中学二年生から二年半ほどアメリカの学校に通っておられました。慣れるまでみんなでフォローしてあげてくださいね」
 そう言って先生が教室を後にすると、途端に質問タイムが始まった。
「アメリカの高校の授業って全部英語?」
「うん、高校は現地の学校に行ってたから」愛梨は笑顔を意識しながら答えていく。
「じゃあ英語ペラペラ?」「日常会話程度なら」「すごい」
「中学はどこ?」
 その質問に愛梨の表情が一瞬曇った。
 チャイムが鳴った。
「始業式始まるよ」何人かが時計を見る。
 愛梨は小さく深呼吸し、二人の女子に連れられて体育館へ向かった。

 墓地は高台の上にあった。
 敷地を囲むように桜の木が植えられており、墓地へ続く桜並木には花見を楽しんでいる人がちらほらいる。
 愛梨はピンクと紫で束ねられた花を手に桜並木を見上げた。
 ふと視線を前に向けると、桜並木を歩いてくる一番後ろの席の男子生徒。
隼人(はやと)
 男子生徒は愛梨が持っている花に視線を落とす。
「お前…それ…」
「うん…今日は月命日でしょ」

 藤島隼人(ふじしまはやと)との出会いは小学六年生のクリスマス前だった。
 愛梨は、母が働く総合病院で開催されるクリスマス会に参加していた。
「愛梨、メンバー一人足りなくなった」
 母・真知子は院内携帯を片手に、ハンドベルを準備する愛梨の元へ駆け寄ってきた。
 この総合病院では毎年病棟ごとにクリスマス会の出し物を披露していて、看護師リーダーである真知子の発案で今年はハンドベル演奏に決まったのだ。
 メンバー構成は病棟職員とその家族の計八人。
「とりあえず誰かピンチヒッターを探そう」
 愛梨はロビーに集まってくる患者やその家族を見回す。
 一人の男の子と目が合った。
 隣には車椅子に座った母親らしき人。
「あの、突然ですが、ハンドベル演奏に出てもらえませんか? 急に一人出られなくなって」
 男の子は驚いた顔で隣の母親を見る。
「急に出ても大丈夫?この子音楽得意じゃないんだけど」
 母親も男の子を見上げる。
「大丈夫です。簡単なパートですし、私が隣で合図しますから」
 笑顔で答える愛梨に母親もつられて笑顔になった。
「隼人、出てあげたら。お母さん、ハンドベル演奏楽しみにしてたの」
 隼人は母親と愛梨の顔を交互に見てから渋々頷いた。
「隼人くんのパートは少しだけだし、私が合図したらベルを振ってね」
 愛梨はサラサラの長い髪をかきあげ隼人の顔を覗き込みながら言った。
 隼人は黙って頷いたが、急に緊張が込み上げてきた。
ロビーの観客席はほぼ埋まっていて、立ち見の病院職員もいる。一番前には隼人の母親が嬉しそうにこちらを見ている。
 お馴染みのクリスマスソング一曲。
 つたないながらも演奏は成功に終わった。
「木下さんの娘さんだったんだ。話はよく聞いてたの」
 隼人の母・美季はクリスマス会が終わるとすぐ、愛梨と真知子の側まで車椅子を走らせてきた。
「二人とも同じ六年生よ」
 真知子の言葉に愛梨と隼人はお互いを見る。
「同い年だったんだ」
 愛梨はまだ演奏の興奮が冷めやらぬ様子だ。
 母親二人がお互いの子どもを「しっかりしてるねぇ」と褒めあっている横で、隼人は『ずっと笑ってるよな』、愛梨は『ぜんぜん喋らないよね』というのが、お互いの第一印象だった。

 母・美季は隼人が小学三年生の頃から入退院を繰り返していて、愛梨の母・真知子は同い年の子どもを持つ共通点から、担当患者ではないももの何かと気にかけていた。
 美季も自分の病気のせいで子ども達に不自由をかけていると、院内で真知子を見つけては想いを吐露してきた。
 この年のクリスマス会がきっかけで愛梨はたびたび美季の病室を訪れるようになった。
 愛梨の父は仕事で帰りが遅く、母も看護師という職業柄家を空けることが多かったため、一人っ子の愛梨の足は自然と病院に向くことが多くなっていった。
 美季は裁縫や編み物を教えてくれ、隼人の姉の美乃里(みのり)も大学の合間に病室に来ては、愛梨を妹のように可愛がってくれた。
 隼人も出会った頃はほとんど話してくれなかったが、徐々に会話が増えていき、いつしか二人で院内のコンビニ前の椅子に並んで座ることが当たり前になっていった。

 愛梨は持ってきた花を墓前に生けた。
 先ほど隼人が供えた白い花に合っている。
「もしかして半年くらい前にも、花供えてくれた?」
 隼人は手を合わせる愛梨に尋ねた。
「あ、うん。こっちに来る用事があって、寄ったの」
「父さんか姉ちゃんに墓の場所、聞いてた?」
 愛梨は立ち上がって桜並木を見つめる。
「実は、美季さんが亡くなる少し前、今みたいな桜の時期だったんだけど…」
 その日は隼人も姉の美乃里もまだ来ておらず、病室には美季と愛梨の二人だけだった。
「愛梨ちゃん、あそこは墓地なんだけど、桜、すごくきれいでしょ」
 病室の窓からは、遠くに墓地の桜並木が見えていた。
「あれだけ桜が綺麗だったらたくさんの人がお花見に来て楽しそうだし、普段忘れてても、桜の季節になったら思い出してみんなお墓参りに来てくれそうよね」
 この時美季はベッドで横になっている時間が長くなり、裁縫や編み物も愛梨の作業を見ているだけの時間が多くなっていた。それでも愛梨は、美季がいつも通りの優しい顔だったので、他愛もない日常の話に戻した。

 風が吹いて桜の花びらが愛梨の柔らかい髪に降ってきた。
 そっと花びらを手に取る。
「母さん、そんなこと話してたんだ」
 隼人も花びらを見つめている。
「あの時はまさか美季さんが、こんなことになるなんて想像もしてなかったから深く考えてなかったんだけど…半年前日本に来たとき、思い出して」
「姉ちゃんや父さんと、誰が花供えてくれたんだろうって話してたんだよ」
「ごめんね、その時はバタバタしてて…すぐ帰らないといけなくて…」
 愛梨はもう一度墓前に手を合わせた。そして手桶に汲んできた水を墓石にそっとかける。
 隼人も愛梨の隣で手を合わせ、空になった手桶を持って「行こうか」と言った。
「まさか、うちの高校に転校してくるなんて、びっくりした…」
「私もびっくりしたよ。一番後ろの席の男子がガン見してくるなぁと思ったら隼人だったんだもん」
「お前、ガン見って」
 愛梨は隼人の横に並ぶ。
「不愛想な感じもぜんぜん変わってないよね」
「お前は昔からそうやってズバズバ言うところ、変わってないな」
(二年半か)
 六年生で出会った頃は愛梨のほうが少し背が高かったのが、中学二年になる頃には追い抜かれ、今は隣で見上げている。
「腹減ったな」
 隼人が交差点の向こうのコンビニを見ている。
「あのソーダアイスってまだ売ってる?病院のコンビニでよく食べてた」
「たぶんあると思うけど、行ってみるか」

「懐かしい。ほんと二人でよく食べてたよね」
 愛梨は棒付きのソーダアイスを一口頬張った。
 桜が満開で晴れているとはいえ、ベンチに座る二人の顔に時々冷たい風が当たってくる。
「そう言えば、お前のアイスに当たりが出て、もう一本もらったのをまた一人で全部食べたら案の定冷えて、病室で母さんの服着こんでたよな」
 愛梨は吹き出しそうになる。
「あった、あった。隼人が半分くれって言ったのに結局私一人で食べちゃって、自業自得とか言われまくってたんだよね」
 隼人はアメリカンドックを口に咥えたままコンビニの袋からホットドリンクを出し、愛梨のバッグの上に置いた。
「ありがと」
(不愛想だけど、こういう優しいとこ、ぜんぜん変わってないな)
 食べ終わったソーダアイスの棒を見ると、何も書かれていなかった。
 愛梨は棒をじっと見つめている。
「…隼人…ごめんね…」
 隼人はペットボトルのキャップを回す手を止めた。
「美季さんが亡くなって一番つらい時に向こうに行っちゃって」
 いつも笑顔の愛梨の、こんな表情を見るのは初めてだった。
「ほんとにごめんなさい。お葬式にも行けなくて、黙って行っちゃって…」
 愛梨の手に涙が落ちた。
「……いいよ、アメリカ行くこと、急に決まったんだろ?親の都合だし、仕方ないって」
 隼人は穏やかな口調でそう言ってくれたが、愛梨の涙はしばらく止まらなかった。