恋忘れ

それはあまりにも突然だった。
彼と他愛のない話をしていると突然頭の隅で声が聞こえてきた。
泣いているような声で私を呼ぶ彼の声。その声は紛れもなく今私の目の前にいる人だった。

でもどうして彼が泣いているのか私には分からなかった。
それなのに私はこの人の声を今まで何度も近くで聞いていた気がする。
思い出せそうなのにそれができないまま自分の意識が段々と薄れて行くのを感じて目を閉じた。

''なんでいつもそういうこと言うの?''

''は?なにが''

''陽翔君はいっつもそうじゃん。仕事が忙しいのなんて分かってるよ。ただ、たださ、もう少しふたりで話せる時間とかほしいって言ってるだけだよ?''

''話してるだろ。俺もう行かないと''

''ちょっと待ってよ。こんなんじゃ一緒にいても意味ないよ…"

''…冬羽、ごめんって。泣くなよ。帰ってきたらちゃんと話そう。今日は早く帰ってくるから。"

''嘘つき、そう言ってこの前の帰りも日付超えてたくせに。"

''はぁ、何でそういう事言うわけ?俺もう行くわ’’

「待って!行かないで!」

叫んでから気づいた。ここがあの日ではないこと。
目の前には誰もいなくて知らない無機質な天井があることに。

「なに、ここどこ。」

まだ微かに違和感のある頭を押さえて記憶を遡る。

「そうだ私…」

思い出した。
海で倒れたんだ。
その時、側には陽翔君がいたこと。そして陽翔君が恋人だったということも。
暁さんと付き合っているということも。

「雨宮さん、目が覚めました?」

その声にハッとして扉に目を向ければ看護師さんが優しく私に微笑んだ。

「あ、はい。」

「良かった。一緒に来ていた彼、とっても慌てていて落ち込んでいるみたいだったからここの部屋番号教えてしまったけど良かったですか?」

「えっと、その人って身長が高くてスラっとしていて黒髪の人でしたか?」

「あら?違うわよ。黒髪じゃなくて明るい茶色の髪の毛で背は普通くらいじゃないかしら。」

看護師さんは不思議そうな顔を私に向けてくる。
彼、と言っていたのでてっきり暁さんだとばかり思っていた。
だけど伝えられた特徴は暁さんとは正反対のもので。

「そう、ですか。」

「はい。まだ安静にしていてくださいね。今日一日は入院になると思うので。」

「分かりました。」

私が頷くと看護師さんは軽く会釈をして部屋を出て行った。
そのすぐ後だった。病室の扉が数回ノックされたのは。

返事をするとほとんど同時に扉が開いてその先を見つめれば苦い顔をした陽翔君がそこには立っていた。

なんて呼べばいいのか咄嗟に判断できなくていつも通り’’日生君’’とそう呼んでみる。

陽翔君は曖昧に微笑んでみせるとそのまま暁さんの話をちらつかせていた。

あぁ、そんな顔しないで。
私はどうしても聞かずにはいられなかった。
何で海に来ていたのか。
もし、もし私と同じで今日が何の日か気づいていて来ていたのならってそう期待する心もあった。

でも陽翔君は散歩だと言って私から目を逸らす。
どうして本当のことを言ってくれないの?

「嘘。それ嘘だよね」

「嘘って…なんでそんなこと」

「日生君、ううん。陽翔君のことならなんでも分かるよ。」

あなただって、私のこと何でも分かるんでしょう?
私たち五年も一緒にいたんだから当たり前だよね、
そんな言葉が口をついて出そうだった。

陽翔君は私を真っ直ぐ見つめたまま黙り込むとその場に立ちすくんだ。
私はやっとその時、今更思い出したってもう遅いってことを思い知った。

もうこれから先、私が涙をこぼしても陽翔君は私に触れてはくれないんだと分かる。
今どれだけ私が謝っても彼を深く傷つけてしまったことは消えない事実だ。
手を伸ばせば簡単に触れられることができる距離なのに今は誰よりも遠く感じる。

少し遅れて病室に入ってきた暁さんは戸惑いながらも私の側へ寄ると優しい眼差しで大丈夫かと宥めてくれた。

陽翔君はそんな私たちのことを見ていられないというような顔で視線を逸らした。

暁さんが陽翔君を連れて病室を出ようとしても私は何も言えなかった。

本当は「待って、連れて行かないで」とそう思っているのに。

だけど目も合わせないふたりを見ているとそんなことは言い出せなかった。

ふたりが病室を出て行ってしまうと急にひとりぼっちになったような気がしてしまう。
これからのことに少し怖くなってベッドにもぐりこんだ。

夢も何も見たくない。
今だけは静かに眠りたいと願いながら瞼を閉じた。


次に目を開けると暁さんの後ろ姿が視界に入ってきた。
その後ろ姿に呼びかけると驚いて駆け寄ってきてくれる。

私の口からこぼれるごめんねに気付かないふりをしてくれているのに、何で私はまたこの人を傷つけてしまうのだろう。

静かに頷いて私の言葉の続きを待ってくれる優しさが今はただ痛かった。
いくら記憶がないからと言ってこんなことを続けても誰も幸せになれないのに。
これ以上この人の優しさに甘えてはいけないのに?

そう思うのに何でそんな優しい目で私を見るの?

「冬羽が好きだからだよ。」

嘘も迷いもないその瞳が私を真っすぐ見つめている。

「冬羽が辛い時は俺も辛い。冬羽が幸せそうだと俺もすごい幸せなんだ。大丈夫、全部ゆっくりでいい」

暁さんはそう微笑んで私の涙を手のひらで拭うと抱き締めた。
私の迷った手はその背中に回せないままでいる。

だからもう今のうちに、

「早く嫌いに、なって」

そんな言葉が口をついて出た。

これで最後の強がりにさせてと願うのに

「ごめん。そのお願いだけは聞けそうにないや。」

彼は叶えてくれる気はないみたいだった。

「ねぇ、冬羽。もし嫌じゃなければ、まだほんの少しでも俺に望みがあるなら側にいさせてくれませんか?」

真っすぐなその瞳が私の心を掴んで離してくれない。

「好きなんだ。他のどんなことに代えても、冬羽のことを手離したくない。」

こんなに思い詰めた顔で、私はどうやってこの人を嫌いになればいいのだろうか。どうしたらこの人は私を嫌いになってくれるのか分からなかった。

"他のどんなことに代えても''だなんて言ったこの手を一体誰が振りほどけるというのだろう。

最低だと自分でも分かっている。
都合が良いということも。

だけど、私はこの人からの愛を手離せないのだとそう思った。