カタリナ・フローレンは床を磨く。
 まだ早春。
 冷えきった井戸水があかぎれだらけの手に染み、顔を歪めた。
 彼女が、わずか一年前まで、貴族でもあり資産家でもあったラスゴー・フローレン子爵の一人娘として玉のように大切にされていたことなど、誰も分からないだろう。
 両親は一年前に事故で亡くなり、十五歳のカタリナは、伯爵である叔父に引き取られた。
 しかしその生活は過酷を極めた。
 彼女名義になるべきだった遺産は適切に管理するという名目で叔父の名前に書き換えられ、奪われた。
 カタリナは満足な食事も与えられず擦り切れた衣服ばかりがあてがわれ、使用人たちからせせら笑われる日々を、ただ堪え忍ぶしかなかった。
 天涯孤独の身。
 ここを追い出されれば行く当てなどないのだから。

「――ひどいわ、お父様、お母様!」

 その時、居間の方から悲鳴にも似た声が聞こえた。

「そんな男の元に嫁げだなんて、あんまりだわ!」

 母親譲りの赤毛に、父親から受け継いだエメラルドのような瞳の女性――アスターシャが居間から飛び出した。今年で十八歳になる叔父夫婦の一人娘である。
 カタリナと目が合った。
 しまった、と思っても遅い。

「何がおかしいのよ!!」」

 金切り声を上げたアスターシャは、カタリナの銀色の髪を乱暴に掴むと、床へ思いっきり押しつけさせた。

「わ、笑ってなんて、い、いません……」
「口答えするんじゃないわよ! 気持ち悪い目を向けるんじゃないわよ、怪物!」
「も、申し訳……ご、ございません……っ」

 カタリナは恐ろしさに身をすくめ、震えるしかなかった。
 フン、と鼻を鳴らしたアスターシャは最後にカタリナの脇腹を蹴り上げると、床を踏みならして去っていく。
 痛む脇腹を押さえ、カタリナは咳き込んだ。
 涙が溢れ、床に滴り落ちる。

「……お嬢様、今日はいつにもまして気が立っていらっしゃったわね」
「そりゃそうよ。だって婚約者の方があんなことになったんですもの」

 使用人たちはカタリナがされたことなどどうでもいいとばかりに、ひそひそと囁き合う。
 カタリナは、なにかとアスターシャの目の仇にされ、毎日のように理不尽な命令と暴力にさらされていた。
 すぐ後に、叔父のドミニクと妻のナオミが出てきた。

「まったく……わがままを言いおって」
「仕方ありませんわ。アスターシャの身にもなってください。私だってあの子のことを考えれば不憫ですわ」
「おい、何をさぼっている!」
「申し訳ございません……っ」
「この役立たずめ。血が繋がっているから情けをかけて屋敷においてやっていることを忘れるな!」
「……はい、感謝しております」
「だったらさっさと手を動かせ!」

 口角泡を飛ばす勢いで、叔父から罵声を浴びせられる。

「あなた、行きましょう。卑しい小娘のあの目を見て射ると気分が悪くなるわ」
「そうだな」

 額を床に擦りつけ、カタリナは謝罪を口にし、慌てて掃除に戻った。
 両親が満月のように幻想的で美しいと言ってくれた母親譲りの金色の瞳は、ここではただ不気味がられるだけだった。



 一日の仕事が終わった頃にはもう日付が変わった後。他の使用人の仕事まで押しつけられたせいだ。それでも今日は速く終わったほうだ。
 カタリナに与えられているのは部屋ではない。離れの倉庫だった。
 扉を閉めても隙間風が入り、今の時期、床は氷のように冷たい。
 だから埃をかぶり、擦り切れた絨毯を折り畳み、それをお尻に敷いていた。

(また傷が……)

 カタリナはひび割れた鏡で顔を眺める。
 役立たずと料理長から殴られ、切れた唇が腫れ上がっていた。
 銀髪は父から、金色の双眸は母親から継いだもの。。

『綺麗よ、カタリナ。私たちの宝もの。あなたは幸せになるために生まれてきたのよ』。

 母親はそう言いながら、美しい指先でカタリナの髪を優しく撫でてくれた。
 あの頃は艶のあった髪はすっかり傷み、玉のようになめらかだった肌は乾燥し、くすんでいる。
 ポタ。割れた鏡に涙の雫が弾ける。

「ど、どうして、私を一人遺して亡くなってしまわれたんですか。私も連れて行って……お願い、迎えにきて……お父様、お母様ぁ……」

 立て膝に顔を埋め、カタリナは震え、嗚咽した。



 数日後、いつものようにカタリナが掃除をしていると、「旦那様がお呼びだ」と執事から呼びつけられた。

「……はい」

 カタリナは執事に続き、居間へ入る。

「おお、来たか。座りなさい」

 カタリナを迎えた叔父は上機嫌で、ソファーを薦めてきた。
 その場には、ナオミとアスターシャの姿もあった。

「……いえ、汚れてしまいますので」

 あとでどんな難癖を付けられて叱責されるか分からない。
 カタリナは戸口に立つ。

「まあ、いい。実はな、お前に嫁入りの話がある」
「わ、私に……?」
「相手はグレイウォール公爵家の当主、レオン殿だ」
「お待ち下さい。その方は、あの……お嬢様の許嫁だったかと……」

 アスターシャは赤い髪を指で弄びつつ、「そうよ」と気のない返事をする。

「でもね、あの男もう役立たずになっちゃったから、嫁ぎたくないの」
「や、役立たず……?」
「そ。前の戦争で馬鹿やって目が見えなくなっちゃったの。ほーんと、どうしようもないわよね。そのせいで騎士団長もクビにされて、存在価値なし。今じゃ山荘に引きこもっちゃって、私には相応しくなくなっちゃったの」
「そうだ。だが、相手は腐っても公爵。こちらから婚約を破棄することなどできる相手ではない。国王陛下からも、公爵の心を慰めるためにも是非嫁いで欲しいと言われていてな。そこで、お前の出番だ」
「私が代わりに嫁ぐのですか?」
「代わりじゃないわよ。あんたがアスターシャとして嫁ぐの。安心なさい。公爵とはこれまで数えるくらいしか会ってないから。それに、相手は目が見えないんだから、簡単に騙せるわ」
「もちろん、やってくれるわよね。これまで世話をしてやったのだから」

 ナオミが鋭く睨み付けながら告げる。
 カタリナに選択肢などない。
 それに、この地獄のような家から抜け出せるまたとない機会を、逃す訳にはいかない。

「……かしこまりました。お嬢様として、公爵様に嫁ぎます」

 叔父は満面の笑みを浮かべる。

「分かってくれたか! よしよし! ではすぐに準備に取りかかりなさい! 明日には出発するんだぞ!」
「はい、失礼いたします」

 頭を下げ、部屋を出た。
 降って湧いた結婚話に戸惑いながらも、この地獄から抜け出せることで心が弾んだ。

(公爵様……どんな方なのだろう……)