恋忘れ

陽翔side

冬羽が目の前で倒れた。

自分の指先が恐ろしく冷えていくのを感じて怖くなって震える。

だけどやることは、やれることは体が分かっているようでポケットのスマホを取り出して救急車を呼んだ。

眠っているように綺麗でこのまま目を覚まさないのではないか、と背筋に冷たい汗が流れる。

俺は震えた指先でそっとその手に触れた。

「え…」

無意識だろうけれど少し、ほんの少しだけ握り返してくる小さな手をぎゅっと握って声をかけ続けた。

数分して救急車が到着して俺は状況説明のために一緒について行くことになるらしかった。
暁さんに連絡を、と思っていると救急隊員の一人が当たり前のように聞いてくる。

「お付き合いされてる方ですか?」

「は、え、いえ…違います。」

声が震えた

言葉に詰まってしまいそうで小さく息を吸った。

「そうですか。ご友人でよろしいですか?」

「そう、です」

そうだ、今の冬羽の恋人は俺じゃない。

「分かりました。では、状況についてなのですが…」

そこから先は何を聞かれたのかあまり覚えていない。
目を閉じたままの冬羽と暁さんに送り途中だったメッセージがいつの間にか送信されていた事実だけが残った。

病院に着いて冬羽が処置室に運ばれていくのを不安な気持ちで見送るのとほとんど同時に反対側から暁さんが走ってくるのが見えた。

気まずくて目線を下に落とす。

「陽翔どういうこと?冬羽は?」

息を切らしながら俺の両肩を掴んでそう聞いた。

焦っているのか、怒っているのかどちらともとれるような声色だった。

「冬羽は今処置室に…俺もあんま、よく分かってなくて」

「そう、だよな。ごめん、取り乱した。」

暁さんは額に自分の拳を当てて目を閉じた。
待合の椅子にストンと座ってうなだれながら

「冬羽と会う約束してた?」

隣に座れば、というような仕草をしながら落ち着いた声でそう言う。

俺のことは見ずに目線は下に向けたままの暁さんの表情が読めなくて少し怖くなった。

「いえ、してませんよ。海でたまたま…」

言いかけて咄嗟に口を噤んだ。

「海で?」

しまった、と思った。

俺と冬羽の記念日をこの人は知っているのだ。
そしてその記念日というのが今日だった。

「はっ、なんで…今日…」

驚きと戸惑いが混ざったように言葉を吐き捨てた。
こんな言い方をする暁さんを俺は初めて見た。
どんな言葉でも今はこの人の気持ちを動かすことが出来ないと分かって俺は黙っていた。

「…冬羽は、もうずっと前から全ての記憶を思い出す準備が出来ているのかもな。」

唐突に暁さんは呟いた。

もしそれが本当になるならどんなにいいか。
でもそれでも叶わないほうがいいこともこの世にはあるのだということを俺は分かっている。

「たとえそうであったとしても俺は思い出した事が全てじゃないと思ってます。このまま暁さんと幸せな毎日を、温かい毎日を送ってほしいと思ってます。」

嘘じゃない

こんな弱くて嘘だらけの俺のことなんて思い出さなくていい。

「陽翔がそう思っていても冬羽はずっと俺を見て他の人の影を重ねてる。それが、お前だって気づいてるか?」

「そんなこと」

「あるよ。冬羽はどこかで自分の大切なものが俺じゃないことに気がついてるよ。」

暁さんは寂しそうに微笑んだ。

「心のどこかで分かってるんだよ。目の前のことをいくら誤魔化せても気持ちは誤魔化せないから。陽翔だってそうだろ?」

「俺は…」

俺はなんだと言うのだろう。

あの日、記憶を失った冬羽と向き合うこともせず
ずっと逃げて目を逸らして…
それなのにまだ冬羽のことを諦めきれないでいる自分が本当に情けない。

「すみません。ご家族の方はいらっしゃってますか?」

医者らしいその声にハッとして振り返ると俺より先に暁さんが立ち上がって内容を聞きに行った。

「恋人でも大丈夫ですか?」

"恋人"その言葉に息が詰まりそうで聞こえないふりをする。

「ええ。大丈夫ですよ。こちらに」

そんな会話が聞こえてふたりは去って行ってしまう。
一人取り残された俺はとくにすることもなくソファに深く腰掛けた。

深いため息が漏れ出す。
暁さんのさっきの言葉を思い返す。

「心は誤魔化せない、か。」

俺だって分かってるんだよそんなこと。
ふたりで住んでいたあのアパートから冬羽がいなくなってから、ひとりでは広すぎるあのベッドだって
ふたりぶん作ってた朝食がひとりぶんになったことだって全部最初からなかったみたいに綺麗に片付いても
散らばった服の残骸から冬羽の姿を思い出してしまって未だに捨てられないことだって。

でも、あの時の俺には冬羽を手離すことしかできなかったから。

もし、向き合っていれば

もし、素直になっていれば

今とは違う未来があったかもしれないなんて考えても答えは出ない。

「分かってんだよ…」

そんな俺の呟きは看護師さんの明るい声に掻き消された。

「あら?さっき一緒に付き添って来てくれた人よね?彼女、目を覚ましたみたいだから良かったら病室に行ってあげて。」

看護師さんは完全に俺と冬羽の関係を誤解しているようだったが訂正する間もなく、部屋番号を言い渡し笑顔で去って行った。

どうするべきかなんて考えていても足は勝手に言い渡された病室へと向かってしまう。
あっという間に病室の前まで着くと扉を開けるかどうか、途端に迷いが生じる。

握りしめた手のひらにグッと力が入るのが分かった。

深く息を吸って扉をノックすると中から冬羽の澄んだ綺麗な声が聞こえてきて俺はその扉を開いた。