恋忘れ

「冬羽、何か飲む?」

「あぁ、うーん。私は大丈夫かな。」

「そう?」

目の前のパソコンから視線を外すことができない私は軽く返事をして仕事を続けた。

私を記憶を取り戻してから月日は足早に流れて行き、取り巻く環境は足早に変わっていった。
仕事も前よりやりやすくなり遅れた分を取り戻そうと毎日忙しくしている。

そして私は今でもまだ暁さんと過ごしている。
あの雨の日、陽翔君が再び私元にやってくることはなかった。

もしかしたらなんて期待をしていたわけじゃなかったけれどもしもう一度戻ってきてくれたのなら、ちゃんと謝ってそれで、大好きだったと伝えたかった。
だけどそんなものは私のエゴでしかないと気づいてすぐにその考えは捨てたのだ。

退院の日暁さんは手を差し出して一言''帰ろう''と微笑んだ。まるで何事もなかったかのように。
暁さんはとても優しい人だから、わざとそうしてくれているのだとすぐに分かった。
だからその手を取ったのは紛れもなく自分の本心からくるものだった。

「冬羽、やっぱり少しは休憩したら?」

パソコンの画面に集中していた私の隣にいつの間にか腰を下ろして暁さんは呆れたように微笑んでいた。

「あぁ、うん。そうだね、そうしようかな。」

一度集中してしまうと時間を忘れてしまうのが私の悪い癖だ。
ふと時計に目をやればパソコンで仕事をし始めてからもう三時間は経とうとしていた。

「うん。そのほうがいいよ。」

その声を聞きながら私はキッチンに向かい小さなケトルでお湯を沸かす。
その間に紅茶を探しているとふいに暁さんが訊ねた。

「後悔してる?」

それはカチッとケトルのお湯が沸いたことを知らせる音とほぼ同時だった。

「後悔?」

「俺と一緒にいることを選んで、後悔してる?」

暁さんがどんな顔をしているのかは見えないけれどその声は少しだけ震えているような気がした。
私は彼にまだこんなことを気にさせているのか。

「後悔?そんなのするわけないでしょ。」

気の利いた言葉ひとつも出てこなくて今の本心をそのまま伝えるしかないのが情けない。

一瞬動きの止まった手を再び動かしてケトルのお湯を注いだ。紅茶の良い香りが鼻をくすぐる。

「そうかな。」

「そうかなって。どうしてそんなこと聞くの?」

紅茶をテーブルに置いて再び暁さんの隣に腰を下ろすと手首を掴まれる。

「冬羽はいつも本当のことを言わないよね。」

「本当のこと?何それ」

暁さんに触れられた手首が熱を持って緊張しているのが自分でも分かった。

「そうやっていつも誤魔化す。俺を傷つけないように、心配させないように。」

「そんなことな…」

「そんなことあるよ。あの雨の日から冬羽は俺をちゃんと見てくれてる?ねぇ、何をそんなに迷ってるの?」

"何をそんなに迷ってるの"とそう問いかける目の前の顔はとても悲しそうだった。

何て答えればいいのだろう。
何を言ってあげればまたいつもみたいに微笑んでくれるのだろう。

「ねぇ、冬羽。もし駄目なら俺のことちゃんと振ってもいいんだよ。」

「…何を、言ってるの?私は暁さんのことちゃんと好きだよ。一緒にいたいと思ってあの日、暁さんの手をとった。決めたのも選んだのも私なんだよ。」

「だったらなんで、なんでいつも…」

そこまで言うと暁さんは黙り込んでしまう。
俯いて私から手を離してそれきり何も話さなくなった。

「何て言えば納得してくれるの?私はいつも本当のことを言ってるよ。好きだよ、ってそれだけじゃだめなのかな…」

それでも何も言わない暁さんに堪えきれず、私は無言でその場を離れると上着も着ずにそのまま外へ飛び出した。

最悪だ、と思った。
自分が上手くできないせいでまた誰かを傷つけてしまう。

もっとちゃんと気持ちを伝えられていたのなら。
もっと暁さんに寄り添うことができていたのなら。
言葉足らずの私はいつだってあの人を傷つけてしまう。

スマホも持たず行く当てもないままどこまで歩いてきてしまったのだろう。

見覚えのない公園のブランコにひとり腰を下ろした。

「何してるんだろう、私。」


「ほんとだよ。」

俯いたらこぼれそうな涙はその声に搔き消された。

「え?」

見上げるとそこには見慣れたはずの、もう会うことはないと思っていた姿があった。

「え?じゃねーよ。何してんのこんなところで。」

「…陽翔君。なんでここに」

「だから質問に質問で返すなって。」

陽翔君は笑う。
知っている、見慣れたその笑顔に心臓が痛くなった。

「あは。ごめん。」

「で?何で?」

真っ直ぐなその声に私はすぐに目を逸らした。

「陽翔君には関係ないことだよ。」

なんとなく自分に苛立ってあるのもあってぶっきらぼうな言い方をしてしまう。

そんな風にこの人に当たりたいわけじゃないのに。

「んなこと言うなよ。普通に傷ついたんだけど?」

そう言って寂しそうに陽翔君は笑った。
昔だったらすぐに怒ってそれから私も素直に謝れなくて喧嘩になっていたのに。

「冬羽?」

私が黙り込んだので不思議に思ったのか少し焦ったような声が頭の上から聞こえてきた。

「ごめん、私嫌な言い方したかも。」

「あぁ。いいよそんなこと。気にすんな。」

「なんか陽翔君変わったね。」

本当に変わった。
前よりうんと優しくなった。私を傷つけないようにしてくれているような。
そんなの自惚れかもしれないけれど。

「変わったって?」

「大人になったなぁって。」

「なんだよそれ。もともと大人ですー」

「そうだよね。」

あんなことがあったのにまた陽翔君とこんなにも穏やかな会話ができるなんて思わなかった。

「本当にどうしたんだよ。何かあっただろ。」

何かあったと聞いてくるわけではなく、言い切って聞いてくるのが陽翔君らしいなと思う。

「何でもない、けど」

暁さんとのことは私たちふたりの問題だ。
陽翔君には言う必要のないことだ。

「けど?」

「スマホ持ってくるの忘れちゃって帰りの道がわかんないんだよね。」

適当な嘘をついて笑って誤魔化した。
そんな私に陽翔君はきっと気づいている。

「…じゃあ大通りまで送ってやるよ。」

それなのに何も聞かずに呆れた顔をしてそう言ってくれた。

「ごめんね。ありがとう。」

いつも思っていた。

''陽翔君ごめんね。それからありがとう''

あの時言えなかった言葉をこんな形で言うことになるなんて。

ブランコから立ち上がって私は陽翔君に見えないように少しだけ泣いた。

「冬羽、寒いだろ。これ着とけ。」

並んで歩き出した歩道でそう言いながら自分の来ていたパーカーを私にかけてくれる。

もう秋に差し掛かる夕方の道は確かに肌寒かった。

「でも、悪いよ。」

陽翔君は上着を返そうとする私の手を押し込め自分が自然に車道側になるように歩くと

「いいって。冬羽昔から寒がりじゃん。」

と微笑んだ。

「そんなことないよ。」

「だってよく寒いーって言って夏とかエアコンのリモコン俺から取り上げてただろ。今でもそうなの?」

「今は、そんなことないもん。」

「本当か?暁さんも大変だな。」

陽翔君は何も思わないのかな。
私と暁さんが一緒にいること。
もう本当に何も…

色んなことを考えているのに。
色んなことを話したかったのにうまく言葉が出てこない。

「なぁ冬羽。俺がこれから話すこと、何にも言わないで聞いてほしい。」

陽翔君は足を止めて私に向き直った。
恐ろしいくらい人通りの少ない小道で私たちはまるでふたりきりだけみたいだと思う。

私が黙って頷くと陽翔君は少し息を吸い込んで話し始めた。

「あの時は悪かった。こんな風に謝るなんて今更だけど本当にそう思ってる。口喧嘩した朝、確かに仕事でイラついてて。優しい冬羽に甘えて酷い言葉もたくさん言ったし泣かせた。
こんなこと言ったってただの言い訳にしかならないけどあの時ちゃんと冬羽の話を聞かなかったこと、後悔してる。」

そんなことないよ。私だって大人気なかったし。

「冬羽があの後すぐ事故に合って、目が覚めたと思ったらさ記憶を無くしてて。しかも俺のことだけ。あぁ、よっぽど俺のこと忘れたかったんだろうなって。冬羽が辛い時に側にいるべきだったのに、俺は自分のことだけで…。」

陽翔君は泣いていた。
泣かないでいいんだよ。

「俺なんかどんなに辛くたっていいのに。それなのに、忘れられてるって思うと冬羽を守ることよりも怖さが勝って逃げて…っ」

そんなことない。
そんなことないよ。

「今でもあの時、冬羽の手を離したこと後悔しない日はない。好きだよ、今でも。だけど俺じゃ多分この先も冬羽のことを幸せにできない。」

「陽翔君」

私が名前を呼ぶと陽翔君は涙でぐしゃぐしゃな顔をして悔しそうに笑った。

「私たちもう本当に終わりなの?もう一回、やり直せるって言ってくれないの、っ。」

私も涙で言葉が詰まってしまう。

ここまで言ってやっと気づいた。
私はやっぱりこの人を愛していると言うことに。

「言えるかよ、そんなこと。」

「なんで?私が陽翔君のこと裏切った、から?」

ずっと聞きたかったことを今なら聞ける気がしてやっと聞いた。

「裏切る?冬羽、もしかして暁さんと付き合ったことそんなふうに思ってたのか…?」

「だって、私陽翔君のこと忘れて、それに気づきもしないで何も言わずに」

「馬鹿だな、裏切られたなんて一度も思ったことないよ。」

あたたかい陽翔君の指が私の涙を拭った。
真っすぐ優しい目で私を見ていた。

「冬羽。俺は冬羽が幸せならそれだけでいいんだ。その幸せが俺じゃなくなってもお前が笑えるんならそれでいい。俺のせいで、冬羽はあんなに傷ついてきた。今度は冬羽が優しくされる番だ。」

「そんなの陽翔君がいなきゃ、無理だよ。」

「そんなことないだろ。冬羽の生活に俺はもういないんだ。」

「っ、いるよ…いるもん…」

「いないよ。もうこれで最後にしよう。」

子どもみたいに駄々をこねる私を腕の中に引き寄せきつく抱き締めた。

「大丈夫。暁さんなら絶対に冬羽を泣かせたりしない。何があっても守ってくれるから。だから、もう泣くなよ。今までありがとう冬羽。これからは本当さよならだ。」

泣きじゃくる私をさらにきつく、もう本当にこれで最後だというように抱き締めた。

「…私が嫌だって言っても元には戻れないの?もう好きだよって伝えたら、いけないの?」

「あぁ、っ…そうだよ」

陽翔君の声は涙のせいで震えていた。

もういい加減私はこの人を自由にしてあげなければならないのかもしれない。本心からそう思った。

「っ、分かった。ねぇ陽翔君。大好き、だったよ。どんな形でも私は本当に幸せだったよ。ありがとう。さようなら」

他にどんな言葉を尽くしてももうきっと意味がない気がしてそれ以上は言わなかった。