私はそれまで、ずっとアメリア教を信仰していた。
けれど、私はアメリア教を改めて、見つめ直した。
聖典を改めて読み、何度も何度も繰り返し読んだ。
結果分かったのは、アメリア教は「自由過ぎる」ということだ。
アメリア教の本質は、「信仰は自分の心の内にある」というもの。
言い換えれば、自分一人だけが神を信じていれば、他の人が信じていなくても構わない、ということだ。
すなわちそれが、信仰の自由というものなのかもしれないが。
私は、そうは思わない。
アメリア教は信者に祈りを強制しない。巡礼や礼拝を求めない。
何故なら、信仰心は心の中にあるもので、態度や行動に表さなければならないものではないからだ。
要するに、心から神を信じているのであれば、わざわざ祈る必要はないよ、ってことだ。
私は、これもおかしいと思う。
信じているのなら、祈り、神を敬うのは当然のことではないか。
アメリア教は、信徒に寛容過ぎるのだ。
だから、こんなにも信じる人が少ない。
信者達の団結力、同じ宗教を信じる人同士の結束力が伴わない。
アメリア教の神を侮辱するつもりはない。私は、今でもアメリア教の神に敬意を表している。
だが、ルティス帝国を正しい国に改める為には、アメリア教では駄目だ。
別の、もっと人々の心に響く宗教でなくては。
神の愛を、人への愛を強調し、平等を謳う宗教でなくては。
だから、私はアメリア教に代わる、新しい宗教を自ら生み出した。
それが、『天の光教』。
私があの日、天の光に照らされ、神の愛に触れたように。
他の多くの人もまた、天の光に照らされるように、という願いを込めた名前だ。
私は自ら教典を書き、自らを教祖として、宗教団体を設立した。
そこから、『天の光教』が始まった。
けれど、私はアメリア教を改めて、見つめ直した。
聖典を改めて読み、何度も何度も繰り返し読んだ。
結果分かったのは、アメリア教は「自由過ぎる」ということだ。
アメリア教の本質は、「信仰は自分の心の内にある」というもの。
言い換えれば、自分一人だけが神を信じていれば、他の人が信じていなくても構わない、ということだ。
すなわちそれが、信仰の自由というものなのかもしれないが。
私は、そうは思わない。
アメリア教は信者に祈りを強制しない。巡礼や礼拝を求めない。
何故なら、信仰心は心の中にあるもので、態度や行動に表さなければならないものではないからだ。
要するに、心から神を信じているのであれば、わざわざ祈る必要はないよ、ってことだ。
私は、これもおかしいと思う。
信じているのなら、祈り、神を敬うのは当然のことではないか。
アメリア教は、信徒に寛容過ぎるのだ。
だから、こんなにも信じる人が少ない。
信者達の団結力、同じ宗教を信じる人同士の結束力が伴わない。
アメリア教の神を侮辱するつもりはない。私は、今でもアメリア教の神に敬意を表している。
だが、ルティス帝国を正しい国に改める為には、アメリア教では駄目だ。
別の、もっと人々の心に響く宗教でなくては。
神の愛を、人への愛を強調し、平等を謳う宗教でなくては。
だから、私はアメリア教に代わる、新しい宗教を自ら生み出した。
それが、『天の光教』。
私があの日、天の光に照らされ、神の愛に触れたように。
他の多くの人もまた、天の光に照らされるように、という願いを込めた名前だ。
私は自ら教典を書き、自らを教祖として、宗教団体を設立した。
そこから、『天の光教』が始まった。


