「あーもう、ほんっと最悪すぎるでしょ……!」
「わかったわかった。とりあえず水飲みなよ」
「いらない。お酒を飲まなきゃやってらんないもん」

 そう言ってからジョッキを持って、半分くらいあったビールを一気に飲み干す。

「ありえなくない? 8年も付き合ってたんだよ? 高2から付き合ってて、そろそろ結婚だと思ってたのにさ」
「うんうん」
「わたしの貴重な8年を返してよ~。あ、ビールおかわりください!」
「こら友香(ゆか)、もうやめときな」
「無理。今日はとことん飲むの。エリカも付き合ってよね」

 数分前に頼んだのにぜんぜん減っていないから、グラスをエリカのほうに押して飲むように促す。
 エリカとは高1で同じクラスになったのをきっかけに仲良くなった、今年で10年目になる親友。
 そして今日は、そんな親友にわたしの愚痴を聞いてもらうために居酒屋へ来た。
 わたしはつい先日、高2から付き合っていた初めての彼氏と別れたんだ。
 約8年間も付き合っていたのに、終わりはラインで一方的に。

「しかも浮気って! 3年前からって、あっちは社会人1年目だよ? しかも社内恋愛! 本当にありえない。無理すぎ。意味わかんない」
「うんうん、そうだね。マジでありえないわ」
「だよね。でもそれに3年間も気づけないわたしもやばいよね……」

 元カレが浮気していることに、わたしは1ミリも気づけなかった。
 隠すのが上手かったのか、わたしが元カレのことを見ていなかったのか。

「だからといって、浮気に気づけないわたしを責めるのはひどくない? どうしたって浮気したほうが悪いに決まってるのに」

 あー、思い出すだけでむかついてくるよ。
《3年も浮気されてて気づけないくらいに、友香はオレのことを好きじゃないんだよ。つぎに付き合う人のことは、しっかり見てやれよ》

「はぁ……」

 最後のラインを読み返してため息がもれる。
 どうしてわたしが悪いみたいな言い方なの?
 わたしの気持ちぐらい、わたしに決めさせてよ。
 好きだって思ったから、8年も付き合ってたのに……。

「しかもすぐ、つぎに付き合う人って言ってくるのもありえない。あっちはもう完全にわたしのこと吹っ切ってるじゃん。まぁ3年も付き合うってベテランカップルだもんね。まぁ、わたしは8年っていう超ベテランカップルだったんだけどね⁉」

 どうしてこんなことになったんだろう。
 なにが悪かったんだろう。

「8年も付き合ってたのに、すぐつぎの人ってならないよ。どんな人を好きになれるんだろう。かっこいい王子様が迎えに来てくれないと、つぎの恋愛になんか踏み出せないよ」
「夢みすぎだって」
「王子様が迎えに来たよって、わたしのところに来てくれるの」
「そんな人いたら苦労しな……」
「あ、いる!」
「え?」

 そこまで話して思い出した。
 わたしには、いる。
 初恋の王子様がいるよ。

「りーくんがいる。5歳のとき、迷子になったわたしを見つけて、手を引いて助けてくれるっていう運命的な出会いをしたわたしの王子様」
「あー……」
「りーくんはわたしの初恋。小学生に上がるタイミングでわたしが引っ越しちゃったから、そこから一度も会えてないけど」
「他人じゃん、もう」
「ちがう! わたしの運命の相手はやっぱり、りーくんだったってことだよ! きっとりーくんがわたしを探してるよ!」

 〝りーくん〟って呼んでたことと、2つ年上だったこと、初恋だったことと、お顔がすでにめちゃめちゃ綺麗だったことしか覚えていないけど。
 あと、わたしのせいで額にケガをさせちゃったこともあった。綺麗なお顔に傷を作っちゃったことは、わたしが一生かけても償えない大失態だった。

「りーくんがわたしを探してるなら、ここにいるってアピールしなきゃ。りーくん‼ 友香はここにいるよー‼」
「ちょ、やめなって。酔いすぎ‼」

 立ち上がったわたしの肩を、エリカが強く押さえつける。
 さっき立ち上がったせいで、お酒がいっきに回ったのか頭がクラクラしてきた。

「わたしにはもう、りーくんしかいないよ!」
「わっ、びっくりした」

 わたしが両手を伸ばすと、後ろからそんな声。
 それにはわたしもびっくりして、振り返って確認。
 目をパチパチさせてわたしを見下ろす男性。
 わたしが伸ばした手に当たりそうになったみたい。

「あ、すみません。かっこいいですね。りーくんですかぁ?」
「え?」
「こら友香! すみません、酔いすぎてて絡んじゃって。もう帰るよ」

 エリカがわたしの腕を掴むけど、身をよじって逃げようとする。

「やだやだ。まだここにいる。ほら、りーくんも座って」
「人に迷惑かけるのはだめ。許しません」
「お母さん……!」
「誰がお母さんよ‼」

 エリカがノリよくツッコミを入れてくれるからうれしくなる。
 あー、いい感じに酔ってきて楽しい。

「ねぇ、りーくん。一緒に飲もうよ。一杯だけでいいからさ」
「絡まないの! すみません、無視して行ってください」

 エリカに注意されて唇を尖らせる。
 だけど、男性がわたしの隣の椅子を引いて座った。

「ははっ、大丈夫ですよ。せっかくだし一緒に一杯いいですか?」
「やったー! 飲も飲も!」
「すみません……」

 男性の言葉にテンションが上がる。
 エリカは申し訳なさそうにしていた。だけど、そのままカウンターに3人並んで飲み始める。男性はわたしの話をたくさん聞いてくれて、すごくうれしい気持ちになった。

「わたしはもう、王子様を待つことにしたの。その王子様が初恋のりーくん。つまりあなたです!」
「ふっ、そうなんだ」
「そうそう! スーツもピカピカで時計もピカピカ。かっこいい! 話も聞いてくれて優しい! かっこいい!」
「ありがとう」
「ふわぁ~、眠たくなってきた。今日はいい日だ……」

 いっぱい飲んで、いっぱい食べて、いっぱい話を聞いてもらって……。
 満足したわたしは、気持ちよさに身を任せて目を閉じた。






「ちょ、友香! いきなり寝ないでよ。もう、本当にすみません! 引き止めてしまって……」
「本当に大丈夫ですよ。ちょうど良かったので」
「え?」
「またねって、そこの眠り姫に伝えておいてください」
「それって……」
「では、失礼します。タクシーを店の前に呼んだので、それで帰ってくださいね」

 エリカと男性のやりとりは、眠ってしまったわたしにはもちろん届かなかった。






「おはようございます!」
「おはようございます。今日も元気です」
「いいですね。わかりました」

 お母さんが子どもを連れてきて、挨拶を交わす。

「友香せんせー、おはよう」
「ちいちゃん、おはよう。じゃ、行ってきますしよっか」

 目線を合わせて微笑むと、ちいちゃんはお母さんのほうを向く。

「ママ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」

 タッチしてから、お母さんはぺこっと頭を下げて玄関へと歩いていく。
 わたしは保育士をしていて、今年で6年目になる。
 短大を卒業してから、職場を変えずに保育士を続けているんだ。
 今年度は年少クラスを担任することになった。昨年度は2歳児クラスを担任していたから持ち上がり。だからよく知っている保護者と子ども達。
 だけど昨日入園式を行い、今日から新入園児も登園してくる。
 早く園に慣れてもらわないとな。
 先週はエリカとたくさん飲んで、愚痴を聞いてもらえたおかげで、新年度はスッキリと迎えられた。知らない男性に絡んじゃったことは、うっすら記憶が残ってるからすごく反省している。でも、やってしまったことは仕方ないから、そこはもう置いといて今年もがんばるぞ……!

「おはようございます」
「はい、おはようございま……あ……」

 部屋に響いた低い声に反応し、子どもの受け入れをするためにドアを見た。
 けど、その男性……お父さんを見て固まる。

流川(るかわ)です。お世話になります。よろしくお願いします」
「あ、はい。よろしくお願いします……」

 心臓がドクドクと音を立てている。
 ど、どうしよう……どうしよう……!
 やってしまった……。

「先生?」

 不思議そうにわたしを見つめるお父さんにハッとする。

「あ、はい。今年度、担任をさせていただく色葉(いろは)友香です。よろしくお願いします」
「流川(あらた)です。よろしくお願いします。ほら、挨拶」
「おねがーます」

 お父さんの言葉に、新入園児の新くんが挨拶をした。
 や、やばいよ……。

「体調とか大丈夫ですか?」

 子どもの体調面や様子を聞かなきゃいけないから、混乱しながらもなんとか質問をする。

「はい、元気です。朝ごはんもしっかり食べたって」
「わかりました」
「お迎えは母親が来ます」
「わかりました」

 なんとか機械的にそれだけ返して、新くんの受け入れを終える。
 去っていくお父さんの後ろ姿を見て、冷や汗が止まらない。

「うぅ……」
「あ、新くん。大丈夫だよ。一緒に朝の準備しようね」

 園に初めて預けられた不安で涙目になる新くんの手を握る。
 さっき来た新くんのお父さん、先週わたしが居酒屋で酔っぱらって絡んだ男性だ……。
 ぜったい高いピカピカのスーツと腕時計、綺麗に整ったお顔。
 ふわっと香った香水までそうだった。
 ど、どうしよう……。
 酔っぱらって絡んだ相手が保護者だったなんて……!
しかも新入園児の保護者って、わたしの信用ゼロじゃん……。
 入園説明会も入園式もお母さんしか来ていなかったから、お父さんの顔は知らなかった。 
 さっそく印象が悪すぎる。こんなんじゃ子どもを預けるのとか心配だよね。
 理事会に訴えられるかもしれない。
 やばい、やらかした。ぜんぜんスッキリと新年度を迎えられない。
 地獄の新年度が始まってしまった……。



「これで、帰りの会を終わります。ブロックする人はカーペットの上、ビーズやパズルをする人は椅子を出してしてください」
「はーい」

 1日目、なんとか予定通りに終える。
 だけど朝の衝撃が忘れられない。
 謝ったほうがいい? いやでも、自分で掘り起こすのは良くないよね。
 気づいていないフリ? わたしがずっと気まずいよ……。

「うぅ……」
「ママ!」

 迎え待ちの好きな遊びの時間中、ずっとわたしの隣にいた新くんが大きな声を出す。
 そこでハッとして、わたしもドアを見た。

「新くん、カバン持ってお母さんのところに行こっか」
「うん!」

 自分のロッカーからカバンを取ってくる新くんを横目に、わたしは新くんのお母さんの元へ行く。
 新くんのお母さんは入園説明会や入園式で挨拶をしたから見たことあったけど、改めて見るとすごく美人。
 ドキドキしながら、今日の様子を伝える。

「初日なので緊張があり、今日はずっと保育士の近くにいました。でも給食はぜんぶ食べて、そのときにお友達とも話せていましたよ」
「そうなんですね。よかったです~!」

 お母さんがニコッと笑うのを見て、いたたまれない気持ちになる。
 この美人な旦那さんにわたしはなんてことを……。

「ママー!」
「新、帰ろっか」
「うん。友香せんせー、また明日」
「はい、また明日」

 いつもなら初日で名前を覚えてもらえてうれしいな、って思うけど。
 いまはもう罪悪感しかない。
 これからとうぶんは、ずっとこの気持ちを抱えなきゃいけないんだ。
 うぅ……胃が痛い……。
 そう思いながら、今日は遅番だったから延長保育の部屋にも入りなんとか仕事を終えた。
 書類はまた明日にしよう。
 今日は帰って休む。あ、その前にエリカに報告しよう……。

「お先に失礼します。お疲れさまです」
「お疲れさまです」

 残業をしている他の保育士や園長先生に挨拶をしてから、保育園を出て門に行く。
 けどそこには人影がいて、ビクッと肩が大きく跳ねた。
 誰?
 ドキドキしながらも、門を通らないといけないからゆっくりと近づいていく。

「っ、」

 近くに行って、顔が見えると喉がヒュっとなった。

「お疲れさまです」

 優しく低い声の男性は、わたしが居酒屋で絡んだ男性でもある新くんのお父さん。

「お、お疲れさまです。えっと、どうされましたか? 忘れ物ですか?」
「はい、忘れ物です」
「すみませんでした。保育室ですか? 取りに行きますけど、いったい何を忘れた……」
「友香だよ」
「え……」

 わたしのすぐ目の前まで来て、優しく笑った新くんのお父さん。
 でも、わたしのことを『友香』って……。

「〝王子様が迎えに来たよ〟」
「あ、えっと……やっぱり、先週居酒屋で会った方ですよね? 申し訳ございませんでした。あのときは酔っていて、保護者だというのに失礼なことを……いや、保護者じゃなくてもあれは失礼ですよね。でも、あのときだけで仕事は真面目に取り組んでいるので……」
「ちがうよ。王子様が迎えに来たんだよ。俺って、友香の王子様だったんでしょ?」
「え……それって……」

 どういうこと?
 だって、この男性は新くんのお父さんで……。

「からかって……」
「ないよ」
「でも、流川新くんのお父さん……」
「流川新は俺の姉の子ども。甥っ子」
「え、甥っ子……」
「あのときはいっぱい名前呼んでくれてたのに、いまは呼んでくれないの?」

 いたずらに笑う新くんのお父さん、じゃない男性。
 待って、パニック。どういうことかわかんない。

「あのときわたし、りーくんって」
「そう、俺がりーくんだよ」
「え?」
久遠(くおん)伊織(いおり)。友香は呼びやすいからって、俺のことを〝りーくん〟って呼んでたよ」

 う、嘘でしょ……⁉
 こんな展開ってあるの⁉
 いや、嘘かもしれない。そんなことあるわけない。
 でもたしかにわたしは当時「いおりくん」が言えなくて「りーくん」って呼んでたんだった。

「ほ、ほんとに……?」
「ほんとに。ほら、友香が気にしてた傷跡もあるから、これ証拠。俺にとっては愛おしいものだよ」

 前髪を分けて、生え際近くの線のような傷跡を見せてくれる。たしかにあの場所に、わたしのせいで傷を作ってしまった。
 まさか、本当にこの人がりーくん⁉︎
 待って待って、頭がついていかない。
 元カレに振られて、やけ酒して、酔っぱらって絡んだ相手が初恋の王子様であるりーくん⁉
 迎えに来てって思ったそばから来るものなの⁉︎
 そんな恋愛マンガや小説であるようなベタな展開、あるわけが……。

「友香のこと、ずっと探してたよ。会いたかった。ここにいるって大きな声でアピールしてくれてありがとう」

 そんなばかな……。
 そう思いながらも、このベタすぎる展開にわたしの胸は高鳴っていた。


「これからは、ずっと一緒にいられるね。お姫様」


 あぁ、本当に。
 王子様が迎えに来ちゃった……。