はっと目が覚める。
音々は急いで身体を起こすと、動悸がしている胸に手を当てた。
一体全体なんて夢を見させられるのか。あんなにも昔の出来事を、こんなときに想い出すなんて。あれから時間が経って二人とも変わったのだ。空いてしまった距離を今さらどうする気にもなれないし、それはおそらくあちらも同じのはずなのに。
溜まっている息を吐く。しばらくして落ち着いてくると、音々は頭の上を触ってみた。やはりと言うべきか、もはや当然というべきなのか、そこには猫耳が鎮座していた。
「こっちも夢だったらいいのにな……」
そんな独り言も静けさに消える。保健室は物音ひとつしていなかった。それを不思議に思って音々がおずおずとカーテンから顔を出してみると、先生は席を外しているのかどこにも見当たらない。その代わりに自分の弁当袋がデスクに置かれているのを見つけて、確認しに向かえば「出かけています。お弁当はクラスの子が持ってきてくれました」という書き置きが横に残されていた。
壁に掛かった時計は午後二時四十分ほどを指し示していて、ずいぶん眠っていたようだった。お昼休みはとっくに過ぎ去り、なんなら五限目も終わっていて、いつのまにか六限目の真っ最中になっている。途中から登校したのに最後までまともに授業を受けられず、音々は罪悪感が込み上げてきた。だが、今さら教室に戻っても息が詰まるだけなのは目に見えていて、うっすらと空腹を感じた音々はとりあえず昼食を取ることにした。
それから少しすると保健室の扉がガラリと開き、先生が救急箱を手に下げて戻ってきた。
「あ、おはよう桐谷さん」
お米をちびちび口に運んでいた音々は会釈を返す。
「怪我しちゃった子の手当てに行ってたの。桐谷さんはよく眠れた?」
もぐもぐしながら音々は頷く。
「ふふ。ならよかった」
先生は椅子を引っ張って音々の隣に座ると、日誌を書き始めた。その様子を眺めていた音々は思ったことを訊いてみた。
「先生は、わたしみたいな人ってほかに知ってますか」
「桐谷さんみたいな人?」
先生は首を傾げてこちらを見てくるが、音々が頭を俯かせたことで察したようだった。
「ああ! なるほどね。うん、知ってるわ」
「ほんとですかっ」
「長いこと保健室の先生やってるもの。これまでに二人いたから、桐谷さんで三人目ね」
せり上がってくるスカートの後ろを押さえつけながら、音々は続ける。
「その二人はどうだったんですか」
「どうっていうのはつまり経緯のこと? うーん、ちょっと待ってね」
先生は思案するように黙り込んだ。何をどう言葉にすればいいのか考えているようで、音々が待っていれば、やがて話してくれた。
「一人目が男の子で、二人目が女の子だったの。二人とも保健室に来てくれたわけじゃないから詳しいことは言えないのだけど……でも、つらかったんだと思う。男の子のほうは犬の耳と尻尾が生えたのをきっかけにいじめられたらしくて、不登校になって最後には転校しちゃったの。女の子のほうは兎で、絶対に誰にも知られたくなかったみたいで最初から学校を休んで、一週間も経たないうちに切っちゃった」
「切った?」
「生えた部位を手術で切除したの」
ひゅっと空気を吸い込む。
「時間が経てばちゃんと治るって聞くけど、その子はどうしても早く元通りになりたかったみたい」
「……」
「桐谷さんも手術で切っちゃいたい?」
「え。いや、わたしはその、そういうことができるって、今初めて知りました」
「そうなの? でも乱暴なやり方だし、色々リスクがあるみたいだからお医者さんのほうから勧めたりはしないかも」
音々は唾を飲んだ。
「あの、それってお金とか、どれくらいかかるんですか」
「そこまでは知らないの。ごめんなさい」
「そ、そうですよね。すいません」
訊くべきではないことまで訊いてしまった気がして、音々は視線を先生から逸らした。母親が作ってくれた弁当箱を視界に入れると、心苦しい感情が湧いてくる。とても裕福とは言えない生活を送っているのに、自分のわがままで母親に負担をさらに強いるのは後ろめたかった。
「桐谷さん、先生ね」
すると、語りかける先生の声がした。
「後悔してるの。男の子のことも、女の子のことも。もっと考えれば二人のために何かできたかもしれないのに。ちゃんと大人が寄り添っていれば違ったのかもって今でも思ってる。だから、桐谷さんが来てくれて本当に嬉しいの。先生にできることならなんでもサポートするからいっぱい頼ってちょうだいね」
そんな優しい声色に音々が顔を上げると、先生と目が合った。先生はまるで木漏れ日のような眼差しをしていた。
「そういえば、さっきのお茶まだ飲む? ちょっと冷めちゃったけど」
「いいんですか」
「いいのいいの。なんだったら全部あげちゃう。先生も飲んでもう残り少ないから」
そのあたたかさに少しでも長く照らされていたくて、音々は昼食の時間をさらに延ばした。
そしてお弁当を食べ終え、先生との談笑を楽しく過ごしていると、窓のむこうで雨がぱたぱたと降り出した。傘を忘れてしまった音々は思わず心の中で悪態をついたが、貸し出し用の物を借りればいい話だったので「九州のほうは台風が迫ってるみたい」という先生の話題のほうを広げた。そうすれば授業終了のチャイムが鳴って、本日の時間割りもホームルームを残すのみとなった。
「戻る?」
先生の質問に、音々は小さく答える。
「ホームルームが終わってからにしたいです」
「じゃあ、今のうちに綺麗になっちゃいましょ」
先生はバッグからおもむろに化粧品を取り出した。容器を開き、下準備を整えると「桐谷さん、目を瞑って動かないでね」と音々に近づく。その言葉どおりに音々が両目を閉じれば、顔にパフパフとクッションを押された。頬、目元、額、顎とまんべんなく塗られ、なじませるようにふんわりと抑えられる。それが済むと次はブラシを当てられて、音々はくすぐったくて動きそうになるのを堪えた。
「はい。これでよし」
音々が瞼を上げると、先生は満足げに手鏡を見せてきた。そこには先程までやつれていたとは思えないほど肌色の整った女子が映っていて、音々はこれが自分なのかとびっくりする。
「どう?」
「すごい、です」
「ならよかった。でもみんなには内緒ね」
口元に人差し指を立てて頬を緩ませる先生に、音々も自然と同じ表情をしていた。
ホームルームの時間が過ぎると、吹奏楽部の演奏が校舎に響き始める。それを聞いた音々は重い腰を上げ、名残惜しみながら保健室を出た。別れ際に先生が「いつでも来ていいからね」と送り出してくれ、勇気をもらえたおかげで過度に怯えることもなく廊下を歩くことができた。どこかの運動部が筋トレでもしているのか「ろーく、なーな、はーち」という掛け声を耳にしながら階段を上り、お手洗いに寄り道してから教室に向かう。
そうして、その扉を開けると、見覚えのある人物が立っていた。
「……なんでいるの」
和樹だった。
物思いに耽るように外を眺めていたが、音々の呟きに振り返ってくる。二人の視線が、合った。音々は心臓がうるさくなるのを感じた。
「待ってた」
「なんで待ってるの」
「これ、渡してくれって頼まれたんだ」
和樹は置いていたリュックからルーズリーフをいくつか取り出す。遠くからでも、何か書かれているのが分かった。音々は受け取りに行き、内容を見る。ルーズリーフには今日の授業の板書が数ページに渡って写し取られていた。
「これ、誰が?」
「知らない。けど、みんなで手分けしたんじゃないか。筆跡が違うから」
見返してみると、たしかに文字の癖が科目ごとで異なっていた。
「あと、これも」
和樹はもう一枚、折りたたまれた紙を渡してくる。なぜ別々に渡すのか音々は訝しんだが、紙を開いてみれば理解できた。それはクラスメイトからの謝罪文だったからだ。一文二文の詫びる言葉と書いた者の名前が十数名分も載っていて、音々は目を丸くする。
「音々」
その呼び声に音々が顔を向けると、和樹は頭を下げていた。
「ごめん。俺も悪かった」
音々は、胸がきゅっとなった。
「や、やめてよ。わたし別に謝ってほしいなんて思ってない」
「でも筆箱ぶん投げるくらい怒ってた」
「あれは怒ったから投げたんじゃなくて! 我慢できなくてぶわーってなっちゃっただけだからっ。とにかく頭を上げてよ、誰かに見られて勘違いされたらどうするの」
そう言われて和樹はようやく姿勢を戻したが、依然として不甲斐なさそうに唇を噛んでいる。
「……わたしも、投げつけてごめん」
「俺の自業自得だから音々は気にしなくていい」
そのくせ、こっちの言葉には耳も貸してくれない。
「なんなの。和樹が謝りたいだけじゃん」
「そんなつもりで言ってない」
「なら嘘でもいいから受け取ってよ。それで済むのに」
音々の言い分に和樹はしばらく黙ると、そのうち無言で頷いた。
教室に二人が佇んでいる。音々も和樹も動かず、沈黙が流れている。雨の降りしきる音がする。保健室にいたときよりも勢いが増したのかざあざあと音を立てていて、ふと「強くなってきたな」という言葉が聞こえた。
音々は何も言わずに帰り支度をまとめると、廊下に出た。今回は呼び止める声はしなかった。その代わり、リュックを背負った和樹が後ろを追ってくる。
「ついてこないで」
「俺も帰るんだよ」
「部活は?」
「休んだ」
珍しいと思いながら階段を下る。部活に打ち込みたいと公言しているのにわざわざ休む必要があったのか。そんなことを考えたが、和樹にこれっぽっちも興味がなかったのを思い出した音々はその意識をわし掴んで強引に投げ捨てた。
それから一階の踊り場に出れば「わたし、傘借りてくるから」と言い残して、音々は近くの職員室へ早歩きする。扉を叩いて素早く中に入ると、音々に気づいた事務員さんが「どうしましたか?」と丁重に話しかけてくれた。ところが、傘を忘れたことを伝えると、事務員さんは「傘、もう貸し切られてるんです」と困った顔をした。音々も同様だった。
結局、音々は何も変わらない状況で職員室を後にした。身を案じて事務員さんが教員の誰かに送ってもらうことも検討してくれたが、そこまでしてもらわずとも母親の仕事が終われば迎えに来てくれることを理由に遠慮した。母親の仕事が終わるのは日が暮れたあとになることは、言わなかった。
そして音々が踊り場に戻れば、既視感のある光景がそこにあった。
「待っててって意味じゃないんだけどっ」
和樹がいた。手には傘を持っている。
「分かってる。でも、借りられなかったんだろ」
事実を指摘されて、音々は返答に詰まった。言い返せる言葉をなかなか見つけられず、口を尖らせる。
その様子に和樹は息をつくと、持っていた傘を差し出した。
「これ、使えよ」
音々は和樹と傘を交互に見る。
「どういうつもりなの」
それを自分で口にして、音々はなぜこんなにも和樹と引き合わされるのかという違和感に気がついた。これまでの高校生活では大した接点もなく、まともに話すことすらなかったのに、だ。休み時間で出逢い、放課後の教室でも出逢い、職員室から戻ってきても出逢う。この繰り返しを偶然と呼ぶにはあまりにも出来すぎていて、何か裏があるのはもはや必然に思えた。―――では一体、誰がこんなことを企むのか?
音々はあの不敵な笑みが脳裏によぎった。
「もしかして、お母さんに何か言われたりした?」
和樹の肩がぎくりと動く。図星なのだと、すぐに分かった。
「何て言われたの。隠さないで」
「……面倒を見てもらえないかって」
それを聞いて、音々は舌が苦くなった。頼んでもないことを望んでもいない形で現実にしてくる、本当に厄介な母親だった。和樹も和樹で断っておけばこんな面倒事に巻き込まれなかったものを。
「余計なお世話だったらもう関わらない。でも、今日は明るいうちに帰ってくれ」
だというのに、和樹は真っ直ぐこちらを見ている。
音々は当然の疑問を訊いた。
「和樹はどうやって帰るの」
「気合いでなんとかする」
「バカ、風邪ひくでしょ。絶対にやめて」
「じゃあどうするんだ」
「わたしに訊かないでよ、そっちが言い出したのに」
そう言って音々は視線を逸らす。人は二人、傘は一つ。どうすればお互いが雨に濡れず帰宅できるのか、実のところ音々は方法を思いついていた。ついてはいた。いたのだが、自ら提案するには至らなかった。だって、あれは自分と和樹が幼かったから何も思わずにできたことで、今は違う。幼馴染みという関係に引きずられているだけの音々にとって平常心で過ごせる事柄ではもうなかった。
一方で、和樹は手に持った傘を開いていた。男物であるため幅が広く、丈も高い。和樹が何を確認しているのかは音々からすれば一目瞭然だった。
「なあ」
「やめてっ!」
和樹が口を開いて、とっさに音々が割り込む。
「まだ何も言ってないだろ」
「言わなくても分かるからっ」
音々は鼓動が爆速になるのを感じた。
「和樹は、抵抗ないの?」
「別に。そんな大げさなことか?」
「和樹からすればそうかもしれないけど!」
何人にも告白されている強者の余裕が気に障りそうになる。
「噂になったら簡単に消せないのっ」
「消すほどの噂にならないだろ。幼馴染みなんだから」
「でもわたしたち高校生でしょ、誰からどう見られるのかくらい気にしたっていいじゃん!」
「どう見られても勘違いされることじゃなくないか」
ああ言えばこう言ってきて話の通じない和樹に、音々はとうとう爆発した。
「あ~もう‼ いい、もういい! なら責任全部とってよね、どんな噂が流れても和樹のせいにするから。二度とほかの女子に呼び出されなくなってもわたし知らない」
その迫力に気圧されたのか、和樹は一歩後ずさりする。
「約束して」
「お、おう」
「触れないで。それから、話しかけないで」
威嚇するような鋭い目つきだった。そんな音々とは対照的に、和樹は首を傾げてポカンとする。
「え。俺が言おうとしたの、家に音々の分の傘を取りに戻ろうかって話なんだけど」
和樹が弁明すれば、少しの間があった。
「ふえっ?」
まるで空気が抜けるかのような声がした。
「だから触れるとか、話しかけるとか、何考えてそんなこと言ってるん……あっ」
和樹は視線を傘に移した。音々の口にしたキーワードが頭に浮かんで、腑に落ちたのだ。
「まさか、俺の傘で」
「ッ!」
音々は持っていた物を振りかぶった。まあまあ重たかったが、これなら確実に和樹を黙らせることができそうだった。
「待て待て待て! 鞄は筆箱とわけが違うからなっ!」
和樹の制止に、音々の動きが止まる。だが、よく観察すると身体が細かく震えていて、すんでのところで感情が噴火しかけているのが窺えた。
「変に勘違いさせて悪かったから、落ち着いてくれよ。音々が嫌じゃないなら俺もそれでいい」
「嫌に決まってるでしょ!」
思わぬ返答に、和樹は面食らう。
「じゃあ、なんで」
「それより和樹の自己満足を押しつけられるほうがもっと嫌なのっ! お母さんに頼まれたのかもしれないけど、わたしは和樹に一言も助けてとか謝ってとか傘貸してなんて言ってないっ。和樹がわたしのこと勝手に決めつけないでっ‼」
そう捲し立てて、音々はようやく鞄を下ろした。頭に血が上ったせいで多少ふらついたが、なんとか持ちこたえて姿勢を戻すと、和樹を見る。
すると和樹は、こちらを見ていなかった。
顔を背けていて表情が読み取れない。声もしない。動きもない。ただ、その静かな立ち姿に、音々は胸がしめつけられた。茨が食いこむように痛くて、呼吸が浅くなる。嫌なことを嫌だと本心を言ったつもりだったのに、どうしてこんなにも息苦しいのか、音々はわからなかった。
二人に会話はなく、昇降口でそれぞれ靴を履き替えると外に出た。地面には水溜まりができていて、波紋がいくつも揺れている。和樹は独り言のように「帰るか」と呟くと、傘を広げた。差した半分に和樹が入り、もう半分は誰かのために残される。音々は思い浮かんだ言葉があったのに、喉から出てこなかった。そうして俯いたまま隣に並べば、和樹がゆっくりと歩き始める。半歩遅れて音々も続くと、二人は帰路に着いた。
視界にはアスファルトばかりが映っている。学校の敷地を過ぎて歩道を通っているとそのうち人が増えてきて、音々は他人の視線が自分に集まるのを感じた。行き違うたびに「わっ」「え?」と驚かれ、信号を待っていると「なにあれ、コスプレ?」と囁かれる。それに、音々は手のひらをぎゅっと握った。赤の他人が自分を見世物のように見てくることが不気味で、今まで慎ましく暮らしてきた音々には耐えがたかった。そうすると、和樹が身体を寄せてきて、周囲の視線を遮るように傘を傾けてくる。音々が見上げれば、和樹は凜とした面持ちで前を見ていた。
いつのまに、こんなに背が高くなったんだろうと思う。幼いころは身長がほとんど同じだったのに今では頭一つ分も差ができていて、顔つきも男の子ではなく男子のそれになっている。そういえば、和樹の一人称が変わってしまったのはいつからなのか。「ぼく」と呼んでいたのが、中学校で話しているのを見かけたときには「俺」になっていた気がする。たしか口調が荒っぽくなったのもその時期だ。
ああ。時間が経ったんだと、あらためて音々は知らされた。昔とはもう何もかもが違っていて、帰り道に手を繋ぐこともしなければ、ランドセルを背負いながら花を摘んで遊ぶこともできない。その現実が、音々に押し寄せた。
雨が傘を打っている。二人はすこし先にある踏切が鳴り始めても、急がなかった。その手前まで来ると遮断機がちょうど下りてきて、歩みを止める。そのとき、踏切のけたたましい音に紛れてカシャリと写真を撮る音がした。音々より一瞬早く、和樹が振り返った。そこにはこちらにスマホを向けているスーツ姿の若い男性がいた。
「おい」
低い声が響いた。それが和樹のものだということに、音々はすぐに気づけなかった。
「あんた今、撮っただろ。消せよ」
和樹が詰め寄ろうとすれば、男性はうろたえながら「違うんだ」「これは間違いでっ」などと述べる。しかし、何かを見つけたのか踏切のむこうに目をやると、持っていた傘を二人に投げつけて遮断機へ走った。
「おいッ‼」
和樹が捕まえようとするものの、男性は呆気にとられる音々を盾にして脇を通り抜け、遮断機をくぐって逃げていく。それを追いかけようと傘を手放して駆け出す和樹に向かって、悲鳴にも似た叫びが上がった。
「だめえええっ‼‼」
音々だった。音々は和樹の腕を抱きしめると、体格差からはか想像もできないような力でその場に引き留めた。
瞬間、電車が横切っていく。
耳鳴りがしていた。世界が色褪せて、全てがモノクロになっていた。感覚が正常に戻ってきたときには電車は通過していて、遠くで男性がタクシーに乗り込んでいるのが見えた。
「何すんだよ‼」
「和樹こそ何してるの⁉」
二人の大きな声が雨音をかき消す。
「もう少しで轢かれるところだったんだよ⁉」
「盗撮されたかもしれないんだぞ! 放っておけるわけないだろうがっ‼」
「写真なんかどうでもいいじゃん‼」
雫が、音々の頬に垂れていた。
「なんで和樹がそんなに怒ってるの……?」
それが瞼から流れたのか、空から落ちてきたのか、音々は自分でも区別が付かなかった。和樹の傘は足下に落ちていて、雨粒が二人を濡らしている。
「俺はっ……!」
和樹は何かを言おうとした。だが、ギリっと歯ぎしりをして顔を伏せると、その先を続けずに傘を拾って、差し直す。もう片方の拳は血が滲みそうなほど握りしめられていて、音々は何がこうさせるのかを教えてほしかった。それなのに和樹は「帰ろう」とだけ言葉にすると、歩き出してしまう。音々は急いでその隣に着いて、足並みを合わせるしかなかった。
踏切を越えてしばらくすれば、堤防にかかる橋を渡る。上流ではより強く雨が降っているのか、高くなった水面が河川敷に迫っていた。ふと、あそこには今でもあの白い花が生えているのだろうかと、音々は思い耽る。当時は小学校からの帰り道を遠回りしてでも遊びに来て、花を摘む以外にも日向ぼっこをしたり四つ葉のクローバーを探したりしていた。通学路として毎日ここを通っているのに、なぜ今日に限ってそのことを考えてしまったかといえば、間違いなく和樹が隣にいるからだった。そのことを自覚して、音々は何かを想い出しそうになった。
橋を越えると信号機があって、横断歩道には青点灯が着いていた。二人が渡るとチカチカと点滅し、やがて赤に変わる。同様に車道の信号も、通行を禁止し始めた。すると、それに間に合わせようとしているのか一台の車が猛スピードで正面からやって来て、水溜まりを二人にはねさせながら過ぎていった。音々は制服の裾に小さく染みができただけで済んだが、その代わり音々に覆い被さった和樹は背中がひどく濡れてしまった。
「なんでっ」
声が震えていた。
「なんで、守ってくれるのっ……?」
音々は知りたかった。知らなければ、これから二度と和樹と向き合うことができなくなる気がした。そんなふうには息をしていたくなくて、祈るように和樹の言葉を待つ。時間が長く、長く感じた。
そして、それは雨のようにぽつりと、けれども鮮明に聴こえた。
「大切だから」
どくんと、音々の心臓が脈打った。その音が全身に響いていた。どうして胸がこんなにも音を立てるのか、音々はわからなかった。―――いや、違う。音々はわからないふりをした。わからないふりをしなければならなかった。だってそれは、苦しくなかったから。苦しくないことを認めたら、きっと記憶の中に閉じ込めていた気持ちが溢れてしまう。
だからわからないふりをして、想い出さないように忘れようとして。
本当に、いいんだろうか?
嫌なことばかりだった。その嫌を、和樹には伝えられたのだ。
どれだけ猫をかぶっても、それが答えであると、音々はとっくに証明してしまっていた。
「音々?」
「へあっ」
ふいに呼びかけられ、音々は猫耳を跳ねさせる。焦りながら見上げれば、和樹が素早くそっぽを向いた。
「なにっ、どうしたのっ」
「いや」
口元を手で隠し、くぐもらせる。
「ぼーっとしてたから、呼んだだけ」
「そ、そう?」
和樹はぎこちなく頷いた。その様子に、音々は尻尾がむずついて仕方なかった。
それから再び帰路に着くと、二人は傘の中で最大限の距離を取った。音々も和樹もお互いに近づかず、喋りもしない。けれども、静かに足音が重なっていた。そのまま道なりに進んでいると音々の住んでいるアパートが見えてきて、屋根の下まで歩みを一緒にする。
「それじゃ」
短い言葉だった。目的を果たせば、返事も待たずに和樹が踵を返した。
少しずつ姿が遠くなり、手を伸ばしても届かなくなる。
行ってしまう。
「和樹っ」
とっさに、音々は名前を呼んだ。和樹が振り返る。視線が、交わる。高鳴っている鼓動をぎゅっと押さえて、息を継いだ。この気持ちをどう伝えればいいのかなんて、ずっとわかっていた。
「ありがとう」
そうすると和樹は、驚いたように目を丸くして。顔に動かそうとした手を下ろすと、はにかんでから、言った。
「いつでも頼んでくれ」
優しい表情をしていた。
「またな」
「うん。ばいばい」
手を振りながら離れていく和樹に、音々も手を振り続けた。
