「海なんて久しぶりに来たな。」
暁さんの家からバスに揺られて一時間程度。
なぜだか今日、どうしてもここへ来なければならない気がしていた。ここへ来れば忘れている何かを思い出せる気がする。
初夏の日差しが照り付ける今日は暑くて自然とサンダルを脱いで海辺へと歩き出していた。
薄手の白いワンピースの裾が風に揺れて私は左手で麦わら帽子を押さえる。
平日の真っ只中、人も多くない浜辺の砂を裸足で踏むたび小さな子どもの頃に戻ったみたいで懐かしい気持ちになって海の水に足を浸してみたりする。
そこから先へ歩くのは諦めて濡れた足を乾かすために
ぽつんと置かれている木の丸太の上に腰かけると静かに打ち寄せる波と一緒に心まで冷えていくような気がしてしまう。
なんでこんな気持ちになるのかはちゃんと分かっているつもりだ。
それはきっと、私に記憶がないからだということを。
半年前に軽い事故に合い頭を打ったことが原因で、その時の後遺症で事故に合う前の数年間の記憶だけがぽっかりと抜け落ちてしまっているのだ。
ただ思い出せるのはかろうじてこの海と近くにある私の住んでいたアパートだけだった。
あの事故の日以降私の生活は一変した。
仕事は事情を話して分かってもらうことはできたけれど、また全て一から覚え直し。
突然様子が変わった私に周囲の人たちも距離を取ったり取らなかったりと友人関係も段々離れて行ってしまった。
何か思い出せないものかと始めのうちは色々試してみたけれど、そのどれも意味がなく私を余計に不安にさせるだけだった。
何もかも嫌だと、何をしても怖いとすっかり塞ぎ込んでしまった私に寄り添ってずっと側にいてくれたのが今の恋人の暁さんだった。
暁さんは私の大学時代の先輩だった人で、抜け落ちてない記憶に残っている人たちのひとりだった。
入院中、病室で不安な日々を過ごす私の元へ毎日やってきてはその日の面白い話や私がどんな人だったか教えてくれて''焦らなくていい''''冬羽が辛い時は俺も一緒に''そう言って何度も私の失いかけた心を取り戻してくれた。
そんな彼と付き合ったのは私が退院した日で、今ではそうなるのが必然だった気もする。
「付き合ってほしい」と私に言った彼は、柄にもなく頬を赤く染めてその姿があまりに愛おしくて断る理由など私にはなかった。
だけどこのままでいたい、このままでもいい毎日そう思う反面、心のどこかで抜け落ちてしまった記憶を取り戻したいという気持ちもあるのは確かだった。
二年もそうやって過ごして来たのに未だに私は何も思い出せないままだ。
「…乾いちゃった」
裸足のままの足はすっかり乾いて私はサンダルを履き直す為に手元の麦わら帽子を置いた。
サンダルを履いて立ち上がった瞬間だった。
突然ぶわぁっと強い風が吹いて手に持とうとしていた麦わら帽子が飛んで行ってしまった。
慌てて追いかけるけれど中々追いつくことができずに少し遠くのほうに飛ばされて行くのを私は見つめることしかできずにいた。
その場所へ向かうけれどまた風が吹いたら今度こそ捕まえられない所に飛ばされてしまいそうだな、と思っていると見覚えのある姿がその麦わら帽子を拾ってくれているところだった。
「おー、何してんの?こんなところで。」
帽子についた砂を払いながら近づいてくるその人は太陽の光がよく似合うそんな人だ。
「日生君!ありがとう。」
日生陽翔(ひなせはると)、彼も私を昔からよく知る友人のひとりだ。
そんな彼のところに駆け寄りお礼を言う。
「日生君は?何してたの?家、こっちの方面じゃないのに。」
「質問に質問で返すんじゃねぇよ。」
ぶっきらぼうな口調でも彼が優しい人だと分かっているからか不思議と嫌な気持ちにならない。
「それもそうだね。まぁ私は散歩ということで。」
曖昧な私の返答には納得しないようで
「んなこと言って、昔のこと思い出せないかななんて思ってたんだろ。」
「はぁもう、日生君には何でもお見通しだね。」
「お前のことなら分かるよ、何でも。」
そっぽを向いたまま小さくこぼす。
「…え?」
私のことをなんでも分かるなんて日生君がどうしてそんなこと言うのか分からなくて見つめるとすぐに目を逸らされた。
「お前結構分かりやすいから。」
「あ、なんだそういうこと?そんなに分かりやすいかな。暁さんにもそんなこと言われたことないんだけどな。」
「そうかよ。のろけ話は結構ですー。」
そう言って顔の前で手を払う日生君に前にもこんなことあったような気がして一瞬黙ってしまう。
「どうした?」
「あ、いや、なんでも。日生君はここまで何しに?」
「まだ聞く?俺も散歩。」
どちらからともなく歩き出すと日生君は私の歩幅に合わせてくれた。
「何その適当な答え。」
「いんだよ俺は。てか今日暁さんは?」
日生君も暁さんと大学の先輩後輩らしくて前から仲が良いと聞いていた。
らしくて、というのは何故だか私は日生君のことを全然覚えていないからだ。
「今日は家にいると思うよ。そうだ、日生君も来る?夜ご飯一緒にどう?」
「いかねーよ。なんで行くと思ってんの。」
「だめかぁ。」
砂を蹴っていじけたふりをする私に日生君は笑った。
「ったく、全然変わんないよなそういうところ。」
「…えー?前もこんなだった?」
目の前で懐かしそうに目を細めて微笑む日生君に何て返すのが正解か分からなくて曖昧に笑って見せた。
「…ごめん。今のは俺が悪かった。」
真面目に頭を下げる姿に可愛いらしい人だなと思ってしまう。
「そんな、日生君のせいじゃな…」
その言葉を発した瞬間だった。
急に頭が痛いような気持ち悪いような感じがしてその場にしゃがみ込んでしまう。
それと同時に頭の隅で声がする。
''ごめん…ごめん…俺がちゃんと側にいれば…冬羽、目覚ましてくれよ"
日生君?泣いてるの?
何、これ
何で…
「冬羽?!大丈夫か?」
そんな私に驚いて心配そうに焦ったような顔で私の瞳を覗き込む日生君。
そうだ、あの時もこの人はこんな顔してた。
待って、あの時っていつ?
「…日生君、ごめ…」
言葉にならないまま
目の前の声が遠くなる
私はそこで意識が途切れた
暁さんの家からバスに揺られて一時間程度。
なぜだか今日、どうしてもここへ来なければならない気がしていた。ここへ来れば忘れている何かを思い出せる気がする。
初夏の日差しが照り付ける今日は暑くて自然とサンダルを脱いで海辺へと歩き出していた。
薄手の白いワンピースの裾が風に揺れて私は左手で麦わら帽子を押さえる。
平日の真っ只中、人も多くない浜辺の砂を裸足で踏むたび小さな子どもの頃に戻ったみたいで懐かしい気持ちになって海の水に足を浸してみたりする。
そこから先へ歩くのは諦めて濡れた足を乾かすために
ぽつんと置かれている木の丸太の上に腰かけると静かに打ち寄せる波と一緒に心まで冷えていくような気がしてしまう。
なんでこんな気持ちになるのかはちゃんと分かっているつもりだ。
それはきっと、私に記憶がないからだということを。
半年前に軽い事故に合い頭を打ったことが原因で、その時の後遺症で事故に合う前の数年間の記憶だけがぽっかりと抜け落ちてしまっているのだ。
ただ思い出せるのはかろうじてこの海と近くにある私の住んでいたアパートだけだった。
あの事故の日以降私の生活は一変した。
仕事は事情を話して分かってもらうことはできたけれど、また全て一から覚え直し。
突然様子が変わった私に周囲の人たちも距離を取ったり取らなかったりと友人関係も段々離れて行ってしまった。
何か思い出せないものかと始めのうちは色々試してみたけれど、そのどれも意味がなく私を余計に不安にさせるだけだった。
何もかも嫌だと、何をしても怖いとすっかり塞ぎ込んでしまった私に寄り添ってずっと側にいてくれたのが今の恋人の暁さんだった。
暁さんは私の大学時代の先輩だった人で、抜け落ちてない記憶に残っている人たちのひとりだった。
入院中、病室で不安な日々を過ごす私の元へ毎日やってきてはその日の面白い話や私がどんな人だったか教えてくれて''焦らなくていい''''冬羽が辛い時は俺も一緒に''そう言って何度も私の失いかけた心を取り戻してくれた。
そんな彼と付き合ったのは私が退院した日で、今ではそうなるのが必然だった気もする。
「付き合ってほしい」と私に言った彼は、柄にもなく頬を赤く染めてその姿があまりに愛おしくて断る理由など私にはなかった。
だけどこのままでいたい、このままでもいい毎日そう思う反面、心のどこかで抜け落ちてしまった記憶を取り戻したいという気持ちもあるのは確かだった。
二年もそうやって過ごして来たのに未だに私は何も思い出せないままだ。
「…乾いちゃった」
裸足のままの足はすっかり乾いて私はサンダルを履き直す為に手元の麦わら帽子を置いた。
サンダルを履いて立ち上がった瞬間だった。
突然ぶわぁっと強い風が吹いて手に持とうとしていた麦わら帽子が飛んで行ってしまった。
慌てて追いかけるけれど中々追いつくことができずに少し遠くのほうに飛ばされて行くのを私は見つめることしかできずにいた。
その場所へ向かうけれどまた風が吹いたら今度こそ捕まえられない所に飛ばされてしまいそうだな、と思っていると見覚えのある姿がその麦わら帽子を拾ってくれているところだった。
「おー、何してんの?こんなところで。」
帽子についた砂を払いながら近づいてくるその人は太陽の光がよく似合うそんな人だ。
「日生君!ありがとう。」
日生陽翔(ひなせはると)、彼も私を昔からよく知る友人のひとりだ。
そんな彼のところに駆け寄りお礼を言う。
「日生君は?何してたの?家、こっちの方面じゃないのに。」
「質問に質問で返すんじゃねぇよ。」
ぶっきらぼうな口調でも彼が優しい人だと分かっているからか不思議と嫌な気持ちにならない。
「それもそうだね。まぁ私は散歩ということで。」
曖昧な私の返答には納得しないようで
「んなこと言って、昔のこと思い出せないかななんて思ってたんだろ。」
「はぁもう、日生君には何でもお見通しだね。」
「お前のことなら分かるよ、何でも。」
そっぽを向いたまま小さくこぼす。
「…え?」
私のことをなんでも分かるなんて日生君がどうしてそんなこと言うのか分からなくて見つめるとすぐに目を逸らされた。
「お前結構分かりやすいから。」
「あ、なんだそういうこと?そんなに分かりやすいかな。暁さんにもそんなこと言われたことないんだけどな。」
「そうかよ。のろけ話は結構ですー。」
そう言って顔の前で手を払う日生君に前にもこんなことあったような気がして一瞬黙ってしまう。
「どうした?」
「あ、いや、なんでも。日生君はここまで何しに?」
「まだ聞く?俺も散歩。」
どちらからともなく歩き出すと日生君は私の歩幅に合わせてくれた。
「何その適当な答え。」
「いんだよ俺は。てか今日暁さんは?」
日生君も暁さんと大学の先輩後輩らしくて前から仲が良いと聞いていた。
らしくて、というのは何故だか私は日生君のことを全然覚えていないからだ。
「今日は家にいると思うよ。そうだ、日生君も来る?夜ご飯一緒にどう?」
「いかねーよ。なんで行くと思ってんの。」
「だめかぁ。」
砂を蹴っていじけたふりをする私に日生君は笑った。
「ったく、全然変わんないよなそういうところ。」
「…えー?前もこんなだった?」
目の前で懐かしそうに目を細めて微笑む日生君に何て返すのが正解か分からなくて曖昧に笑って見せた。
「…ごめん。今のは俺が悪かった。」
真面目に頭を下げる姿に可愛いらしい人だなと思ってしまう。
「そんな、日生君のせいじゃな…」
その言葉を発した瞬間だった。
急に頭が痛いような気持ち悪いような感じがしてその場にしゃがみ込んでしまう。
それと同時に頭の隅で声がする。
''ごめん…ごめん…俺がちゃんと側にいれば…冬羽、目覚ましてくれよ"
日生君?泣いてるの?
何、これ
何で…
「冬羽?!大丈夫か?」
そんな私に驚いて心配そうに焦ったような顔で私の瞳を覗き込む日生君。
そうだ、あの時もこの人はこんな顔してた。
待って、あの時っていつ?
「…日生君、ごめ…」
言葉にならないまま
目の前の声が遠くなる
私はそこで意識が途切れた
