新谷坂町怪異譚 〜君と歩いた、ぼくらの怪談

 僕が新谷坂山の封印を解いた時の話をしよう。
 始まりはやっぱり新学期、新谷坂(にやさか)高校1年4組の最初のホームルーム、自己紹介の時間だった。
東矢(とうや)一人(ひとり)です。東の矢に一人と書きます。隣の三春夜(みはるよ)市から来ました」
「一人? ボッチなん?」
 目が合った。
「はい」
 ……何故そこで頷いてしまったんだ。
 少しざわめく教室にほどよく響いてしまった女子の呟きととりあえずの僕の応答に、空気がピキリと凍り付く。高校こそは友達を作ろうという気概で溢れていたけれど、これまで確かにボッチだったから、きっと何かが空回ってしまったんだと思う。
 その瞬間、教室は混乱と、絶妙に微妙ないたたまれない空気に包まれた。
 十秒ほどの無音の世界が過ぎた後、どこ吹く風だったその女子はきょろきょろと周りを見回し、まずったかな、という顔をしてテヘヘと軽く手を擦り合わせた。
「ごめんごめん。悪気ない」
 その女子、末井(まつい)ナナオさんには本当に悪気はなかったらしい。明るい金色の髪を頭の上にくるりと結い上げ、制服もゆるく着崩しているいわゆるギャル系な人。でも、同級生に微妙な距離を取られてしまった。
 不本意でなんて不意打ち。
 親の引っ越しのタイミングでこの高校の寮に引っ越したばかりで、この学校には知り合いですら、真に一人も居なかった。そもそもボッチな僕がボッチが確定した瞬間。
 このままじゃ高校3年間ボッチなの? そんな恐慌が頭の中を駆け巡った時、僕に声をかけたのも、そもそもの発端のナナオさんだった。特に責任を感じてのことでもないらしい。
「ようトッチー、何見てんの」
「街アプリ。買い物行くにもお店がよくわかんなくて」
「なんなら案内すっか?」
「いいの?」
「もちろんだとも!」
 ナナオさんは、地元出身組で渡に船。パッと見最初はちょっと怖かったけど、とても良い面倒見がいいタイプ。道端で困っている人がいれば声をかけずにはいられない。……僕の『ボッチ』みたいに頭から直行する発言がちょくちょく人に刺さってるけれど、周りを明るい雰囲気にさせる人で、僕には圧倒的に欠けてるスキルをお持ちだ。将来の夢は記者で適職だと思う。
「それでボッチ……じゃなくてトッチー」
「もうどっちでもいいよ」
 ナナオさんは名字の東矢のトをとって僕をトッチーと呼ぶことに決めたようだ。それから僕らには怪談話が好きっていう共通点もあった。

 さて、本論に戻ろう。
 僕が怪異の扉を開ける切欠は4月の終わり、GW直前の昇降口で発生した。その話はやっぱりナナオさんが楽しそうな足音と共に運んできた。
 クラスがGWに沸きたって、みんながなんとなくソワソワしていたころ。浮かれた雰囲気に反してナナオさんが持ってきたのは、怪奇現象の話だった。
「トッチー。新谷坂山の封印の話って知ってる?」
 これが全ての始まり。
 その瞬間、春先にしては冷たい風がぴゅうと昇降口に吹き込んで、ざざりと不思議な香りが漂ったのを覚えてる。
 けれどもナナオさんと同じく怪談話が大好きだった僕は、そんな奇妙な気配は気にせずに、僕はまた、なんとなく答えてしまう。
「どんな話?」
「ほら、学校裏の新谷坂(にやさか)山。ここになんかヤッバイのが封印されてるんだって」
 昇降口に一瞬流れた奇妙な雰囲気を気にしなかったのは、きっとナナオさんの表情に全く危機感がなかったからだ。
 ナナオさんは地元出身。だから僕の知らない地元の七不思議や怪談をたくさん知っている。そしてこの封印の話は、このあたりでは有名な話らしい。
 その指は、校庭とは反対方向を指し示す。僕らの今いる新谷坂高校は新谷坂山の中腹に建っている。ここは昇降口で校庭と校舎のちょうど中間。時刻はちょうど夕方で、校庭のある南側は辛うじて明るい陽が煌めいているけど、新谷坂山を向いた北側は既にうっすら暗くなっているはずだ。
「何十年か前に新谷坂山に住宅地を作ろうとして、鉄道会社が山を削ろうとしたんだわ。そんでなんかよくわかんないけど、悪いことがいっぱいあったらしいんだ」
「なんか?」
「うんうん。そんでね、それよりもずっと前の戦前にも新谷坂山にトンネルを掘る話があって。そん時もなんかよくわかんないけど、悪いことがあったから中止になったんだって」
「へえ」
「けど、新谷坂山はもともといい山だって近所の婆ちゃんは言ってたんだよ。昔のえらい人が超悪いものをたくさん封印して、その後も悪いことが起こんないように見守る山だったんだって。そんで、今でも山頂の新谷坂神社のあたりはパワースポットになってんの」

 つまり、新谷坂近辺は昭和の始めにベッドタウンとして作られたのが新谷坂町。山まで開発する計画があったけれど、山裾の工事に着手すると悪いことが起こった。
 新谷坂山は古くから霊験あらたかな山といわれていた。大昔に何か悪いものが封印されて、その後も鎮守の役割を担っていた。けれども開発工事で封印が解けるのを止めるために、神様か何かがやめさせようとして悪いことを起こしてた……ってことかな。
 でも山自体の標高は低くてハイキングルートになっている。春の遠足で1回上ったけど、景色がいい緑の多い山でピクニックに最適な感じ。封印とか、そんな怖そうな話がある雰囲気じゃなかった。
「そんでね、今度真夜中に新谷坂神社にいってみない? 一泊になるけど肝試しかねて」
 思わず僕は運動靴を取り落としそうになる。深夜のお泊りデートのお誘いですと。そんなハプニングは僕史上初めてだ。
 でもよくよく聞いてみると、ナナオさんのメイン関心は封印じゃなくてパワースポットのほう。新谷坂神社の絵馬に深夜に好きな人の名前と『仲良くなりたい』と書いて奉納すると願いが叶うらしい。そんな噂を友達づてに聞いたとか。ナナオさんには今好きな人がいる。つまり全然デートじゃない。
 ナナオさんはえへへとちょっと申し訳なさげに笑う。
「でも一緒にいくだろ?」
 僕は怖い話ならついていく、ぴったりはまった余剰人員なのだ。サプライズハッピーなんてそうそう起こったりしない。……期待してなかったけど。
「わかった、いくよ……」
「やたっ」
 ナナオさんはそう小さくつぶやいて嬉しそうにキュッと手を握りしめた。
「あ、そうだ。これは怪談じゃなくて事件かな。その工事しようとして以降なんだけど不審死がいっぱい出てるんだって。野犬か何かに喰われたみたいな死体が何年かに一件くらい出てるんだ。襲われるのはいつも一人でいる人で、複数人いるときには被害者は出てないようだから大丈夫だろうけど、気をつけような」
「えぇ? そっちの方がよっぽど重要なんじゃないの?」
「ハハッ。そんじゃ!」
 ナナオさんは最後にとんでもない爆弾を落として軽やかに昇降口を駆け抜ける。僕はまたポツンと取り残された。
 僕の役目は友達以前の野犬除けか……。
 慌てて追いかけ校庭に出て、何となく後ろを振り返るとすぐに新谷坂山が目に入る。ザワリと強い風が吹き、山は黒く染まっている。たまたまなのか、ちょうど横切った雲の影になっていて、その斜面は少しだけ不気味に見えた。
 気づけば校舎にはもう人影なんて何もなかった。

 新谷坂神社は、山頂を少し下ったところで徒歩なら多分片道2時間くらい。
 美人の同級生と一泊。でも全然ドキドキしなかった。ナナオさんだし恋の絵馬掛けの付き添いだ。
 けど僕は、冒険自体にはそれなりにドキドキしながら、事前に懐中電灯とか、お菓子とか、次々と荷物をリュックにつめていく。ネットで調べて、念のため野犬除けに防犯スプレーも持った。万一に備えて。
 そうしてとうとうGW最初の夜が訪れた。
 19時。
 ハイキングコース入口でナナオさんを待つ。
 昼と夜の山の顔は想像以上に違っていた。昼は明るく太陽に照らされ人で賑わうコース入り口の看板も、小さな外灯の灯りに照らされその凹凸やひび割れがもの寂しく浮かび上がり、なんだか少しおどろおどろしく思える。
 少しのあと、ナナオさんはスマホのライトを光らせながら、驚くほどの軽装で現れた。
「大きな荷物とかもってくと親にばれるしー?」
 スキニージーンズに膝丈までのグレーのロンT、薄手だけど膝下くらいまである白くて長いニットカーディガンにそれなりのヒールのあるショートブーツ。それから薄黄色のキャップ。メモ帳と財布と携帯がギリギリ入る小さなチェーンのバッグを肩からかけている。
「だってすぐに願いがかなってさ、降りてくるときバッタリ会えたら困るじゃんか」
 ナナオさんはニカッと笑う。言い合っていてもらちがあかない。
「それじゃあ行きますか」
「おう!」
 僕は真っ暗な新谷坂山を見上げ、ふうっと一息ついて登り始めることにした。

 夜の山は、僕の想像以上に暗い。
 登り始めにあった外灯もハイキングコース入口を超えればそれもなくなり、月と星の明かりだけが見下ろす真っ暗な山道が続いていく。たまに風にゆれる木のてっぺんから、ちらりちらりと月が見えるくらいで、暗闇の中、懐中電灯のユラユラ揺れる僅かな明かりで一歩一歩進む。圧倒的な闇に比べて心細い。けれどそれほど、少なくとも怖くはなかった。
「うぉっ何だ今の」
「なんかあった?」
「なんか、よくわかんない」
 唐突に上がる声は僕を困惑させ、その分恐怖をどこかに追いやる。
 最初はおどろおどろしかった山道も、二人で歩けば山道も案外と心強い。ヒュルヒュルとふく風とガサガサする葉っぱの音、ジャーッという何かの虫の音、ホウというフクロウかなにかの声。それから湿った草を踏んだときに時折感じる青臭い香り。僕らの靴音以外にも、夜の山は結構にぎやかで、僕らの足取りに色を添えた。
 標識はところどころで見落としたけど、遠足できた時の記憶をつないでなんとかリカバーし、途中、もう帰ろうよ、いや後ちょっとじゃね、とグチをいいつつようやく参道を見つけ、ハァハァ息を切らして石段を登ってなんとか神社についたころには23時を回っていた。
 けれども、苦労した甲斐はあった。
 荒い息を吐きながら登りきった神社の入口の鳥居でツゥと冷たく吹いた夜の風につられて振り返ると、すっかり木々は切れていて、視界はするりと広がった。そこにはこれまで今まで見たことがない光景が広がっていた。
 北は神津(こうづ)区、東は辻切(つじき)区の宝石を散りばめたような夜景が煌々と輝き、その更に南東には弧を描くような暗い海岸線の向こうに広がる海を静かに明るい月が照らしている。海岸線を辿っていけば、はるか先に僕が先月まで住んでいた三春夜(みはるよ)市の明かりも霞のようにわずかに見えた。その闇色の海を照り返す月光のたもとから夜空の中心に向けて、うっすらと煙のような天の川が立ち上っている。そのまま空を見上げれば、満天の星空が広がっていた。
 思わず、わぁ、と息が漏れた。まるで絵のように幻想的だ。息をするのもはばかられ、僕とナナオさんはしばらく無言で夜景を眺めた。
「さて、と。絵馬を探しにいかなくっちゃ」
 神社側を振り返れば、にぎやかで人の香りをのせた夜景とは対照的に神社はひっそりと静まりかえり、ざわざわ揺れる黒い影は人を拒むような静謐(せいひつ)さを湛えていた。あまり人の手が入っていないのか、かつて朱色に塗られていた鳥居も塗料は剥がれ落ちてひび割れている。下草も伸びて一見すると少し荒れているようにも思われた。
 鳥居をくぐって石畳を進んでたどり着いた本殿は、少し瓦が落ちていたけど、歴史のありそうな太く黒ずんだ柱や梁がしっかり地面と接続されていて、小さいながらも堂々とした佇まい。山裾や鳥居の外から少し感じたおどろおどろしさなんて欠片もなく、寧ろ安易に足を踏み入ってはいけないような、そんな神聖さで満ちていた。
 さっきの鳥居は夢と(うつつ)の境目。なんとなく、そんな気がする。
 どっちが夢でどっちが現かはよくわからないけど。

 ふいに、たくさんの悪いものを封じ込めている、という言葉を思い出す。鳥居をくぐった瞬間からはそんな話もなんだか信じられる気がした。
「うぉっ。怖ぇぇ」
 両腕を擦りながらさっさと奥に進む。境内はすぐ右手側に絵馬掛所がありまだ新しそうなカラフルな絵馬がたくさん掛けられていた。右奥に、社務所のような建物。
「絵馬って普通、社務所かな」
「そうじゃないの? 多分」
 ナナオさんはどんどん奥に進むけれど、社務所は当然施錠されて絵馬はない。それ以前に入口にも木の葉が積もってしばらく人が立ち入った形跡はない。
「まじ最悪。普通の服来てくるんだったぜ」
「帰ろうよ」
「折角来たわけだしさぁ、絵馬になるもん探すよ」
 ナナオさんは僕の存在なんかすっかり忘れたみたいに、代わりになるものはないかな、とうろうろと何かを探し始める。
「さすがに絵馬に使えるような板は落ちてないんじゃない」
 聞く耳はないらしい。諦めるまで待つしかなさそうだ。しかたがない。鳥居から夜景を見直そうか。ガランガランと本坪鈴を鳴らすと妙に乾いた音がした。

 ぼんやりしていると突然右手の茂みからガサガサっと音がして足下から、ニャーォ、という小さな声がした。
 目を落とせば、いつのまにか僕が座るのと同じ石段に闇から()み出たようなしっとりとした黒色をまとう猫がちょこんと座っていた。月明かりに照らされながら、金色の目で僕を見上げている。
 なにしにきたのかって聞かれているような、そんな雰囲気。
「友達の付き添いできたんだよ。もう少ししたら帰るから」
 黒猫はまたニャーォ、と鳴いた後、フィと僕から背を向けて、神社の奥に立ち去った。妙に人懐っこい猫。ここに住んでいるのかな。ご飯とかはどうしてるんだろう。

 見下ろす山裾から長い石段に沿ってふわりと長い風が吹きあがる。その冷気に方がぷるりと震える。夜がふけるにつれ、気温も次第に下がっていく。
 そういえばナナオさんが木切れを探しにいってからずいぶん経つな。神社の奥をのぞき込めば、しんと静かに闇が降り積もっていた。
 そんなに奥まで?
 その時、急に強い風が吹き、新谷坂神社裏手の木々がゴゥと(うごめ)き葉がざわめいた。唐突に神社の奥から、グルルルルゥ、という獣の低いうなり声が聞こえた。
「ナナオさん!?」
 獣? 僕は急いで立ち上がり、急に思い出す。ここは野犬が出るんだ!
「どこ!?」
 リュックから手探りで防犯スプレーを引き出し神社の奥へ駆け出す。
「返事して?」
 左右を見回しながら名前を呼んで茂みに飛び込む。すると急に、何かが僕の手をつかみ引っ張った。
「シッ。トッチー静かに」
 ナナオさんは茂みの影に僕を引き寄せ、耳元で鋭く小さな声を出す。その隣にしゃがみ込み、合わせて小さな声で応答する。
「どうした? 何かあった?」
 ビュウと怒るように風が吹く。何かおかしい。異変を知らせる不吉な風。
 ナナオさんはヒリヒリした空気を醸して頬に汗を垂らし、立てた人差し指を口に当てたまま静かに前方の闇をにらみつけて動かない。
「何か……」
「黙って」
 かぶせるような鋭い声。空気にじわりと強まる違和感。
 次第にナナオさんの緊張が僕にもうつり、思わず肩が強張(こわば)る。心臓の音だけ大きく響く中、身動きせずにたっぷり100を数えたくらいのとき。
 ほんの直前、目の前の闇から、グラルゥ、という小さな音がして、何かがガサゴソと茂みの奥へ去る音がした。
 それからさらに5分ほどが経ち、音が戻ってこないのを確認したナナオさんは、フゥ、と息をはいて糸が切れたようにどっと地面にへたり込む。初めて見るナナオさんの疲れ切った姿は、遭遇した異常の大きさを思わせた。
 僕もその時、既に冷や汗をかいていた。
「なにがあったの? 野犬がでた?」
 なるべく落ち着くように小さく尋ねる。
 あの犬の鳴き声のような音。確かに妙だった。座り込んだ僕の頭よりも高いところから聞こえた、気がする。多分1メートル半くらいの、高さ。犬は木に登らない。犬の大きさじゃない。じゃあ犬じゃない? 何かがおかしいと風がざわめく。
 ナナオさんは荒い息を整えながら青い顔で噛みしめるように言う。
「いや、あれは野犬じゃない、なんていうか……口だけ女?」
「口だけ女?」
 その単語に、ちょっと変な声が出た。ゲームにそんなのがいた気がする。目鼻がなくて口だけで微笑んでるかわいいキャラ。
「何があったのさ、最初から教えて」
「えっとな。山にいけば木があると思って」
 絵馬の代わりを探して、裏山に分け入ったらしい。無茶な。そしてやっぱり見えなくて、方向を見失ったらしい。しばらくしたら子どもの声が聞こえた。樹々がざわめく真っ暗な中で泣き声がしくしくという湿った音が響きわたり、その声が木々の間に拡散していた。
「なに考えてるのさ。こんな時間に山に子どもがいるとしたら、幽霊とか妖怪しかありえないでしょ」
「だろ? そう思ったから声のする方に行ってみたんだ」
 一安心して少し復活したのか、ナナオさんはなぜか腰に手を当てて得意そうに宣言した。発想が普通と逆じゃないかな。
「そんでさ、探してみるとボロっちい着物きた八歳くらいの女の子がいてさぁ……それがすっごい悲しそうな声で泣いててさ」
 物凄くテンプレートな展開で、それはもはや妖怪としか思えない。
 ナナオさんは目を逸らす。この後の展開が読めてきた。少し頭が痛くなる。これまでの短い付き合いでも、ナナオさんは困ってる人を放っとけない人だって知っている。
「まさか……声かけたの?」
「うん。どうしたのって」
 それは一番やっちゃ駄目でしょう。誘い受けってやつじゃん。
「そしたら振り返って目があって、結構かわいい子だなって思ったら急にさぁ……」
 ナナオさんは思い出して目元が少し泳ぎ、両手で肩を抱いて再び顔色が青くなる。
「あのさ、信じてくれるかわかんないんだけど」
「うん」
「なんか急に女の子の口がメリって口裂け女みたいに耳まで裂けたんだよ」
「うわ」
「そんで耳まで裂けたら今度は口が上下に大きく開いていって、ええと、なんていうかな、下唇が(あご)のほうに、上唇が頭の方にゴリゴリと開いてってさ、メリメリいいながら最後にはべろんって、頭の皮が全部めくれて頭全体がひっくり返した口の中みたいになった」
「え、ちょ、ちょっと待って」
「それからゴム手袋をひっくり返したときみたいにどんどん口の中の部分が外側に広がっていってさ。腰くらいまでめくれて垂れ下がって。最後には、なんていうんだろ、筒? 直径1メートルくらいのてらてらした口の中が頭の上? にあって、そっから太い舌がでてた」
「……」
「ええと、それでその腰まで垂れ下がった口のふちの外周にぐるっと歯が並んでてさ。その下にある身体から手とか足とかが生えてる化け物になった」
 背筋を悪寒が駆け上がる。ナナオさんの語尾も少し震えている。その表現と描写におののく。ナナオさんが記者になりたいのは知ってるけど、そんなに具体的に聞きたくなんてなかった。
 口だけ女、恐ろしすぎる。そんなもの直視したら耐えられない気がする。そんな者が間近にいたと思ってしまえば、ざざりと風で揺れる茂みすら恐ろしくて仕方がない。
「それで一目散に逃げ出した」
「よく逃げられたね」
「ほんと。口だけ女はいろいろゴツゴツぶつかりながら追いかけてきてさ、たまに転んでたから何とかここまで逃げてこられた。口だけだと目がないから走りづらいのかも」
 突っ込むのはそこ?
 「でもそこでこけちゃってさ。もう駄目かと思ったらそこの5メートルくらい先の茂みのところで口だけ女が止まったんだ。こっち側には入ってこなかった。トッチーが突っ込んで行きそうだったから慌てて止めた」
 その発言にどっと冷や汗が出る。
 危なかった。危機一髪だ。
 なんだか頭がひどく混乱している。
 本当にそんな化け物が、いるの? このすぐ目の前に。
「……ここはもう神社のすぐそばだから、神社の封印が守ってくれたのかもね」
「神社の封印?」
「……」
「……」
「封印されてるから神社登ろうって言ったのはナナオさんじゃないか⁉」
「お、おう、そうだった。」
 誘った理由を忘れるとか論外だ。
 でもそんな恐ろしいものに追いかけられたら全部吹っ飛んでも仕方がない、のかな。いや、目的が絵馬だから素で忘れてる可能性はある。
「そんでどうしよっか」
「もしここが安全なら、少なくとも朝までは神社にいた方がいいのかも。真っ暗な帰り道で襲われたらどうしようもなさそう。それに第一、夜は迷いそう」
 月は頭の上で明るく照っているけれど、少し下れば町までの間に林がある。登るときですら迷いかけ、あまり見えなかった。急いで降りるなら尚更迷うかもしれない。
 でも朝になって明るくなって下りればここはハイキングコースだから、人にも会えるし、遠足でも来たから大丈夫だと思う。
 そんな算段をしていたけれど、想像の斜め上を行くナナオさんの発言に驚愕して、また嫌な予感がした。
「……あの子、なんで泣いてたのかな」
 今はどうソレから逃げるかを考えるべきじゃないのかな。でも。
「おなか空いてたんじゃないの? ナナオさんを襲ってきたんでしょ」
「うーん、そんな感じじゃなくてさ……最初はすごい悲しそうな声だったんだ。追いかけられて、すげー怖かった。でもさ、それはそれとしてさ。子どもが泣いてるのってほっとけないじゃん?」
 ナナオさんは困ったように眉を下げて僕を見る。さっきの話から想像は難しい。
「でも結局襲われたんだよね?」
「でも今冷静に考えてみるとさ、襲ってくるまでは普通の子どもだったんだよ」
「人をおびき寄せる罠なんじゃないの? そういう話って一杯あるよね、子泣き爺とか川赤子(かわあかご)とか。蠱雕(こちょう)だってそうだし」
「最初は本当にそんな感じじゃなかったんだって。凄く悲しくて、胸が締め付けられるような?」
 だからそれはそういう戦略なのでは。
 ナナオさんは腕を組んで暗い森のほうを見つめた。平行線感。
 嫌な予感が強まった。
「トッチー。二人いると襲われないって聞いたんだ。それにここが安全なら、ここから呼びかけちゃだめかな」
「いや、それは、ええと」
「茂みで止まったんだし、ここまで入ってこれないよな?」
「わかんないってば!」
 相手が化物だとしたら考えなんて読めるわけない。警戒しただけかもだし。
 けれどナナオさんはいいことを思いついたみたいにニカッと笑った。ああ、もう駄目だ。なんかもう駄目な予感しかしない。
「ギリギリ安全なところから近づかないから」
 指さす石畳の先の森は神社の神聖な雰囲気とは無縁で、何かが潜んでいるようなおどろおどろしい雰囲気を秘めていた。ひゅうと奥から生暖かい風が吹いている。それは暖かくなってきた春の夜の訪れなのか、それともその何かの怪異の息吹なのかはわからないけれど。
 ナナオさんは意を決して、よしっと小さく握り拳を固める。
「おおーい、さっきの子、いまちょっとお話できるかな」
 驚くほどの普通の呼びかけ。
「聞こえてたら返事をしてー」
「止めようよ」
 20分くらい何度か大声で呼びかけて、無理じゃないかと思った時だった。
 正面の暗がりからカサカサと小さな音がした。風や木の音とは明確に異なる何か生き物が動いたような音。
 ごくりと唾を飲み込む。ナナオさんは先程と違う、緊張で少し高くなった声でもう一度呼びかけた。
「……えっと、さっきの子、かな?」
 しばらくしてから、闇の向こうから小さな声がする。
「……あの……怒ってない?」
 確かに女の子のような、鈴が転がるような声。少し戸惑っているような、警戒しているような。ほっと胸をなでおろす。
 この女の子の声で泣いてたら、ナナオさんじゃなくても様子を見にいくかもしれない。けれどもそれを含めて罠なのかもしれない。
 罠だったら?
 本当に2人でいれば大丈夫なの?
 この神社が平気なのは本当?
 やっぱり僕なら行かない。ここは深夜の森だ。女の子がいるはずがない。
「あ、うん、ちょっとびっくりしちゃったけど、……大丈夫かな」
 ナナオさんは安心させるように、なるべく優しい声で話しかける。けれど大丈夫というのは嘘だ。無意識だろうけどさっきから僕の手をすごい力で握りしめている。
 怖い。その手からつたわる押し殺された恐怖。

「……ごめんなさい、あの私、動いているものを見ると何がなんだかわかんなくなっちゃうの。だから、お姉さんもこっちに近づかないでね」
 何が何だか?
「……オッケー。この距離なら大丈夫かな」
「うん、見えないと大丈夫だし、そっちに近づけないから」
「そっかそっか、よかった」
 ナナオさんはほっと息をつく。僕の手を握っていたのに気がついて、慌てて離す。
 ナナオさんの予測の通りこの神社には入れない、らしい。多分。本当? 罠?
「それで、えっと、なんで泣いてたのかな、よかったら、お姉さんに相談しない?」
「相談……」
 少しの間の後、闇の向こうでぽつりぽつりと話が始まった。
「……お母さんを探してるの。ここのお山に閉じ込められててでて来れないの、お母さんに会いたい……」
 闇はしくしく泣き始めた。確かに心を締め付けるような悲しそうな声。
「お母さん、か……それってここの封印を解けば会えるのかな」
「ちょっとナナオさん!」
 まるで正気じゃない!
「あの子がかわいそうなのはわかった。わかったけど、お母さんがどんなのかわからない。僕らも無事じゃすまないかも」
「でもさ」
 ナナオさんは目を泳がせる。目は、だって可哀想じゃないか、と主張する。
「私はそっちに行けないから、どうしていいかわからない」
 闇から小さな声がする。
 ナナオさんは、うう、と小さくうめいて、僕の耳元でささやく。
「トッチー、封印を解くってのはおいといて、せめて手紙のやり取りとか様子を知らせるとか、できないかな。あの子、悪い子じゃなさそうだし」
「さっき襲われたばかりじゃん!」
 けれどナナオさんの中ではすでに闇の向こうの女の子は『口だけ女』という怪異じゃなくて、近所の子どもとかわらないように感じていそう。襲ってくるなら『口だけ女』、そうでなければかわいそうな女の子。世界はそんなふうに物事を安易に分断、できるものなのかなぁ。
 それでもヒントを探すと言うナナオさんについて境内をうろつき回ったけど、何もない。クイズじゃないんだし。社務所も本殿も鍵がかかっていた。賽銭箱、手水舎(ちょうずや)、井戸、鳥居、狛犬、灯篭。どこにも文字なんかなかった。
「どうしたもんかなぁ?」
「無理じゃない? 封印がどこかもわからないし」
「私の勘が何とかなると言っている」
 ナナオさんは自信たっぷり断言する。
 ナナオさんの勘はわりとあたる、いい方と悪い方と均等に。
 けど、どうせ朝まで行くところはない。……女の子がこの周辺にいる以上、下手に動くこともできない。再びぺたりと冷たい石畳に座り込む。
「ごめん、何もみつかんなかった」
「そう。でもありがとう」
 僕は口だけ女状態を見ていないし声はかわいいものだから、時間が経つにつれて恐ろしさは段々と薄れていた。でもナナオさんは口だけ女状態の姿を見ている。怖くないのかな、怖いんだろうな。でも多分。怖い以上に、なんとかしてあげたいっていう気持ちが勝っているんだと思う。僕には無理だ。

 時刻は既に午前2時。正直寒い。
 持ってきた簡易のセットで珈琲を淹れる。
「トッチーすげえ」
「寒いの目に見えてたじゃん」
 さすがに山の上の真っ暗な神社でのんきに寝てらんないよ。野犬も出るって話だったし。
 ほわほわ漂う暖かな白い湯気。ふわりと広がる珈琲の香り。
 ナナオさんは森の奥の暗闇をじっと見つめる。
「一緒に食べらんないよな」
「近寄れないなら無理でしょ。お菓子ならあるけど」
 クッキーの袋をナナオさんに渡せば、受け取って、と暗闇に声をかけてクッキーの袋を投げ入れた。
 パサっという袋が落下した音がした場所にガサガサと何かが移動する音がする。いる。その動物じみた音は怖い。
「ありがとう」
 小さい声が応えた。少しだけ恐ろしさは薄らいだ。なんだか頭の中が不安定で、くらくらする。
 女の子はかなり前にお母さんと一緒にこの山に封印されたけど、しばらく前に女の子だけ外に出たらしい。でも戻り方はわからなくてずっとこの山のあたりを彷徨っていた。
 封印された時のことはよく覚えていない。神社のほうから何かがきて、気が付いたら封印されていたそうだ。封印されている間の記憶はあまりない。結構長い時間だと思うけど、どのくらいかはよくわからない。
 ……直接は詳しくは聞けなかったけれど、人や動物といった動くものがいれば無意識に襲い掛かってしまうようで、野犬被害っていうのは多分この子の仕業だと思う。恐怖が少し、帰ってきた。
「ねぇ、神社の中に入れないの? 君が封印から出た時はこの神社から出たんじゃないの?」
 少し考えるような間ののち、小さな風と一緒に女の子の声が耳に届いた。
「……私が出たのはもっと山の下のほう。どこかはもうわからないな。神社の中には全然入れないし、ここから出たわけじゃないと思う……」
 そうすると封印はもっと(ふもと)のほうにあるのかな。でも麓といっても山の外周、手当たり次第に探せないし探せる範囲じゃない。
「あれ? 私、昔えらい人がここで悪いものを、あっごめん、とにかくここで封印したからここに神社ができたって聞いたんだけど」
「神社が後なの? じゃあ封印は麓と神社と2つあるのかな。お母さんは麓のほうにいる?」
「……ううん、よくわからないけど、お母さんはこの近くにいる気がするの」
 ハフハフとラーメンをすするナナオさんに淹れたてのコーヒーを渡す。
 女の子とお母さんは一緒に封印に入って同じ封印の中にいて、女の子は麓から出て来た。お母さんは山の上のここにいる。
 あれ?

『……新谷坂(にやさか)山はいい山で、昔えらい人が超悪いのをたくさん封印して……』

 ナナオさんの言葉を聞いて、僕は新谷坂山は霊山なのかなって思った。
 神社が出来たのが後のことならば、ひょっとして悪いものを封印しているのは神社じゃなくて山全体、なのかな。
 山が封印?
 麓も神社も含めた山全体で『悪いもの』を封印しているんだろうか。
 鉄道会社が山を削ろうとして、なんだかよくわかんないけど悪いことが起こった。トンネルを掘る話があって進めてたらなんだかよくわかんないけど、悪いことが起こった。
 悪いことがおきるのは山を削る時。
 そうすると山全体が封印で、山を掘ったら封印に辿りつく……?
 なんだかすごく規模が大きくなってきた。
 あの子のお母さんが山の中なら僕らに山を掘るなんてできない。そもそも僕らは封印を開放したいんじゃない。もっとライトに、簡単に手紙とか何かで繋ぎをつけたいと思っているだけ。
 ちょっともう僕らの手におえるレベルじゃないと思う。そこまで話して、ナナオさんはパチっと指で音をならした。
「ナイス、トッチー! やるじゃん!」
「今の話のどこにそんな前向きになる余地があるのさ」
「ようするにさ、山の底に封印があるわけだろ? 地面の中に入ればいいわけだよな」
 そういってナナオさんが指さしたのは境内の井戸だった。
 真っ暗な境内の奥底でますます暗く沈む井戸。
 神社の中でも手水舎の裏手、森の近く、どこよりも真っ暗なところにあった。板でふさがれていたけれど、簡単に取り外せてしまった。そもそもここは山頂で、人が入るとは思われていない、のだろう。
 直径は80センチメートルぐらい、ギリギリ一人なら入れる? 桶の滑車が設置された屋根がなければリソグで貞代が出てくる井戸にそっくり。嫌なことを考えてしまう。
 結局、僕とナナオさんが覗き込んだ井戸の中はさらに暗く、吸い込まれるような闇が広がり、見ているだけでどこまでも落ちていくような気分になる。ふう、と吐いた吐息が空気を揺らしながらその奥底まで落ちていく。
 奈落、という言葉が頭をよぎる。見ているだけで平衡感覚が狂いそう。

 ようするに、ものすごく、怖い。
 お化けが怖いとかそういう怖さと全く違って、純粋に命の危険を感じる恐怖。ぽっかり空いた黒い穴を見ているだけで、全身が震えるて心臓がヒュッとする。冷たい石のへりに触れる手が震える。
「ナナオさん、あの、本当にここに入られるんでしょうか?」
 思わず変な敬語が出た。
 ここに入る選択肢はありえないのではないでしょうか。
 けれどナナオさんは平然とつるべを結ぶロープをギュギュッと確かめながら、何いってんの、って顔で僕を見る。
「大丈夫だって、私が入るからトッチーは上で見張ってて」
「いやいやいや、そういうわけにはいかないでしょ!」
「だって、どっちか上で待ってないと何かあった時こまるじゃん?」
 そうだけど。そうだけど!
 僕がここに残ってナナオさんを井戸に特攻させるわけにはいかないじゃん。さすがに。
「ちょっと冷静に考えようよ、どのくらい深さがあるかわからないし」
 ナナオさんはその辺の石をつかんで、おもむろにポイと井戸に投げ入れる。
 すぐにピチャっという音とカツンという音がした。あれ、あまり深くないのかな。
 でも確か、垂直落下の場合は1秒で5メートル、2秒で20メートルくらいだった気がする。10メートルちょっとくらいはありそう……。ひゅうと井戸の底から冷たい風が吹く。
 ナナオさんが掴むロープも古びているし、丈夫そうじゃない。
「大丈夫じゃない?」
 その楽観はどこから来るんだ?
 呆然としていればナナオさんは、よっ、という掛け声とともに気楽に井戸の淵に足をかけたものだから、慌てて抱き着きいて井戸から引きはがし、倒れ込む。
「おおっ!? トッチー積極的だな」
「……ナナオさんさぁ、ほんとは怖いんでしょう?」
 抱きついた時にわかった。膝がカクカク震えていた。やっぱり強がってるだけだ。
「……無理しなくてもいいんじゃないかな。ナナオさんの予想通りなら、この下に封印があってあの子の親がいるとし
たら、それこそ僕らにはどうしようもない。無理だ」
「……可哀想だよ。なんとなくさ、できるところまではやってあげたい」
 ナナオさんは眉毛をへの字に曲げて星空を睨んだ。
「そんな義理はないでしょ?」
「そうなんだけどさ……。あんね、あたしあのくらいの歳の時に神隠しにあったことあるんだよ」
「神隠し?」
「うん。その時ずっと霧の中みたいなところにいてすっごく心細くてさ」
 なんだか急にふわふわした話になってきた。でも神隠しにあった人の体験談で、そういう話を聞いたことはある。
「それで霧の中で誰かに助けてもらったんだよ」
「誰か?」
「真っ白だったからよくわかんなくてさ。出たいかって聞かれた。でも代わりに何かよこせっていわれて困っちゃってさ」
「何か?」
「うん。でもその時に別の人の声が聞こえてさ。こっちにおいでっていう」
「二人いたの?」
「そう。それで声のする方に行ったらいつのまにか新谷川(にやがわ)のとこにいて。助けてくれたのはどんな人だかよくわからないんだけど、もうここには来ちゃダメだよっていわれたの」
 不思議な話だ。全てが不確かで、何だかふわふわしていてよくわからない。
「その話は、聞いたことない」
「うん、誰にも話したことないかもな。なんつか自分の体験って胡散臭いだろ? 何が何だかよくわからないしさ。説明しづらくて」
「うん」
 それは、なんとなく、わかる。
「それでその人にありがとうっていったらさ、今度はあたしが困ってる人を見つけたら助けてあげてって言われたんだよ。だから困ってる子はなるべく助けようと思ってるんだ」
「お化けでも?」
「うん。助けてくれた人もお化けな気がするから。多分ね。お化けでもいろんな人がいる。あの子は悪い子じゃないと思うんだ。あたしらを直接見ない限り」
 悪い子じゃない。それは僕もそう思う。けれどもその、『直接見ない』というのが問題で、僕は『直接見られた』ことを考えて、どうしてもその結果は是認できなかった。
 けれどもナナオさんの決心は固い。カクカク震えて井戸のそばにへたり込みながらもまだ、つるべのロープを握りしめていた。
 この様子だと無事に井戸の底まで降りられるかすら心配だ。でもやっぱり行かない選択肢はないらしい。
 ため息をつき、ナナオさんの持つロープを奪う。ささくれて、ちょっと湿ったざらざらした感触をきゅっと握りしめる。
「僕がいく」
「や、あたしが行くよ、なんとかしたいのはあたしだからさ」
「そんなこと言って本当は怖いんでしょ? それに僕だけ残るのはカッコ悪いじゃん。それから……何かあった時に僕はナナオさんを井戸から引き上げる自信がない」
 僕は肘をまげて力こぶができないところをナナオさんに見せつける。
「そりゃないだろ!」
 ナナオさんはふくれて少し笑う。けれどもまあ、それも事実だ。
 僕は基本的にはインドア派で、力に自信なんて全くない。ナナオさんは僕より身長も高くて健康的だ。引き上げる自信なんてまったくない。
 僕も怖い。怖いんだけど、それでもナナオさんを行かせるわけには、いかないよね。
 それに絶対何も考えてなさそうだし。

 改めて井戸を見下ろすとぽっかり闇が口を開けていた。
 これ、降りるのか。
 喉からヒクッと変な音が出る。
 でも僕は諦めた。諦めて、あんまり考えないようにして準備を進める。桶とロープの結び目をリュックから出した登山ナイフで切り離す。桶は穴が開いていて使ってなさそうだし、水もほとんどないようだからロープをもらってもいいよね。
 ロープを荷物を全部取り出して空にしたリュックに括り付けて井戸の底に落とす。リュックを引き上げると下から2センチくらいの高さでぬれていた。水はほとんどなくて、衝撃の吸収は期待できそうにない。井戸の入口から底についたロープの長さはやっぱり10メートルほど。命綱にするには僕が井戸の底から1メートルくらい浮く高さでロープを調節する必要性。ベルトの下にロープを解けにくいもやい結びに巻きつけて、高さを計算して、近くの太めの木までピンと張って命綱を括り付ける。
「なんかすげぇな」
「闇雲に飛び込んだって底まで落ちるだけなんだからね、本当にもう」
 一応ロープは備えたけど、古いからあまり信用できない。だから結局は手足で支えながら少しずつ降りるほうがいい。垂直降下なんてやったことない。
「じゃぁ、ナナオさん。何かあっても絶対に井戸の中に入ってこないで。何かあった時は警察を呼んで。でも山を下りるのは日が出てからにして。わかった?」
「お、おう。わかった」
 心配だ。ナナオさんは本能で動く。
 覚悟を決めて井戸の淵に座る。懐中電灯とか最低限のものだけをポケットにしまう。プラリと浮いた足をささえるものはなにもない。湿度がじわりと体に絡まる。
 東矢一人、覚悟を決めろ。自分にそう呼びかける。
 どうせ真っ暗だ。両手両足は塞がる。目をつぶって降りても同じだよな……そうしようかな。このどこかともなく次々と湧き上がってくる恐怖を、少しでも抑えたい。
「無茶はしないで? 僕が井戸から出られなくなった時にナナオさんに何かあったら、だれも助けにこれないから」
「わかった」
 ナナオさんは神妙な顔で頷く。何故降りる僕のほうが注意をしてるんだ?
「貞代とかでないように祈ってる」
 本当に一言多い……。
 けれども僕の心は少しだけ軽くなる。一人じゃない。ここにはナナオさんがいる。
 目をつぶって降り始める。井戸の中はひんやり涼しく、手足を支える石壁はとても冷たい。一歩一歩、手足をひとつずつ、交互に20センチほどずつ下げていく。時々背中と足で踏ん張って手を休める。少しずつ遠くなっていくナナオさんの励ましの声だけが頼り。
 たまに変なこと言ってるけど。

 どのくらいの時間がたったのか、石の冷たさと筋肉の緊張で手足の感覚がすっかりなくなったころ。ようやく腰に張られたロープがピンと引っ張られる感覚がした。いつのまにか井戸の底に着いていた。ロープをほどいて少しの距離を飛び降りてパシャっと着地する。
 見上げる。
 この井戸は屋根があるから月や星の光も見えない。上も下も真っ暗闇で、どっちが上なのかわからなくなってきた。
 懐中電灯を取り出してナナオさんを呼びながら上に向けて振れば、闇の中でチカリとスマホの光が瞬いた。小さい。星みたいだ。10メートルって、思ったより遠いんだな。違う世界に来てしまったような、不思議な感じがする。
 足が地面についている安心感からか、上から見下ろした時の吸い込まれる恐怖は薄れて最初に神社を見た時とと同じような、神聖さを感じた。
 僕はここを調べないといけない。床に懐中電灯を向けると、薄く流れる水に光が反射し、ぼんやりと僕の足を浮かび上がらせる。懐中電灯を左右に振ると、僕の背丈寄り少し低いくらいの高さの横穴を見つけた。
「横穴があった。行ってくる。万一僕が帰ってこなかったら、さっき言った通り警察を呼ぶか、ちゃんと朝になって明るくなってから下山して!」
「わかった!」
 大きな声で叫ぶと、上から小さな声がした。隣で井戸の上から垂れているはずのロープを思えば蜘蛛の糸のカンダタが浮かぶ。

 高さ1メートル半ほどの横穴を中腰で慎重に進む。
 少しのカビ臭さと湿った土の匂い。井戸の部分までは石で組まれていたけれど、この横穴は天然の洞窟のようだ。鍾乳洞のようにつるつるした滑らかな岩穴になっている。
 上と違ってとても静かで、歩くヒタヒタという足音と水が跳ねる音しかしない。足音も岩に反響するのかふわりと跳ね返って不思議な音色を奏でている。
 地下水なのか、足元には薄く水が張られている。歩くたびに浮かぶ波紋は懐中電灯で照らす前方に向かって、僕を導くように一歩毎にゆっくりと広がっていく。明かりと言えばヒカリゴケなのか、ライトをあてると壁がところどころエメラルドグリーンに反射し淡い光を形作っている。
 幻想的。日中は太陽の光が井戸を経由してここまで届くのかな。不思議な場所。
 10メートルくらい歩いただろうか、ごつごつとした天井が少しづつ高くなり、少し広い空洞に出た。
「行き止まり、かな?」
 ざっとライトを回すと直径5メートルほどの円形の空間になっていたけれど、とりたてて何もない。そのことにかえって安堵する。お化けが溢れていたらどうしようもない。
 その時、背後から、にゃぁ、という小さな声が聞こえ、思わずライトを取り落としそうになる。振り返って照らせば、闇から染み出るように黒い猫が現れた。
 あれ?
 鳥居の下で会った黒猫にそっくりだ。
「どこから入ったの?」
 黒猫はそのまま僕の脇を通り過ぎてまっすぐに歩く。後ろ姿をライトで照らすと黒猫はぴょんと1mほど飛び上がり、正面の岩棚の上によじ登る。
 その岩棚の上にはいろいろなものが置かれていた。猫の家かな……そう思って見ると、古くてぼろぼろになっているけど、壊れた木の台や器なんかが散らばっていた。そして、ライトをさらに上にあげて思わずペタリと尻もちをついた。
 即身仏……?
 岩棚の中には、ぼろぼろの袈裟(けさ)をまとったミイラが静かに座っていた。最初は驚きに思わず体がこわばったけど、足元をさらさらと流れる水の音と服に染みていく冷たさに冷静を取り戻す。改めて見ると即身仏はどこか不思議と優しく神聖な雰囲気をかもし出していた。この神社に入った時に感じた雰囲気。黒猫が即身仏の隣に座って金色の目を細めてとても親しそうにしていたからかもしれない。

『もともと新谷坂(にやさか)山はいい山で、昔えらい人が超悪いのをたくさん封印して、その後も悪いことが起こんないように見守る山だったんだって』

 この人が、新谷坂山の災厄を封印した人? ということはここはその災厄が封印された場所。僕の足元にたくさんのお化けがいるのかと思うと少し足がすくむ。
 本当に?
 でも確かにそれを感じさせる不思議な場所で、だんだんと僕がここにいるのがとても不釣り合いな気がしてきた。なんだか神聖な場所を汚しているようで、とても気まずい気持ちになってきた。
「にゃぁお」
「ごめん、君の大切な場所をあらすつもりはなかったんだ。外で困っている子がいて、僕の友達が助けたいっていう話になって」
 なんだか少し言い訳くさい。
「何かできないかなって思ってここまできちゃった。その、ここは封印なんだよね。あなたたちの邪魔をしようとかは全然考えてない」
 闇の中から、にゃぁ、と鳴く声が聞こえる。それなら何しに来たんだ、と聞こえた。
 なんで意思疎通ができてるように思うんだろう。
 けど大切な場所に僕が勝手に入り込んだなら、きちんとその理由を説明しないといけない気になっていた。僕の足元を照らす細いライトと反射する水たまり、そしてハウリングするような自分と僕を見つめる金色の瞳の黒猫の声。そんな不思議な空間が、そう思わせているのかも。
「僕はその人がした封印を解こうと思っているわけじゃないんだ。外の子が、封印の中にいるお母さんに会いたいっていっていたから。……手紙の交換とか、そのお母さんの様子を伝えるだけでもできたらいいなと思って」
 しばらくして岩棚の下のほうを照らしていたライトの真ん中に、トン、と黒猫が現れた。とことこと僕の足元にやってくる。
 黒猫は僕を心配そうに見上げた。本当にいいのか、と問いかけている、気がする。
「だめかな……?」

 黒猫は僕の返事にうなずけば、近くによってきて僕の手をひっかいた。
 痛っ。
 そしてぽとり、と僕の血が水面に落ちた瞬間。
 奇妙なことが起こる。
 僕の血は水面に落ちたところから、僕を中心に黄色や黄緑の蛍光塗料のような色を帯びて、まるで床の上に薄い油膜が張るようにゆっくりと部屋全体に広がっていく。そして波紋のように部屋の端まで到達すると、一瞬水面全体がぱっと眩しく光ったあと、その光は固まってガラスが割れるように砕けてそのままばらばらと粉のように辺り一面に飛び散り、床の底に吸い込まれた。
 そのたくさんの光が足の下で瞬いている。
 まるで星空が広がるような光景に思わず息を()む。さっき井戸の外で見た星空を上から見下ろしている気分。でも、その星空の下で何かが動いたことに気がついた。
 黒猫はこつこつと水面をたたき、星空の下に(うごめ)くものの一つを指し示す。僕はそれを見た瞬間、全身が凍りついた。
『口だけ女』……。
 それは確かに、ナナオさんが言った通りの姿をしていた。
 まるで口の中だけをひっくり返してあらわにしたその姿。ひっくり返った肉色の粘膜はテラテラとした透明な唾液に塗れ、唾液が口蓋(こうがい)の端から下方にねとりねとりとこぼれ落ちている。中心から生えた舌と思われる赤黒い肉塊がもぞもぞと緩慢に動くごとに小さな泡が生まれ、それが粘膜にぶちぶちとぶつかるごとにつぶれて周縁にぐるりと居並ぶたくさんの歯にあたって散らばり下方に落ちてゆく。
 まるでぐちょぐちょとした音が聞こえてくるようだ。真上からだから手足は見えないけど、そのおぞましさは僕を戦慄させるのに十分だった。

 にゃあ、と黒猫が鳴く。
 人と怪異は相容れぬものではないのか。僕が求めているのはこれとの意思疎通だぞ、と。
 同意しかない。水面下はまさに化け物。虎や狼なんかの猛獣ともさらに異なる世界に生きる存在。洞窟の床で隔てられた異なる世界に住む、まさに相容れない、もの。
 実感として、明確に感じた僕の事実。
 その大きな『口だけ女』は僕に気づき、ゆらりゆらりとゼリーの海を泳ぐように水面、つまり僕の方に近づいてきた。その大きく暗黒に開いた口腔に僕を飲み込むために。
 思わず後ずさる。もはや恐怖しか浮かばない。
 ごめん、ナナオさん、これは無理だ。
 そう思った時、背後からダンッダンッと何かを蹴る勢いの良い音がして、バチャッという水が激しく跳ねる音がした。
 まさか。
「ボッチーどこだっ!? 大丈夫か!?」
「なんで来た!?」
 僕の声と床に散らばる星空の灯りを頼りに、一直線にこちらに向かって走ってくる。
 黒猫は警告するように、にゃぁ、と鳴く。
「入ってこないで!」
 黒猫の様子からまずいと思ってそう叫んだけど、すでに遅かった。ナナオさんは部屋の入り口で突然、とぷり、と床に沈んだ。まるで、突然海に落ちたように。
「なん……これ……」
 慌てて駆けつけたけど手が届く寸前にナナオさんは頭の上まですっかり床の下に沈んでしまう。手を伸ばしても透明な床に阻まれて、ナナオさんに届かない。全身の血の気が失せる。体が全部氷になったようだ。
 ナナオさんが落ちた床をドンドン叩いても表面でピチャピチャと水が跳ねるばかりで、星空の下には届かない。ナナオさんはブクブク言いながら、床の下からこちらに手を伸ばす。僕らの指先は接する間際で床の表面に弾かれる。
「ねぇ、なんで!? なんでなの!? なんで届かないの!?」
 僕は焦って黒猫に怒鳴った。何とかできるのは黒猫だけだと思ったからだ。けれども黒猫は首をふるばかり。
 そのうち大きな『口だけ女』は泳ぐようにぶくぶくゆっくりナナオさんのほうに近づいて来る。
「逃げて! 反対側に!」
 声が届くのかはわからない。けれどナナオさんも『口だけ女』に気づいて表情をこわばらせた。反対方向に逃れようともがく。でも液体の粘度が高いのか方向転換もままならない。
 急いで『口だけ女』の上に移動してどんどんと床をたたいて注意を引き付けようとした。けど『口だけ女』は僕なんかには見向きもせずに、ナナオさんにゆっくりと近づいていく。
 冷たい床は何度叩いてもアクリル板のように僕の手を固く跳ね返し、びくともしない。それでも僕ができることは、必死に床をたたくことしかない。僕の焦りと行動は何の意味もなく、ただ時間が過ぎていく。過ぎて、『口だけ女』は次第にナナオさんとの距離を詰めていく。
 ぐるおお、という低いうめき声が聞こえ、ナナオさんの表情が絶望に染まった。
「ねぇ! お願いだから何とかして! 僕にできることならなんでもするから! お願い!」
 僕は黒猫に向かって声を張り上げる。
 黒猫はふと、即身仏のほうをみた。
 その後、にゃお、と鳴いた。

 本当にいいの?

 僕にはそう聞こえた。僕は大きく頷いた。
 その瞬間、黒猫の姿は床をすり抜け、星の瞬く闇にとけた。そうして床の下の星空のきらめきがすぅと消え去り真っ暗になった。
 その瞬間、僕とナナオさんを隔てていた透明な床ははらりとほどけて繊維状に拡散し、僕の体に何重にも絡みつく。それと同時に僕も粘度の高い液体の中へどぼんと落下した。
 ちょうど、『口だけ女』とナナオさんの中間あたりに。真っ暗なのに、不思議とその液体の中では周囲の状況がよく把握できた。
「その手紙を遠く投げよ」
 唐突に頭に声が響く。手紙!?
 ナナオさんを振り返ると手に何かを握りしめている。それを奪い取ってなるべく遠くに放り投げた。そうすると『口だけ女』はふよふよと手紙に向かって漂っていった。
 その後、どうどうという大きな何かが動く音がして、僕らの体はふわりと浮き上がり、僕は意識を失った。

 冷んやりとした床の感触と石の固さ、それが僕が意識を取り戻して初めて感じたものだった。
 いてて。なんだか体中が強張ってミシミシと痛い。頭も何だかくらくらする、貧血っぽい感じ。ぼんやり周囲を見回すと、すぐ隣でナナオさんがうつ伏せに倒れていて、でもその背中が呼吸とともに微か上下していたからほっと安心する。
 体を起こして見回すと、先ほどまでいた井戸の底の丸い空間だった。水はすっかり引いていたけど、床は薄く湿って冷たい。そもそもあれが水だったのかはよくわからないけれど。それから転がって僕らを照らす懐中電灯の光以外、星の明かりも何もかも消えて、真っ暗な中で静寂が広がっている。
「気づいたか」
 頭の中に響く声。キョロキョロ見回していると、僕の前にすらりと黒猫が現れた。さっきまでのことを思い出す。
「えっと、君が助けてくれたのかな?」
 あれ? この声。さっきも聞いた声だ。
 低くて艶のある、女の人の声。
「君の声? なんで」
「お主が封印を解いたときに少し認識が混ざったのだ」
「認識? 僕、やっぱり封印を解いちゃったの?」
 心臓が大きくどくんと鳴る。焦る。
 どうしよう。それは凄くまずい。あんなものがたくさん出てしまったらたくさんの人が襲われてしまう。けれども黒猫の声の調子は変わらなかった。
「そうともいえるし、異なるともいえる。お主は封印に穴を開け、私はそれを塞いだ」
「塞いだ? お化けは外に出てはいないの?」
「出たが全てではない」
 
 黒猫がいうには、即身仏の人はこの新谷坂山にたくさんの怪異を集め、自らの命を使って封印した。この新谷坂山全体にはさまざまな怪異が封じ込められていて、この直径5メートル程の部屋の床がその封印のフタになっている。この黒猫は即身仏の人が亡くなった後も、封印がつつがなく効果を発揮することを見守るために作られたそうだ。
 僕は井戸の底に降りた時、ここの怪異を全く理解していなかった。口だけ女の子と話が通じたから、それほど恐ろしくないものかもしれないと勘違いした。そんな僕が呑気に手紙を渡したいと言ってたから、黒猫は血を媒介とした呪いで、僕に封印の内側を見せた。案の定、僕は意思疎通なんて無理だと思った。
 人なら封印の内側に取り込まれたりはしない。けれどナナオさんは呪物をナナオさんは『口だけ女の子』の呪物を持って現れた。だから封印がナナオさんを怪異と認識してナナオさんごと封印の中に飲み込んだ。
「お主は封印を開放しようとは思ってはおらなんだのだろう? だからお主が通れるだけの小さな穴を開けたのだ」
 僕の血の範囲分だけ封印の一部に穴を開け、その穴から僕は落下して入れ替かわりに水しぶきのように穴からたくさんの怪異が飛び出した。
「逃げた怪異はお主が開けた穴を通って逃げた。からもう一度封印するためには(えにし)をつないだお主以外、封印できぬ」
「……僕は封印する力なんてないんだけど」
「しなくても構わぬ」
「でもその怪異は悪いことをするんじゃないの?」
「するであろうな。けれども我には封印できぬ。どうしようもないし、我の役目は封印から逃げた怪異を再度封印することではない。それから……今お主の4分の3ほどを封印の中に置いてきている」
 そういえばさっきから頭がぼんやりとしている。そして改めて注意を向けると、僕はこの下の、冷たい岩肌の下のさらに向こうに僕がいると感じる。意識して床に触れると僕の腕はとぷんと地面の下、封印の中に潜り込んだ。
「何これ!? 僕は幽霊になったの?」
「幽霊ではない。この封印にとって、お主は封印しうるものとなった。お主らはよくわからぬものを妖や怪異と呼ぶが、それはこの世の(ことわり)の外にあるものだ」

 簡単に現世と隠世(かくりよ)というけれど、世界にはたくさんの世界がありその中の一つがこの現世であるという、ただそれだけのこと。
 たくさんの世界は平行・重複して存在し、その垣根をひょいとこえてやってきたもの、僕らが暮らす現世の存在でないものが妖や怪異と呼ばれるそうだ。そういったものの大半はいずれ来た時と同じようにいなくなり、あるいは同化してしまうから大抵は気づかれない。
 けれどもその中で現世に居座り災厄を振りまくものがいる。それを現世から隔離し、現世に出てこないようにしているのがこの封印なのだそうだ。
 この封印は現世にないものを隔離するために作られているから現世のものなら出ることは難しくない。だから封印に落ちた僕もナナオさんも、封印から抜け出ることができた。この封印はコーヒーのフィルターみたいなもの。
「お主と解放した妖どもとの間に縁がつながっている。だからお主の全てを現世に置けば、妖どもが唯一封印できるお主を殺しに来るだろう。だから見つからぬよう、この下に隠したのだ。けれどお主は現世のものである故、このままでは現世のお主の存在が保てなくなるだろう」
「どのくらい……?」
「おそらく3年程か」
「つまり、僕は外にでた妖怪を封印しないとそのうち死んじゃうってこと? 無理だよそんなの」
「お主はお主のやりようですでに怪異を二つ隠世に返している。何か方法があるのやもしれぬ」
「なんのこと?」
 僕が会った『口だけ女の子』と『口だけお母さん』は、話し合って彼女らの隠世に帰ったらしい。それはナナオさんのおかげだ。
 そうすると、ひょっとしたら話し合いとかで帰ってもらう方法もあるのかもしれない。
 話し合いで? 無理だ。あの『口だけ女』は話し合いなんてとても成立しそうには思えなかった。けれども実際はなんとかなった。
「わかった。僕のせいで不幸が起こるのも嫌だ。だからちょっと頑張ってみたい」
 けれどもそう思ったのは、その時点で僕は命が短くなる実感も封印の影響も特別には感じられていなかったからかもしれない。ようはあまりにおかしなことばかり起きすぎて、真剣に考えることができなかった、のかもしれない。
「了承した。我も力を貸そう」
「いいの?」
「我の役目は封印のふたである。封印するものがあるのならば封印する。出たものを封印できるのはお主だ。お主が望むままに協力しよう」
「そっか、あの、ありがとう。それじゃぁ……ええと、君の名前は?」
「好きに呼ぶが良い」
「えっとそれじゃあ」
 最初会った時のにゃあという鳴き声からと言うと怒られそうだ。
「新谷坂を守ってるからニヤでどうかな。しばらくよろしく」
 僕はニヤに向かって手を差し出す。ニヤは戸惑ったように黒い右足を差し出し、僕の右手に触れた。

 その後、しばらくたってからナナオさんは意識を取り戻した。
「『口だけ女の子』はお母さんと会えて一緒に家に帰ったみたいだよ」
「本当か!? よかったよ!」
 ナナオさんは太陽みたいに眩しい笑顔でニカっと笑った。だからきっと、守らないとだめなんだ。
「ちゃんと待っててっていったじゃない」
 ナナオさんが持っていたのは『口だけ女の子』からお母さんに宛てた手紙で、僕が井戸の中にいるときにメモ帳を投げて書いてもらった。
 そうしている間に急に井戸が光って『口だけ女の子』がお母さんがいるって慌てだしたから何かあると思って思わず踏み込んだんだ。
 『口だけお母さん』がメモに向かったのも納得だ。子供が書いたものってわかったのかもしれない。そう考えると、きっと共通点や話し合いの余地というものは、ひょっとしたらあるのかもしれない。
「だってさぁ、心配になるじゃん」
「仕方ないなあもう。本当に何かあったらどうするつもりだったんだよ」
「うまくいったんだからいいだろ」

 帰りに井戸を登り始めたころには入口の端っこが既に明るくなっていた。底は未だ真っ暗、10メートルって結構高い。降りてくる時はあんなに一瞬だったのに、ナナオさんは怖い怖いとギャーギャーいいながらずいぶん長い時間をかけて登っていった。僕はナナオさんを教訓に、目をつぶって汗だくになりながら井戸を登った。明日は筋肉痛間違いなしだ。登り切ると、近くの木の上からこちらを静かに眺めるニヤと目があった。
 参道から東を見ると、景色が夜から朝にかわっていた。あんなに散らばっていた小さな光はすっかりなりをひそめ、南東の海岸から登った太陽が、薄青に晴れた空と光を反射してながらさざめく海、それから白っぽい街並みを静かに照らしている。
 僕らの夜は明けた。
「あっ絵馬!」
 ナナオさんが思い出したように叫ぶ。
「また今度絵馬を持ってこようよ」
「そうだな」
 海から運ばれた爽やかな風が石段から吹き上がり、こうして僕らは日常に戻った。
 こんなわけで僕は新谷坂の怪談に仲間入りをした。
 封印への影響を実感したのは日常に戻ってから。現世の僕の存在は4分の1になり、その結果、新谷坂で一緒にいたナナオさん、それから藤友君と坂崎さん以外、僕の存在を認識する人はほとんどいなくなった。その他に僕に話しかけてくるのは係とかで僕に何か用がある人くらいだ。
 高校デビューは完全に失敗。
 そんなわけで僕は現世と隠世の狭間で新谷坂の怪異を追うことになる。