「あら、冬休みに補習?お母さん聞いてないけど・・・」
こっそり家を出ようとしていたら、ちょうど起きてきたお母さんに制服姿を見られてしまった。
「うん、まあ、そんなとこ。行ってきます」
「行ってらっしゃい・・・って夕凪、鞄はー?」
お母さんの声が後ろから聞こえてきたが、私にはもう届かなかった。
「香菜さん、おはようございます」
「あらおはよう、夕凪ちゃん。早いのねえ」
眠れないんですよ、と苦笑しながら返す。
香菜さんは一人忙しく準備をしていたので、何か手伝うことはないかと訪ねると「秋斗のそばにいてやって」と言われてしまった。それをお願いされると断れない。
私は郡崎家に入り、秋斗のもとへ向かった。家の中は私の知っている風景と比べて大分変わっており、広々と綺麗にされていた。
秋斗はその部屋の奥のほうにいた。棺桶に近づき、「秋斗」と名前を呼んでみる。今にも目を覚まして私のことを抱きしめてくれそうだったので、返事をしない秋斗の頬に手を添えて、私は冷たい現実を見つめた。
秋斗の通夜と葬儀は、親族のみでとり行われることとなった。はじめ私は親族じゃないので、と遠慮していたが、香菜さんの「夕凪ちゃんはもう家族よ」という言葉に心が揺らいで、本当に来てしまった。
秋斗が亡くなってからもう一日が経っていたけれど、私はまだ一度も涙を流していなかった。
❖ ❖ ❖
息を引き取ったことを確認した朝、あれから私はすぐに香菜さんを呼びに階段を駆け下りた。香菜さんは私の表情と乱れた呼吸から何かを感じとったらしく、何も言わずに私の手を引いて秋斗の部屋まで向かった。
一言も喋らないまま秋斗に触れて確認を終えると、香菜さんは私に向きなおって深々と一礼をした。私はどうしていいか分からず一瞬戸惑ったが、香菜さんにならって礼をした。
秋斗に視線を戻した香菜さんは、ぼろぼろと大粒の涙を流しはじめた。
「秋斗。大好きな子に看取ってもらえたのねえ。あんたは本当に、幸せ者だねえ・・・」
そのときだったと思う。泣くならそのとき、香菜さんと一緒に泣けたらよかった。哀しみを共有できたらよかった。でも、私の目は乾ききっていた。
秋斗のお父さん────颯斗さんは地方に一年間の出張だったそうで、私と秋斗が出会った時期にはすでに家を空けていた。香菜さんから知らせを受け取った颯斗さんはその日の昼間に帰って来て、秋斗のそばで「ごめんなあ、ごめんなあ」とずっと謝りながら泣いていた。その光景を見ても、私は泣かなかった。
香菜さんが夕食に誘ってくれたが、家族水入らずで過ごしたほうが良いのでは、と考えた私は一度お断りした。しかし、今度は颯斗さんから「気にしなくていいから。私の知らない秋斗の話を聞かせておくれ」ともう一度誘っていただいたので、そこまで言われるとさすがに断るわけにはいかないので、私は夕食の席に着くことにした。
献立は香菜さんが秋斗の好物だったものを片っ端から作ってくれていた。昼間、何も考えたくなかった香菜さんは無心で料理を作っていたのだという。
私は本来なら秋斗が座っていたはずの席の隣、机を挟んで香菜さんの向かいに座り、いただきます、と手を合わせてから食べ始めた。
颯斗さんは秋斗にそっくりな顔立ちで、私はこの日初めて秋斗はお父さん似なのだと気づいた。秋斗がよくそうしていたように、颯斗さんは少しずつ食べる私のことを目を細めて嬉しそうに見つめていた。
私は、颯斗さんと香菜さんに私の知っている秋斗のことをたくさん話した。初めて出会ったときのこと。秋斗が教えてくれた言葉のこと。再会を果たしたのに覚えてくれていなかったこと。秋斗の記憶障害を知った日のこと。秋斗と交換日記をしていたこと。秋斗が告白してくれて付き合うようになったことまで、全部隠すことなく話した。秋斗を大切に生み育ててくれたこの二人には、秋斗のすべてを知っていてほしかった。
香菜さんは少しずつ元の調子に戻っていた。秋斗の告白の言葉を私が言うと「まあまあまあ」と口元を隠して上品に笑った。颯斗さんは特に何も言わずににこにこと聞いていたが、最後に私が朝の出来事を話すと眼鏡を外して目頭をおさえた。後に香菜さんが教えてくれた話によると、颯斗さんは秋斗の容態を知ってすぐに短期休暇希望を出していたのだが、職場で度重なるトラブルに見舞われて結局秋斗には最期まで会えずじまいだったそうだ。
私はひと通り話し、食事も食べ終えるとおじゃましました、と荷物をまとめて郡崎家を出ようとした。すると帰り際、そのとき香菜さんに通夜と葬儀の時間を教えてもらったのだ。
そして、私たちの思い出の品である交換日記は秋斗が亡くなったその日にどこかへ行ってしまった。まるで秋斗とともに旅立ったようにも思えた。
❖ ❖ ❖
「おーい、夕凪ちゃーん」
二階から颯斗さんの声が聞こえたので、私は下から返事をして階段を上った。颯斗さんは秋斗の部屋にいた。
「これ、何か知ってるかい?私の知っている秋斗の字じゃないんだが・・・」
颯斗さんが手に持っていたのは、秋斗と私の『やりたいことリスト』ノートだった。香菜さんはそのリストの存在を知っておりたくさん協力してくれたので、私は颯斗さんだけに話しそびれていたことにやっと気がついた。
私は秋斗の余命宣告から亡くなる少し前まで、二人で一生懸命このリストに書いてあることを実行していったのだと説明した。すると颯斗さんは「見てもいいかね」と私に聞いてきた。別に見られて困るようなことは書いていなかったので、私は大丈夫だと答えた。
颯斗さんは一ページ一ページ、自分の大切なものを眺めるかのようにめくっていった。ページをめくるたび、颯斗さんの目にはまた涙が溜まっていっていた。
最後から二番目のページはさすがに恥ずかしかったが、颯斗さんは馬鹿にすることなくただにこにこと嬉しそうに眺めていた。そして、またページをめくる。「あ、そこには何も書いていないんです」と伝えようと口を開いた瞬間、颯斗さんの表情が一気にくしゃっと崩れた。
私は慌ててノートをのぞきこんだ。颯斗さんが私にも見えるように、ノートをらこちらに寄せてくれた。そこには、いつもの秋斗の字で
────夕凪とずっと一緒にいたい
と大きく書かれていた。
私はその瞬間、蓋をしていた気持ちが勢いよく溢れ出てくるのを感じた。気づけば、床に崩れ落ちて大声で泣き叫んでいた。秋斗、秋斗、と名前を呼びながらひどい声で泣く私の背中を、颯斗さんは隣でずっとさすってくれていた。
ああ、秋斗は亡くなったんだな。
もういなくなってしまったんだ。
私を置いて、天国へ行ってしまったのか。
私は泣いて、泣いて泣いて泣き続けて、ようやく秋斗の死と向き合うことができたのだった。
❖ ❖ ❖
通夜と葬儀は滞りなく進み、火葬まで終わってからしばらくして、私は久しぶりに郡崎家を訪ねた。
秋斗の『やりたいこと』を見て泣いたあの日、目と鼻を真っ赤に腫らして帰ってきた私を見て、家族は何事だと心配した。私は次の日のお葬式に参列する許可も取るために、郡崎家で話した秋斗の話をなぞるようにすべて話した。両親は聞きながら娘の心の痛みを思ってか、時折顔を歪めることもあった。
話し終わって明日の予定も伝えると、お葬式へ行く許可はすんなりと出た。「秋斗さんにちゃんとお別れ、言ってくるのよ」とお母さんに言われたので、私は深く頷いた。
そんな出来事もありつつ、私は結局秋斗とお別れする為のすべての式に参加することができた。
あれから二週間、香菜さんから「渡したいものがあるの」との連絡が来たので、私はまた郡崎家のチャイムを鳴らしたのだ。
久しぶりに会った香菜さんは少し痩せていたが、変わらずにいつもの笑顔で出迎えてくれた。
「寒かったでしょう。コーヒー淹れるわね。いつものブラックで良かったかしら?」
私はお願いします、と返事をしてから、リビングに入ったときから目に留まっていた秋斗の祭壇の前に座り、お線香を上げた。ミッションスクール通いの私でも作法が合っていたかは分からないが、一部始終を見ていた香菜さんに特に指摘もされなかったので、きっと大丈夫だったのだろうと心の中で胸を撫で下ろした。
「今日夕凪ちゃんを呼んだのはね、秋斗の遺品を整理していて見つけたものがあったからなの。最後のほうだけ少し見たんだけど、ちょっと不思議なのよねえ」
どういうことだろうと思いながら私は香菜さんがテーブルの上に置いた革製の表紙の分厚い日記帳を手に取った。これは確かにあの日、秋斗が私に見せながら告白してくれた日記帳だった。
私の記憶だと三分の一ほどは秋斗と一緒に読ませてもらったので、そのあたりを開いてみた。そこには、秋斗が亡くなるぴったり一ヶ月前からの日記があった。
香菜さんが「不思議なのよねえ」と言った理由はすぐに分かった。
普通の日記だったのだ。
秋斗は日記を書くとき、時系列のように書く独特の癖があった。一度、どうしてと聞いてみたら「このほうが頭にすんなり入ってくるんだ」と言っていた。
しかし、その日を境に秋斗の日記は普通の人のような、ありきたりな書き方の日記に変わっていた。
私は少しずつ読み進める。秋斗が亡くなった日の四日前で終わっていた日記を最後まで読み終えると、違和感の原因が一つだけ思い浮かんだ。
それを香菜さんに言ってみようかと考えていると、日記にかけられている革のカバーのポケットに、何かが入っていることに気がついた。
それは、秋斗がこの世を去る前日に書いた、私宛ての手紙だった。

