身代わり婚~光を失った騎士団長は、令嬢へ愛を捧げる

 翌日、カタリナは馬車に乗り、都を出立した。
 膝の上に載せたのは、倉庫で見つけた古ぼけた鞄が一つ。

 カタリナの私物はそれに収まるだけの分しか存在しなく、鞄にしたって中身がなさすぎて少しでも力をこめるだけで、ぺしゃんこに潰れてしまうくらい、スカスカだった。
 幼い頃に両親と自分とを描いた絵姿、僅かな着替える類、数冊の本だけなのだから。
 カタリナの私物でめぼしいものは叔父夫婦に引き取られる際に、アスターシャに奪われるか、捨てられるかされてしまった。
 都から公爵がいる山荘のある、デルモンド州までは王都から南に二日の距離。
 その間、宿にも泊まることは許されておらず、馬車の中で過ごすことしか許されない。
 それでもカタリナにとってみれば幸せだった。
 まず理不尽な暴力に晒されることがない。
 自分を監視する誰かの目に怯えなくてもいい。
 そして久しぶりに眠りたい時に眠ることができた。屋敷では少しでも居眠りをすれば、容赦なく殴られ、蹴られていたから。

 何より、好きな時に本を読むこができた。
 カタリナの両親は教育熱心で、人生を豊かにするのは教養であると昔からたくさんの本を買い与えてくれた。
 叔父に引き取られてからは本を読む時間を確保することさえできなかったし、とても本を読むような精神的余裕もなかった。
 だから山道に到着するまでの日々は、カタリナにとっては久しぶりに幸せな時間だった。

「ついたよ」

 御者の声に、カタリナは眠い目を擦った。
 どうやら本を読んだまま眠ってしまったらしい。
 カタリナは本を鞄に仕舞い込むと、馬車から出た。

「ありがとうございます」

 馬車は道をさっさと引き返していく。

(大きい……)

 山荘というからこぢんまりとしたものを想像していたけれど、さすがは公爵家。
 とても立派な建物だ。叔父のタウンハウスよりもずっと。

「あ」

 鮮やかな葉を繁らせた木の上に白と黒の鳥が止まり、囀っている。
 セキレイだ。
 鮮やかな日射しに目を細め、自然と相好が緩んだ。
 それから思いっきり体を伸ばしつつ、深呼吸をする。
 都と違い、空気がとても綺麗で美味しい。

「……公爵様。お久しぶりです。アスターシャ・フローレンです。あなたの妻になるためにやって参りました。今日からよろしくお願いいたします……」

 そう呟き、練習をする。
 それにしてもまさか人生初の結婚が、名前を偽るものだなんて。
 カタリナはノッカーを叩く。
 しばらくすると、「はあい」と呑気な声で聞こえ、ふっくらとした中年女性が顔を出した。その目が少し訝しげになる。

「どちら様でしょうか?」
「初めまして。私、アスターシャ・フローレンと申します。あの、公爵様の許嫁で……嫁ぎに参りました」
「嫁ぎに……?」
「は、はい」
「入って下さい」
「し、失礼します」

 緊張と不安でぎこちなくなりながら屋敷に入る。

「こちらの部屋で少しお待ち下さいね。公爵様をお呼びして参りますから」

 通されたのは居間だ。
 美しい調度品で彩られた広々とした一室である。

(これだけ広いお屋敷なのに、とても静か)

 叔父のタウンハウスにはたくさんの人の出入りがあったし、使用人の数も多いから静けさとは無縁だったから余計にそう感じる。
 ギィ、と扉が軋みをあげながら開くと、カタリナは弾かれるように立ち上がった。
 現れたのは、服ごしにも鍛えられていることが分かる体格の男性。
 髪はさらさらとした黒髪。
 閉じられた目には深い傷跡が走っている。
 綺麗に整った顔立ちからこそ、その傷は余計に痛々しく見えた。

(この方がレオン・グレイウォール公爵様……)

 あらかじめ見せてもらった絵姿よりもずっと格好いいし、精悍だ。

「アスターシャ・フローレン」

 声は低く、通りがいい。

「は、はい、公爵様」
「すぐに帰れ。俺は結婚など望んでいない!」

 取り付く島もなく、部屋を出ていく。

「へ……」

(そんな困るわ!)

 おめおめと帰ったのでは、叔父一家にどんな目に遭わされるか分かったものではない。 最悪、ひどい折檻の末に殺されるかもしれない。
 カタリナはもう二度とあの屋敷に戻るつもりなどなかった。

「お待ち下さい、公爵様。わ、私は、帰りません。公爵様の妻になるために来たのです」
「しつこい。俺は結婚なんてするつもりはないっ! さっさと帰れ!」
「……こ、国王陛下のご命令です。お分かりのはず、です」

 さらにカタリナに向かって言おうと開きかけた口が閉じ、代わりに聞こえたのは、舌打ちだった。

「勝手にしろ。だが、俺はおまえと夫婦になるつもりはないからな」

 レオンは歩き出そうとする。

「あ。私が手を……」

 カタリナはレオンに寄り添おうとしたが、「近づくなッ」と敵意に染まった鋭い声で言われ、びくっとして動きを止めた。
 レオンは壁を手で探るようにして階段を上がっていってしまう。

(最悪の対面ね)

「あのぉ」

 声のするほうを見れば、二階から遠慮がちに先程の中年女性が降りてくる。

「大丈夫ですか?」
「あ、はい。問題ありません」

 と言っても、今のやりとりを聞いていて、問題ないとは思えなかったろうけれど。

「公爵様を誤解なさらないで下さいね。お怪我のせいであのように気が立っていらっしゃってるだけで、元々はとても理性的で、立派な方なんです」
「分かっています」

 それまで当たり前だったことが、当たり前でなくなる。それがどれだけ辛く苦しく、惨めな気持ちになるかは、カタリナにも多少は理解できるつもりだ。

「あの、ところであなたはこちらの使用人の方、ですか?」
「申し遅れました。デボラと申します。こちらには、山裾にある村から通いで来ております」
「他の方は?」
「おりません。私一人です」
「これだけ広いお屋敷を、ですか」
「昔は、公爵様がいらっしゃらなくても、常駐の使用人が十人はいたのですけどね。他の方々はみんな、公爵様がやめさせてしまいまして」
「そうでしたか。お一人で大変でしょう」
「いいえ。そんなことありません。簡単な掃除と公爵様の食事を作ること――やっているのは、必要最低限のことだけですので。あ、お荷物をお持ちいたします」
「すごく軽いので、大丈夫です」
「そうですか。それでは、ひとまずはお部屋へご案内いたしますね」

 二階へ上がっていく。

「あちらの廊下の突き当たりが、公爵様のお部屋でございます。こちらが客間でございます」

 広々とした室内。家具という家具に埃避けのカバーがかけられている。
 デボラはそのカバーを一つ一つ丁寧に外していった。

「こちらが居間で奥には寝室がございます。替えのシーツをすぐにお持ちしますね」
「私も行きます」
「いえいえ。奥様はくつろいで頂きまして」
「奥様……」
「公爵様とご結婚されるんでしたら、奥様です」

 馴れない言葉に緊張する。

「お気遣いありがとうございます。ただ、今日からここで暮らすのですから、屋敷のことはできるかぎり知って起きたいんです」
「かしこまりました」

 デボラから、リネン室や掃除用具入れ、台所や食料庫、また屋敷裏の井戸の場所を教えてもらう。
 食糧は一週間に一度、業者が届けに来る。
 デボラは基本毎日、朝から夕方くらいまでここで滞在するなど、基本的なことを教えてもらった。

「公爵様は、ずっとこちらにいらっしゃるのですか? 都へは……」

 デボラは首を横に振った。

「お怪我をなさってからというものの、ほとんど人にお会いすることもございません。私としか話しません。ですから公爵様はお怒りのようでしたが、奥様がいらっしゃって、私としては公爵様がお変わりになられるきっかけになるかもしれないと喜んでいるのです」
「……支えられるよう、精一杯努力いたします」
「ほどほどになさってくださいね。無理をしてもお辛いだけですから」
「はい」

 あっという間に夕方になるので、デボラの料理を手伝う。
 と、デボラに野菜を切る姿をじーっと見られた。

「何か間違えましたか?」
「あ、違うんです。奥様はずいぶん手際がよろしいんだな、と思いまして。奥様ももちろん貴族の方、なんですよね?」
「え、ええ。でも親の方針でこれくらいは、と教えてもらっていて」
「へえ、貴族の方もそんなこともされるのですねえ」

 デボラは目を丸くして驚く。
 カタリナは曖昧に笑って頷いた。
 夕食ができ上がるとデボラの代わりに、レオンの部屋まで運ぶ。
 ノックをする。

「デボラか」
「アスターシャです。夕食を届けに来ました、入ってもよろしいですか」
「…………」

 沈黙の長さに、心が折れそうになってしまう。

「あの、私が気に入らないのは分かります。ですが、夕食が冷めてしまいますので。デボラさんがせっかく作って下さったので……」
「……入れ」

 ほっと胸を撫で下ろして部屋に入ると、レオンはソファーに深く座っていた。
 カタリナは、彼の前へ食事を載せたプレートを置く。

「夕食を召し上がられたら、いつものように部屋の前へ出しておいてください。では、失礼いたします」
「待て」
「はい?」
「陛下からどんな対価を受け取った」

 どういう意味なのか分からず、カタリナは返事に窮してしまう。

「それはどういう……」
「そうでなければ、わざわざ未来ある伯爵令嬢が、地位も何もかも失った俺の元へ好きこのんで嫁いでくる訳がない。陛下から受け取った対価の倍でも、三倍でもくれてやる。だから……」
「対価なんて受け取っていません」

 叔父たちはおそらく受け取ったのだろうが。

「だったたらどうしてだ。陛下の命と言っても、俺からにべもなく拒絶されたと言えばそれ以上、無理強いはできないはず。これまで数度くらいしか会ったことのない俺のために無理をする必要はないんだぞ」
「無理なんてしていません。私は、あなたを慕っているからこそ、嫁いできたんです。食事を召し上がられたら、いつものように廊下に出しておいてください。失礼します」

 頭を下げ、部屋を出た。
 深く溜息をこぼす。罪悪感で胸が締め付けられてしまう。

(私はひどい女だわ。体はもちろん、心にも深い傷を負っている公爵様を、自分の身の安全を図るために利用してるんだから)

 苦い顔をしたカタリナは逃げるように、部屋へ戻った。