猫をかぶる


 桐谷音々(ねね)の朝は遅い。
 どのくらい遅いかというと、部活の朝練に向かう幼馴染みが家の前を通り過ぎてから目覚めるくらい遅い。それも目覚ましのベルだけでは二度寝してしまうことがほとんどなので、大抵の場合、音々が起きるのは母親の「音々、そろそろ起きなさいー」という呼び声が聞こえてようやくだった。
「音々ー?」
「はぁ~い……」
 ふにゃふにゃと返事をして、音々は布団をめくる。めくらずにいると、そのうち母親が部屋にやって来て強制的に引きずり出される。それに抵抗したことは過去に何度もあったが、女手ひとつで娘を育ててきた母親に音々が敵うはずもなく戦績としては全戦全敗。圧倒的な力の差にいつしか己の無力を思い知った音々は、今日も今日とて寝ぼけながらベッドを降りる。
 そうして自室を出ると、音々は洗面所で歯を磨いた。鏡を眺めながらハミガキ粉をしゃかしゃかと泡立てていれば、しだいに意識が覚めてくる。
「ほあっ?」
 そのときだった。鏡に映っている自分の頭に、猫耳があることに音々が気づいたのは。
「え、何ふぉれ」
 歯ブラシを口に突っ込んだまま、音々は呟く。
 ねこみみ。猫の耳だ。毛むくじゃらで、ピンと角張った猫耳。それがぴょこりと頭から生えている。音々は一度目を擦ってみたが、鏡のむこうにある姿は変わらなかった。まだ夢の中にいるのかと思って頬をつねってもみるが、結果は同じ。
 じゃあ、これは一体何なのか?
 音々は恐る恐る触ってみた。
「うひっ⁉」
 すると、猫耳を触ったのとは別にもう一つ、奇妙な感覚がした。それは今まで体験したことがない類のもので、まるで神経に電気が流れたかのような感覚だった。
 指を離してもなお、触られたという実感が強烈に存在している。
「…………」
 しばらく呆然としたあと、ひとまず音々は泡だらけの口をゆすぎ、その場を離れた。向かったのはリビングキッチンで、そこでは母親が朝食を作っている。
「おかーさん」
「おはよ。朝ごはん、もうちょっとだから座ってて」
「見てこれ」
 そう話を差し込むと、母親から視線が寄せられた。
「え、何それ」
「わかんない。起きたら生えてた」
「猫耳が?」
「うん」
 音々が頷けば、母親はあっけらかんとした顔で「へえー」と声を漏らした。
「それ、驚いてる?」
「めちゃくちゃ驚いてるよ。一応」
「一応って……」
 あまりにも信憑性のない発言に音々は溜め息をつきたくなったが、母親が訊いてくる。
「本物なの? その猫耳」
「触ってみたけど変な感覚したから、たぶん」
「すご。まあ、とりあえず病院で診てもらおっか」
「うん」
 音々は頷くものの、しかし。
「でも、学校どうしよう」 
「何ともなかったら行けばいいんじゃない? 送ってくよ」
 のんきにそう言ってくる母親に対して、音々は顔を曇らせた。
 学校に行きたくないわけではなかった。人付き合いに明るいとまではいかない音々だが、それでも気軽に話せる友達はいるし、クラスメイトとの関係も悪くない。みんなこの姿を笑うかもしれないが、きっと笑いものにはしないだろう。それならまだいいのだ。ただ、どうしても今の自分を見られたくない相手というのは、音々にもいる。
「恥ずかしくて嫌なんだったら、遅れますじゃなくて休みますって学校に連絡しておくけど」
「は、恥ずかしくないから」
「ほんと? 和樹(かずき)くんの前でも?」
 母親がその名前を言えば、音々の猫耳が逆立った。
「和樹は関係ないじゃん!」
「そう?」
「接点ないもん。クラス違うし、たまにすれ違ったりはするけど話したりしないし。そもそも中学のときからそうなんだから高校に入ったところで変わんないよ」
「ふうん。でも、小学生のころはいつも手を繋いで帰ってくるくらい仲良しだったじゃない」
「あれは小学生だったからに決まってるでしょっ! わたしもあいつも成長してお互いに興味がなくなったの。特にあいつなんかいろんな女子から告白されてるみたいだけどバスケに打ち込みたいからって全部断ってるらしいし、あんな部活バカなんてわたしもう知らない」
 そんな音々の論弁に、母親は頬をやんわり緩めていた。
「なんで笑うの!」
「笑ってないよ。ほほえんでるの」
「一緒じゃんっ」
「そうかもね」
 のらりくらりとした態度に音々はどうにも腹が立ったが、するとタイミング良くそこが「ぐぅ」と鳴った。それに「あらま」と母親が呟き、続ける。
「お腹は正直だねえ。ほれ、朝ご飯。冷めると美味しくなくなるから早く食べちゃって。それじゃ支度してくるから」
 できあがった朝食をテーブルに並べれば、母親は調子よさげに歌を口ずさみながら部屋を出て行った。その軽やかな様子に音々はまんまと逃げおおせられたような気がしたが、親としてすることはしてくれているので言い返せる言葉が見つからなかった。ならばこの憤りをどう晴らしてくれようかと音々は思ったが、ひとまず腹が減っては戦もできぬので鼻息を立てて椅子を引く。そうして勢いよく腰を下ろすと、ふいにお尻で何かを踏んづけた。
「いぎゃっ⁉」
 ぷすりと針が刺さったような痛みを感じて、音々はとっさに身体を跳ね上げた。何を踏んづけたのかと思ってすぐさま振り返ってみれば、そこには真っ平らな座席があった。
 音々の頭に「?」が浮かぶ。
 座席には何もなかった。尖ったものが置いてあるわけでも、座席が尖っているわけでもなかった。だが、たしかに何かを踏んづけたのだ。その証拠として痛覚がズキズキと訴えを発しており、ひとまず音々はそれを和らげようと患部をさすった。
 瞬間、音々の背筋にひやりと寒気が走った。今触っているお尻の辺り、そこがなぜかクッションを詰め込んだように膨らんでいる。さらには、猫耳を触ったときと同様の感覚がじんわりと伝わってきていた。
 ―――まさか。
 その正体を確認するべく急いでパジャマを脱ぎ、首を後ろに回してみる。そうすれば、そこには穿いていた下着からはみ出て、すらりと細長い尻尾が垂れ下がっていた。明らかに、猫のものだった。
「~~~っ~~‼」
 音々は口をわなわなと震わせながら息を溜め込む。
 そして、限界に達すると大きく吐いた。
「うぎゃあああああ⁉⁉⁉」
 音々の叫び声が、家じゅうに響いたのだった。