待ち合わせは午前7時45分、桜の樹の下で。

「はぁっ、はぁっ」

小学校の通学路を自転車で駆け抜ける。6年前に卒業した母校を横目に立ち漕ぎをすると、あの日よりずっと軽々と塀の向こう側が見通せた。弾む息を吐いても白くならない朝の陽に、新しい春の訪れを感じる。日差し避けのために被ったキャップが僅かに煽られて慌てて手を添えた。

陸橋の下を急行電車が行き交う。街を横切るように東西に伸びた線路は、東京郊外と23区を繋ぐ生命線だ。特に彼女――愛原菜雪(あいはらなゆき)が住まう駅は、都心に向かうサラリーマンと、都下方面へ向かう学生とがどちらも多く利用する。上りにしろ下りにしろ、満員電車を避けることが出来ない立地だった。

駐輪場に到着すると、体が覚えた台へ愛車を格納する。高校時代からすっかり顔なじみとなった警備員のおじさんが「もう大学生か。引き続きよろしくね」と箒片手に笑顔をくれた。

改札を潜り、雪崩に身を任せるようにして、予定時刻より一本早い電車に乗る。入学式典に向かった昨朝に比べ、視界に入る車窓の面積が少ない。人の頭の間から見下ろす街の桜は、次の週末までは見頃だろうと予報が出ていた。

風に泳ぐ花びらが屋根に土にと降り積もる。ある時は川に降り立って、薄桃色の流れが作られていく。見慣れた風景に新たな絵の具が加わっていくこの季節は、いつでも菜雪の胸に光と影を連れてきた。

(……早く会いたいな)

菜雪の逸る心に応えるように、電車の速度が落ちて隣駅に到着した。薄っすらと汗をかいていた肌に外気が触れる。キャップを外すとより心地が良い。目の前で会話していた男性2人組が降車して、入れ替わるように数名の女子高生が乗り込んでくる。つい数週間前まで菜雪も高校に通っていたのに、制服を纏っているというだけで別の人種のように見えるから不思議だ。そのうちの一人が、顔を上げるなり菜雪と目が合いびくりと肩を震わせた。

「あ……」

カラーコンタクトを嵌めた大きな黒目が、戸惑いに揺れるのを見る。名も知らぬ彼女は気まずそうに視線を外すと、逃げるように車両の中央へと人波を掻き分けていった。

(……びっくりする、よね。久々だな、こういうの)

悪気は無いのだろうことが分かるだけに、純粋な反応が堪える。キャップを被り直して入口の脇に体を滑り込ませると、発車間もなくトンネルに突入した車窓に見飽きた顔が反射した。

灰色とも薄茶色ともつかない髪、翠や赤の虹彩が複雑に入り混じるヘーゼルアイ、その瞳を覆うための長い前髪と、下に見え隠れするそばかすだらけの白い肌――どのパーツを取っても混ぜても、日本のど真ん中では奇怪に映っているのだろう。派手な髪色やカラコン、コスプレがサブカルチャーの域を飛び出した昨今でさえ、菜雪の素面はあまりに浮世を離れていた。

少しでも目立たぬよう、コンタクトやヘアカラー、メイクの工夫に挑戦しようとしたこともある。しかし脆弱すぎる体質にはどれも刺激が強く、最後には皮膚を真っ赤に腫らしてドクターストップを食らってしまった。年齢を重ね、日よけ・日焼け対策をしていれば日常生活は問題なく送れるまでになった。同じような体質で悩む人々に比べ、菜雪は軽症に類するのだろう。ただ見た目だけを拾いあげれば、彼女はこの島国において十分に異質な存在と言えた。電車内での呼吸のしづらさは、そのまま菜雪が毎日に感じている生きづらさだった。

『次は〇〇駅――、お出口は……』

アナウンスが降車駅を告げて、ハッとする。菜雪の立つ扉は開かないらしい。何も考えずに隅っこに入り込んでしまったのが裏目に出た。

「お、降ります……っ」

おそらく居合わせた大半が乗り換え拠点となる次の駅で降りるはずで、菜雪は俯いたまま彼らの間に肩を入れるのが精いっぱいだった。濃縮された人の気配と、声を上げなければというプレッシャーに胸が圧し潰される。手を伸ばしても扉に届かない。コートの隙間から覗いた手首は青みがかるほど白い。他の誰とも違う肌。乗客が菜雪を振り返り、無数の視線に晒される幻覚が見える。


――気持ち悪い目――


「なーちゃん!!」

倒れる、と思ったその時、必死に空を切っていた指先に宝石のような何かが絡みついた。桜をデザインしたネイルの誰かに引っ張り出されたのだと気が付いたのは、扉の外に転がり出て、ホームドアが閉まってからだった。

「は、はぁ……っ、」

過呼吸を起こしかけた胸を懸命に撫で下ろし、吐いた分だけ吸うを繰り返す。白んでいた視界が徐々に色を取り戻す。自分の脇を忙しなく行き交う革靴やスニーカーが、時折訝しむように傾くのが嫌でも目についた。

「ねぇ、あの子……」
「え、やばくない?」

ひそひそと囁かれる声が、まるでスピーカーを通したように耳元で響く。僅かに顔を上げると、下りエスカレータが女子高生を三人乗せて降りてくるところだった。目立ちたくない。助けを求めたい。目立ちたくない。一人は怖い。目立ちたくない、放っておいてほしい――。

「あのぉ……」

体が跳ねて、三足のローファーのつま先に思考が停止した。

「大丈夫ですかぁ?」
「駅員さん呼びます?」
「い……いえ、えっと……」

ぶわりと冷や汗が噴出して、弱々しい声が手元に落ちる。身を捩った拍子にジーンズの下がひりついて、今さら膝を擦りむいていたことに気が付いた。

その時、コンクリートの上で握り締めた両手に、あの桜のネイルチップが5枚重なった。

「え……」
「ごめんねぇ、大丈夫!アリガト♡」

耳朶に心地いい、少し癖のあるアルトボイス。背中をさする手が加わって、小さな子をあやすような優しい摩擦に記憶の奥が疼き出す。

「てかお姉さん、超キレイ」
「さっきからずっと見ちゃってヤバイ」
「まつ毛なっが……後光差してるって」

ローファー3人組が口々に零す台詞は、明らかに菜雪に向けられたものでなく、彼女の頭上を悠々と通過していく。

「えー、ほんと?可愛い子たちに言われると自信ついちゃうなー。あ、ほら電車出ちゃうよ、ありがとうね」

桜の手に反対ホームを示された女子高生たちは、まるで菜雪の存在など忘れ去ったとでも言うように会話を切り上げ、停車中の各駅停車へと吸い込まれていった。電車が走り去り、しきりに鳴り響いていたアナウンスが途切れる。

「なーちゃん、大丈夫?」

その僅かな静寂を縫って、もう一度名前を呼ばれた。背中の手のひらが、今度は菜雪の頬に添えられて、首を擡げるよう促される。

「……りょう、ちゃん?」

まず菜雪の意識を占拠したのは、濃淡入り混じる紫の瞳だった。カラーコンタクトであることは一目で知れたが、その向こうに透けた黒目は彼方まで続く藤棚のように奥行きを以って菜雪を捕らえる。完璧な形のパーツを完璧な場所に配置した顔の造形もさることながら、春の風を纏って揺れる長いブロンドは先端一ミリメートルまで艶やかだった。

「ふふ、待ち合わせより先に会えちゃったね」

淡い色のリップが、控えめな弧を描く。菜雪を極限まで甘やかすような声色は相変わらずで、会えなかった3年という時間と距離が瞬く間に埋まっていく。

「りょうちゃん」
「うん」
「本当に、りょうちゃんだ」
「それは僕の台詞。……本物のなーちゃんだ」

じわり、じわりと濡れていく目を隠したくて、誤魔化すように目の前の胸に飛び込む。スプリングコートから覗くレースがくすぐったくて、温かい。抱きかかえるように頭を包まれたかと思えば、髪の毛に頬擦りをされた。

「よしよし。頑張ったね――菜雪」
「りょうちゃ……っ、うわぁぁん」

その日、菜雪は生まれて初めて人目を気にせず泣き喚いた。目立つことを避け、人の視線から逃げ、押し殺すことでようやく手にできる安寧を捨てて、気が済むまでホームで泣いた。彼女の涙が枯れるまで、桜色の待ち人の手は、ひと時も休むことなく髪を撫でてくれていた。









「僕がぜったいに、なーちゃんを守るから」

公園の片隅で膝を抱えていた菜雪に、一つ年上の少年・乙女河綾(おとめがわりょう)は堂々とそう宣言した。あの出会いの日がもう8年も前のことかと思うと眩暈すら覚える。

綾のことを、菜雪はあまり知らなかった。3ヶ月ほど前、2学期のスタートと同時に転入してきたこと、菜雪の学年の間ですら「5年生にイケメンが転校してきた」と話題になったこと。意外と家が近いと知ったのは、しばらく経ってからのことだった。

綾は兎にも角にも目立つ存在だった。整った目鼻立ちと手足の長さで小学生離れした空気を纏っているのに、明るく溌溂とした性格は人を分け隔てなく惹き寄せる。人との関わりにも積極的で、委員会やクラブ活動でもリーダーを務めた。運動神経は抜群とまではいかなかったが、徒競走のタイムは学年でも上位に入っていたと思う。

一方当時の菜雪は、学年が上がるに連れ外見の異質さを自覚するようになっていた。声の大きなクラスメイトに罵られ、二日に一度は持ち物が無くなった。自己主張すれば弾かれ、大人しくしようとすればするほど反比例するように周囲の反感は膨れ上がる。

そうしていよいよ身動きが取れなくなったころだった。ついに学校の外にまで魔の手が伸びてきたのは。

「や、やめて……」
「は?聞こえないんですけど」
「見た目とおんなじくらい主張したらー?」
「ウケる、ほんとそれ」

いつものように息を殺して、誰とも挨拶を交わすことなく帰路についた。そうすれば、まるで空気のように皆が無視してくれることを学んだから。そのはずだったのに。

忘れもしない晩秋の午後。後ろからいくつもの足音が近づいてきたかと思えば、次の瞬間にマフラーが締め上げられた。苦しさに膝をつくと、今度は手提げ袋が奪われていた。クラスで嫌がらせを主導する女子とその取り巻きだった。

「てか無視して帰ってんじゃねーよ!」
「黙っててもその白髪目立つっつーの」
「やだ、それ返して……」

見た目のことをからかわれるのも、物を盗られるのも慣れていた。迎合を良しとする小学生にとって、この髪や瞳が真っ先に排除対象に選ばれたことも、幼心に理解していたつもりだ。ただ奪われた手提げ袋――そこに着けているうさぎのマスコットだけは、菜雪は何に代えても取り返さなければならなかった。

「ねえ、これ隠しちゃおうよ」
「いいね、早く行こ」

リーダー格に取り巻きが提案し、一も二もなく採択される。悪魔の集団はすぐ脇の公園に入ると、青ざめる菜雪を置いて奥の林に一直線に向かう。枯葉を踏み荒すざくざくという音がノイズのように内耳を突いた。

「ニラんでんじゃねー、気持ち悪い目」

耳障りな笑い声とともに戻ってきた少女たちは何も手にしていなかった。菜雪は罵倒と入れ違いに枯葉の海へと飛び込み、爪先に湿った土が入り込むのも厭わずに掻き分け続けた。やがて、

「あった……」

堆積した落ち葉の下、丁寧に湿った土までかけられた黄色の布袋が見つかった。白かったフェルトのうさぎは泥水を吸い、元の姿を留めていない。菜雪は顔が汚れるのも構わずマスコットに頬を寄せた。

「ごめん……ごめんね」

項垂れて公園に戻ってくると、そこには木枯らしに舞う砂埃があるばかりだった。曇天が風に鳴き、目に埃が飛び込んでくる。思わず手を持っていくが、指先から漂う土の香りに溜め息を吐く。痛みに耐えていると自然と涙が零れてきた。

ベンチに腰掛けて両足を抱く。涙がジーンズに吸い込まれて膝に染みが広がった。もう聞き飽きたと思っていた悪口が、今になって脳内に木霊する。

――黙っててもその白髪目立つっつーの。

――気持ち悪い目。

息を殺して生きてきた。
大人しくしていればいなくなれるはずだった。
それなのに、どうして誰も無視してくれないのだろう。

「私のせいじゃ、ないもん……」
「何が?」
「!」

弾かれるように顔を上げる。声を掛けられるまで気配に気づかなかったのが嘘のような存在感が、目の前に広がった。

化粧をしたような長いまつ毛に黒目がちな瞳。形のいい額をさらさらと流れる焦げ茶の髪。しゃがみ込んだ姿勢でも、手足の長さが隠しきれていない。年齢を踏まえても、皆が騒ぐようなイケメンというより、「美少女」と称した方が正しく魅力が伝わりそうだった。

「……転校生のひとだ」

菜雪に知られていたのが意外だったのか、目の前の美少年は僅かに唇を尖らせた。

「オトメガワリョウだよ」
「おとめがわくん」

綾は手近な小枝を拾うと、地面にさらさらと「乙女河 綾」と書いた。知っている字は「女」だけだった。

「長いからみんなおとめちゃんって呼んでる。でも本当は下の名前がいいんだよね」
「りょうくん……りょうちゃん?」
「ありがと。どっちでもいいよ」

満足げに笑う綾は一際可愛らしい。思わず見惚れていると、彼は菜雪の手に収まるマスコットに目を留める。泥が北風に乾き、白みがかった色に変わっていた。

「汚れてる。落としたの?」
「泥に埋められたの。私いじめられてるから」

初めて言葉にした事実は、容赦なく自身の胸に突き刺さる。口に出すことで、永遠に癒えない切り傷を自ら刻んでしまったような気さえする。綾は小首を傾げ、そんな菜雪をまじまじと覗き込んだ。

「なんで?」
「えっ」
「なんでいじめられてるの?」
「……私の見た目が、ふつうじゃないから?」
「どんなところが?」

心底分からないと言いたげな表情で、髪、瞳、肌、身長、体重、服装……まるでAIロボットが体の中までスキャンするように、綾の視線が菜雪を滑る。気恥ずかしさに思わず俯くと、綾が「あ、分かった」と真顔で手を打った。

「爪が伸びてる」
「え、ち、違うよ……伸びてるけど」
「じゃあ唇がかさかさ」
「今日リップ忘れちゃっただけ」
「耳たぶが小さい」
「初めて言われたよ、そんなの」

難しい顔で彼が悩みだすものだから、菜雪はついに吹き出してしまった。先ほどまで流していた涙は嘘のように乾き、お腹を抱えて声を上げる。菜雪の笑い声に驚いたのか、可憐な瞳を丸くして、ぱちぱちと瞬く綾の目はお人形のようで――、

「かわいい」

自分の心の声が漏れてしまったかと思ったが、そうではなかった。

「かわいい。もっと見せて」

冷たい風に頬と鼻の頭を赤めて、大きな瞳を愛おしげに細めて笑った少年は、テレビで観たどんな絵画の天使より余程現世離れした美しさを持っている。冬の空気に晒されていた耳が瞬く間に熱を上げて、マフラーの下にじわりと汗をかいた。

「ねえ、名前おしえて。僕んちの近くの4年生だよね」
「愛原……菜雪」
「じゃあ、なーちゃんだ。りょうちゃんと、なーちゃん」
「りょうちゃん……」
「なぁに、なーちゃん」

幼い2人の間を乾いた風が吹き抜ける。それなのに、体温は奪われるどころか上昇する一方で、綾の慈しむような笑顔に心臓が煩く跳ね続けた。泥まみれのうさぎを握り締めていた両手に、細くて綺麗な指が重なる。

「なーちゃんは本当に、見た目が違うからいじめられてるの?」
「……たぶん。いつも気持ち悪いって言われる」
「こんなにきれいなのに、あいつら分かってないね」

“綺麗”。その言葉なら綾にこそ釣り合うだろうと眉を顰める。鏡を見たって、自分の髪は、瞳は、肌は異質だ。

けれど悲しい顔をしていたら、両親が泣いてしまう。体さえ耐え得るならば、髪を染めてもコンタクトをしても、学校を休んでもいいと彼らは言ってくれたけれど。祖母の手作りのうさぎは白い胴体に翠の目をしていて、菜雪もこんなに可愛いんだよと手を握ってくれたけれど――。

自分は悪いことをしていないと、この時の自分はまだ思えていたから。

「できるだけ、目立たないようにしてるんだけど……」
「…………」

人差し指を口元に当てて何か思案している綾は、それだけで一つの作品のように完成している。遠く、公園から一筋外れた通学路を子供が駆けていく声が聞こえる。中学生の授業を告げるチャイムが鳴り止んだあと、ややあって綾が並びの良い歯を見せた。

「なーちゃんちって、大人のお姉ちゃんいるよね」

問いというよりは、確かめるようなニュアンスだった。家が近いこともあるだろうが、同年代の家にいる大学生という存在は、それだけで小学生には興味の対象だ。姉が服飾系の大学生で、ファッションの勉強をしていて、毎日個性的なヘアメイクで出かけていくことは、会話をしたことがない同級生にも周知の事実だった。しかし、それが一体どうしたというのか。

「あのね、僕、可愛い格好してみたいんだ」
「え?」
「お母さんは「綾はイケメンだから」とか言って、男っぽい服ばっかり買ってくるんだけど」

今日の彼の服装は一言で言うとスポーティだ。かと思えば、以前縦割り班活動で見かけた時には細身のジーンズ――姉はスキニーと呼んでいた――に白シャツという教師よりも大人びた格好をしていて、当然のように似合ってはいたが、綾の言う通り「可愛らしい」とは真逆の印象だった。

「これも嫌いじゃないんだけどさ、可愛い服も絶対似合うと思うんだよね」
「……ふふふ、自分で言っちゃうんだ」
「思わない?」
「思う、すっごく」

でしょ?と首を傾げてハートサインを作る綾は、動画サイトの中のアイドルよりずっと可憐で胸がきゅうっとする。

「だからさ、可愛いお化粧と服、僕に教えてくれない?」
「え!?」
「その代わり、僕はなーちゃんがいじめられてたらすぐに助けに来る」

予想だにしていなかった申し出に、思わず背筋が伸びる。猫背が癖になった身体が少しだけ軋んだ。泥うさぎと頭をぶんぶんと左右に振りながら、「ぜったい無理!」と声を高くする。

「お姉ちゃんがお勉強してるってだけで……」
「でもお家に道具とかたくさんあるよね?それを時々貸してくれるだけでもいいんだ」
「……ある、けど」

菜雪の部屋には、小柄な姉からお下がりした服や彼女が読み古したファッション雑誌が山積している。姉が捨てようとしていたメイクパレットをいくつか貰ったこともあった。しかし当然ながらどれも流行遅れの使い古しで、そんなものが「菜雪を守る」対価として釣り合うとは到底思えなかった。

「僕がぜったいに、なーちゃんを守るから」

再び体を丸めて俯いていると、膝の上で握り締めていた両手に細くて綺麗な指が乗った。同じだけ外気に晒されていたはずの綾の手は信じられないほど温かくて、じわじわと心がのぼせてくる。

「だからなーちゃんは、ずっと笑ってて」
「りょうちゃん……」
「僕が、なーちゃんだけのヒーローになるから」

そう言って綾が笑ったあの日から、彼は今も変わらず菜雪の"ヒーロー”であり続けている。









綾に貰った水が、喉をするすると滑り落ちていく。目の前の自動販売機を迷わず通り過ぎ、わざわざコンビニで常温のぺッボトルを選んできてくれたことに、彼の細やかな労りを感じる。

「気分どう?なーちゃん」
「ありがとう、もう平気。でも、メイクは全部落ちちゃったかも」

瞬きのたびにそよ風でも起こしそうな綾のまつ毛が、心配そうにぱちぱちと上下する。その間にも、ホームを行き交う老若男女の利用客が皆、ベンチの前に膝をつく彼に視線を投げていた。綾の隣にいると誰であろうが気配が希薄になる。まるで錯視かイリュージョンだ。

「化粧なら僕が直すから安心して♪」
「りょうちゃん、メイク続けてたんだね。お洋服も可愛い」
「もちろん!高校の時はさすがに週末だけだったけど、大学入ってからはオシャレし放題だよ。その代わり、バイトの給料全然足りないけどねー」

弾むような声で語りながら、すでに右手は菜雪の肌にティッシュを滑らせている。綾の鞄の上にはいつの間にか大きなマルチケースが広げられていて、数えきれないほどのメイク道具が覗いていた。

「なーちゃん、相変わらずお肌綺麗」
「うそ……そばかす増えたよ」
「それはさ、隠したければ隠せばいいし。僕は大好きだけどね。キメの話だよ。本当につやつやで綺麗」

皮膚の上の全作業が絹糸で撫でるような柔らかさで進んでいく。僅かな摩擦にも赤らんでしまう菜雪の肌質を気遣ってのことで、それは菜雪自身にも、プロのメイクアップアーティストである姉にも無い、綾だけの見事な手腕だった。

「……僕に会えない間、どうしてた?」

アイシャドウの工程に移ったところで、綾に尋ねられる。目を瞑ったまま、消し去りかけていた数年の出来事を掘り起こす。

「勉強ばっかりしてた」
「そうなんだ?」
「りょうちゃんと同じ大学行こうって決めてたから」
「……うん」

綾は、中学校卒業と同時に都外の高校に進学した。菜雪が昨日入学式に出席した大学の付属高校であり、関東きっての進学校。そのうえ寮併設の男子校で、綾が入寮すると聞いた時にはもう二度と会えないのではと絶望したことをよく覚えている。

綾が女装を始めてから、菜雪への嫌がらせは目に見えて減っていた。約束通り彼が四六時中行動を共にしてくれたこともさることながら、人気者だった綾の外見が突如豹変したことで、学校全体の興味が彼に移ったことが大きかったと思う。お陰で菜雪は小学校の残り2年間、そして綾が卒業するまでの中学校2年間を平穏に過ごすことができた。――のだが。

菜雪に張り付いていた麗しいボディーガードが街を去って以来、それまでの時間を取り戻すかのごとく、菜雪への嫌がらせは爆発期を迎えた。悪夢のような受験期と高校生活を乗り切れたのは、綾が進学するであろう大学に合格するという、明確な生きる目標があったからだ。

「りょうちゃんに会いたくて今日まで頑張れた。ずっと会えなかったけど……りょうちゃんが心の中でヒーローでいてくれたから」
「ヒーロー、ね」

零すように繰り返された言葉は、僅かに震えていた。視界が遮られているからだろうか、彼の微かな変化が敏感に引っかかる。

「? どうしたの?」
「なーちゃんにとって、僕は今もヒーローなんだ?」

目を開こうとしたら、阻むようにブラシが触れて断念する。

余計なことを言ってしまったかと不安になり口を噤む。偶然発見したSNSのアカウントを通じて大学に受かったと報告した時は、「おめでとう、早く会いたいね」と再会を望んでくれた。それだけのことに浮足立ち、小学校時代の拙い約束を未だに持ち出してヒーローだなんだと騒ぐ自分は子どもじみていただろうか。

(こういうの……もうやめようって思ってたのに)

卑屈は周囲を不幸にする――十分に身につまされてきた。それでも、人を信じることができなかった。世の中の視線全てが突き刺さり、自分を愛してくれる人間など存在しないと言い聞かせて生きてきた。人間は、期待をしただけ裏切る生き物なのだから。

アナウンスが響いて、ホームに何本目かの通勤電車が滑り込んできたのを聴覚と風圧で感じる。見えてもいないのに、軽やかに靡く綾のブロンドが脳裏に描き出される。不意にネイルの冷たさが額を掠めたかと思うと、瞼の上に綾の手のひらが乗せられた。

「りょうちゃん……?」
「僕はもう君のヒーローじゃない」
「え――、」

景色はすでに失われているのに、さらなる暗闇に突き落とされたような気分だった。落ちて落ちて、落ちていくうちに、血液が逆流し思考も脳も唇もじりじりと痺れていく。

自分は、何を間違えたのだろう。
彼を縛り付けたこと?
それとも、こんな見た目で生まれてきたことそれ自体が、何かの罪だったのだろうか。

「なーちゃん」

呼ぶ声は、いやに近くから聞こえた。目を覆っていた手が外れると、額にこつんと何かがぶつかって、両手で頬が包まれる。ぼやける視界いっぱいに長いまつ毛が映し出される。彼のふわふわな涙袋に、ピンクゴールドのグリッターがきらめいている。

「なーちゃん、泣いてるの?どうして?」
「だ……って」
「僕にヒーローじゃないって言われて悲しくなっちゃった?せっかく会えたのにって、寂しくなっちゃった?」

先ほどまでここにあった駅の喧噪も、髪を攫うホームの風も、冬の刺すような空気も、全てが意識から乖離していく。重なった額の体温と手のひらの湿度だけが、いやに生々しく菜雪を現実に引き留める。

「りょうちゃん……なんで笑ってるの?」

菜雪はその時、鼻先を突き合わせた綾のベビーピンクのリップが、それはそれは楽し気に歪められているのを見た。いたずらを隠した子どものようでいて、欲望を抑えきれない大人のようでもある。背筋をぞくりと得体の知れない悪寒が駆け抜けていく。

「僕、君を守るって言ったあと、実はすごく後悔したんだ。だってそのせいで、なーちゃんは少し明るくなって、僕以外とも仲良くなっちゃった。なのに大学でもヒーローなんて続けられないでしょ?」
「意味が、よく……」
「初めからこうしておけばよかったんだ。なーちゃんが、僕だけのものになるように」

綾が微かに首を傾げて、唇が触れた。少し離れて、確かめるようにもう一度触れて。幾度も啄んだかと思えば、最後に口角をちゅ、と吸って離れていく。舌なめずりをする意地悪な口元も、企みを含んで細められる大きな瞳も、全てが官能的で目が回る。

「ごめんね。僕はもう、君を攫う悪者だから。ヒーローは今日で契約解除だ」

過去の自分を救ってくれた英雄は、これまで見た中で最も美しい笑みを湛えていた。



to be continued