1
アスファルトには未だ幾らか、残雪が斑をなしている。空気も極寒の冴えた剃刀で、肌を擦過する。気象予報では週前半二日間に積雪とのことだったが、こうして土曜日まで雪解けは疎らだ。人通りの極めて少ない夕刻、女性ものの黒のバレエシューズが、通りを歩いてきた。茶色のトレンチコートにチュールのスカート、茶髪のロングヘアの若い女性が速歩で、手前に来た。
その数メートル後方には、サングラスに黒マスクの男が、執拗に女性の後を尾行しているのだった。
疾っくに女性は尾行に気付いていた。先程から速歩で逃走を試みたが、男性はお構いなしに追って来る。
しかもこれが初めてではなかった。男は三ヶ月前から何度も彼女の跡を追って来た。と言って、何らアプローチを掛けてくる訳でもない。ただひたすら沈黙したまま尾行を繰り返すだけなのだった。
彼女の恐怖心は頂点に達しつつあった。これまでは別段何もされなかった。だがいつ危害を加えられるか、分かったものではない。
彼女も背は高い方ながら、男は175くらいの中肉中背で、体力的にも不気味な存在だった。かなり前から、このような危険に遭遇しているので、彼女は護身のために小型ナイフくらい携帯しようかとも考えたが、未だ果たせていなかった。
彼女は帰宅途中で、以前の尾行の際に住居を知られてしまっていた。此の儘帰宅して良いか否か、彼女は困惑した。独り暮らしの彼女のマンションに、帰って良いかどうか判らなかった。
此方から、勇気を振り絞って、貴方は誰ですか、私に何か御用でしょうかと、面と向かって尋ねたい欲求はあった。身も凍る恐怖心がそれに勝っていた。
彼女は自分のマンションの手前で立ち止まった。溜まりに溜まった怒りが恐怖心を制した。
彼女は自分でも信じ難い勇気を以て、男を挑発した。
「何なの、貴方。私に何か用事?」
男は沈黙した儘。
「何よ、見たいんでしょう。見せてあげるわ、ほら」
彼女は愕く程大胆な行動に出た。
男の前で、自らスカートを捲り上げたのだ。すらりと伸びた生足と、薄ピンクのパンティが露わになった。
男はサングラスとマスクの奥で表情を硬直させた。
彼女はそれから、大慌てで、マンションに入った。後方を一切振り返らず、エレベーターに飛び乗った。
取り残された男は、4階の窓を食い入るように凝視した。其処が彼女の部屋だった。
彼女はカーテンを開けて、路上を見下ろした。男の熱視線が心底不快だった。彼女は緋色のカーテンを閉めた。
男は、彼女が見えなくなっても、尚暫く4階を見上げた。その後、彼女の向かいのマンションに視線を移した。向かいのマンションに、丁度空き部屋ありの看板が出ていた。男は調べた。空き部屋は偶然、彼女の真向かいの4階の部屋だった。
男は内ポケットから、スマホを取り出した。不動産会社に電話したのだ。向かいの部屋は三ヶ月前から、空き部屋だった。
2
歓楽街天文館の隣、いずろの外れの廃ビル寸前のビルにその探偵事務所はあった。亀田浩志が単独で看板を掲げている事務所だ。
乱雑な事務所内に、大音量でジェフベックの06年のオフィシャルブートレグが鳴っている。亀田はホールズワース等に比べればテクニカルではないものの、十二分に技巧派のベックのギターに心酔していた。ブロウバイブロウやワイアードを愛聴したのは昔の話だ。最近の例えばハリウッドボウルライブには辟易していた。ヴォーカルの背後のベックは精彩を欠くのだ。しかしオフィシャルブートレグでの彼は明らかに違う。孤高のギタリストの面目躍如、惜しいミュージシャンを亡くした。
突然デスク上の電話が鳴り響いた。本当に久々の仕事かと、亀田は緊張して受話器を取った。
「亀田探偵事務所です」
「松本順次と申します。娘のことで、ちょっと仕事を頼みたいのですが、大丈夫でしょうか」
「ええ、今、一つ仕事を片付けたところでして、空いて居ります。お受け致しますよ。どのような案件でしょうか」
「娘がストーカー被害に遭っていて、困っているんです。今から伺っても宜しいでしょうか」
「なる程、ストーカーですか。大丈夫です。事務所の場所はご存知ですか」
「存じております。では今から娘と一緒に参ります」
電話が切れた。亀田は深呼吸した。雑然とした事務所内を少しは片付けなくてはと思った。久しぶりの来客なのだ。
散らかった書類を書棚に戻す。ワードで書類を打つのは、内容如何に関わらず苦手だった。しかし調査内容は全て書類に纏めて、依頼人に提示しなければならない。
今回の依頼はストーカー被害か、すると尾行術が重要になるなと構えた。その場合、ある程度の変装も必要になる。
事前の策を練りつつ、ベックを最初から再生して、依頼人を待った。
松本順次と娘の麗奈が、事務所を訪れたのは30分後だった。
順次はオーダーメイドらしい身体にピタリと合ったダークスーツ姿、麗奈はコートを脱ぐと、Vネックワンピースに黒の透けブラウスを着ていた。
「麗奈がストーカー被害を受けていると聞いて、警察に直ぐ届けたのだが、らちが空かない。警察は直接的被害を被った後でなければ、本気で動いてはくれないらしい」
「そういうことになりますかね。私立探偵は依頼人の思う通りに動けます」
「何でもかね」
「ええ、ときには違法行為も」
「頼もしい。申し遅れたが、私は建設会社を経営している。麗奈は大学三年生だ」
「なる程、麗奈さんのマンションは何処ですか」
「下荒田だ」
「その周辺で、ストーカー被害を受けているのですね」
「そうだ、麗奈、探偵さんに説明してあげなさい」
「あの、三ヶ月程前から、男に付き纏われているんです」
「相手の男の顔は見知っているんですか」
「いいえ、サングラスと黒マスクで顔は分かりません」
「背は高い方ですか」
「中肉中背ではないでしょうか。私が69センチですから、私より少し高いくらい」
「その他に、男について分かっていることはありますか」
「何もありませんわ。何処に住んでいるのか。何処で私と出会ったのか。その辺りを調査して頂きたいんですの」
「大学で知り合った訳ではないんですね」
「ええ」
「貴女はアルバイトは」
「致して居りません」
「すると、友達と飲みに行かれた際に知り合ったとかは。男の方が一方的に貴女を見初めた訳で、貴女には分からないかもしれませんが」
麗奈は首を振った。
「ええ、分かりません。あの男の粘着質の嫌らしい視線が、いつ頃から私を捉えたのか、想像がつきません」
「何処か、危ない場所に行かれたことはありませんか。ぼったくりバーとか」
「行ったことありません」
「何処かで、知り合っている筈なんです。例えば、失礼ですが、貴女は精神科の門をくぐったことはありますか」
「いいえ」
「相手の男は、そういう所に居る可能性が高いんですが」
「幸い、そういう場所に縁はございません」
亀田は暫し熟考した。
「貴女は鹿児島大学病院を受診したことはありますか。最近ですけれど」
「はい、受診しました」
「何の用件で」
「乳癌検診です」
「それは三ヶ月前ではないんですか」
「ええ、そうです」
麗奈は身体を震わせた。
「大学病院には、精神科があります。其処で出会われたのかもしれませんね。時期は一致します」
「あの、やっぱり分かりませんわ」
「自覚はないんですね」
「はい」
「と言うことなら、分かりました」
亀田はデスク上で、大型の帳面を開いた。
「それで、麗奈さん、貴女の帰宅時間は一定ですか」
「はい、大学の期末試験が終わってから、大学図書館に午後から通学しています。帰宅時間はほぼ同じですわ」
「サークルは入っておられない?」
「ええ、帰宅部です。図書館で時間を潰してから帰りますけれど」
亀田は2月の予定表に万年筆を付けた。
「そうしますと麗奈さん、これから毎日、私が貴女を遠くから尾行致します」
「結構ですわ」
「日曜日も、祝日も、ご自由に外出なさって大丈夫です。私が見張って居ります」
「あの、他のお仕事は」
「暫く、この件に専念します」
3
麗奈が街角で、コンパクトを開いた。小さな丸鏡の裡に、凍てついた街路樹が大写しになった。続いて、ふっくらと柔らかそうな唇のアップ画像。麗奈はその唇に、ローズベージュの口紅を引いた。
彼女はトレンチコートの下に、ラガーシャツと細身シルエットのチェックパンツ。ラインベルトの服装。
彼女はルージュとコンパクトを小型バッグに仕舞うと、ゆっくり歩きだした。今日は尾行者を恐れてはいなかった。尾行者を尾行する者の存在も、意識の隅にあった。
麗奈は寧ろ堂々と帰路に着いていた。昨日は相手の男は現れなかった。仕事が多忙だったのだろうか。兎も角、亀田も一日無駄足を踏んだ。
今日は現れそうな予感があった。異常者の陰湿な視線をものにしていることが、彼女の心の何処かで、僅かな快楽をもたらしていた。
彼女は素知らぬ顔で単調に歩を進めていた。難解な専門書を図書館で読んだ後の気怠さの中で、半端投げ槍な気持ちで歩いた。
其処へ、矢張り相手の男が現れた。常の如くサングラスと黒マスク姿で、麗奈の後方数メートルをつけて歩いた。男は路地裏から素速く本通りに出て来た。彼女が来る時間はいつも通りなのだ。
男から更に数メートル後方に、亀田もサングラスと野球帽姿で尾行していた。目標を見るのは、これが初めてだった。
麗奈は淡々と家路を辿る。
時刻はそろそろ夕刻6時半、闇が3人を支配し始めていた。
亀田は後ろ姿から、目標の男を注視した。髪に白いものが混じっている。予想よりも年配の男なのだった。
亀田としては漠然と、童貞の若者を想定していた。こんな大人がストーカーになるのかと訝った。
薄闇の中の、3人の奇妙な同行は続いた。何処までも果てしなく続くかと思われる程の緊張感だった。
麗奈のマンション前に着いた。
彼女は敢えて後方を振り返らず、マンション内に駆け込んだ。
男は4階の窓を見上げて、暫く路上に佇んでいた。が、次の瞬間、その向かいのマンションに入って行った。
亀田には意外な展開だった。数分待つと、麗奈の向かいのマンションの、同じく4階の窓辺に、サングラスの男が立った。亀田は凝視を外さず、男のマンションの影に身を潜めた。
麗奈は向かいのマンションに気付かないのか、緋色のカーテンを開けたままだった。
男は窓辺で、小型のビデオカメラを構えた。カメラの画像として、向かいの麗奈の部屋の一部始終が映り込んだ。
男は無表情にカメラを構えている。
麗奈は何一つ気付かないのか、ゆっくりとコートを脱いだ。続いて、ベルトを外すと、ラガーシャツをたくし上げて、頭から脱衣した。
麗奈の薄ブルーのブラが露わになった。彼女はチェックパンツも脱いで、ブラとパンティだけの下着姿になった。
ビデオカメラの撮影は飽くまで冷淡に続いている。
麗奈は下着姿の儘、奥の浴室に向かった。
男はビデオカメラを傍らに置くと、今度は一眼レフを構えた。望遠レンズを装着したカメラだった。
麗奈の妖艶な下着姿が男の眼前に迫った。浴室のドアが閉められた。
磨り硝子に、桃色の影が映り込んだ。男はズームを絞った。甘い桃色の影が大写しになった。影の妖しい蠢きを、男は凝視した。
それから、約1時間後、男はマンションの部屋から降りてきた。
男が深い闇の歩道を進む。
亀田は、尾行を再開した。
男は速歩になった。一瞬亀田は尾行に気付かれたかと思ったが、そうではなかった。
亀田はマンション近くの路上に違法駐車してあった自分の車に乗り込んだ。車のノロノロ運転で、徒歩の男を追った。亀田の予測としては、男の方も例えばタクシーを拾うなりして、車で移動を始める筈だったが、相変わらず、男は徒歩で進む。
荒田から郡元へと、そして唐湊へと。今年で閉学になるという、女子短期大学の近くまで来た。
尾行は結局全く気付かれなかったらしい。男は短期大学の校門に続く坂道にある、一つの大きなビルに入って行った。
ビルの大型の看板には、株式会社昭和科学、とあった。
ビルの前庭に、一人の警備員が立っていた。亀田は車を降りて、警備員に尋ねた。
「済みません、たった今、会社に入って行った人は何方ですか?」
警備員は苦笑して、振り向いた。
「アンタ、何を言ってるんだ。あれが社長だよ」
亀田は愕然とした。
4
亀田の事務所近くの、すき家は他の店舗のようにタッチパネル式の注文になっていない。今時旧式なと思われるが、カウンターのクルーに直接注文をアナログに頼む形になっている。更に厄介なことには、その職員はアジア系外国人で、日本語が必ずしも堪能ではなく、注文を間違うこともしばしば。変わった店だが、亀田は常連客だった。
「牛丼大盛り二つ、に温玉二つ、味噌汁二つ」
亀田は成るべく正確を期して発声し、注文した。
席では、従兄弟の安田警部補が待っていた。
「この店、相変わらずセルフサービスなのか」
警部補が問う。
「相変わらずです」
「どうして此処はタッチパネルを取り入れないんだ」
「さあ、謎です」
謎は困りものながら、流石に注文は牛丼店だけに速かった。番号を呼ばれて、二人は牛丼を取りに行った。
暫し、牛丼をかっ込む。
「で、今日はストーカーの件だったな」
「ええ、宜しく御願い致します。依頼人は生きた心地がしないんですから」
「そのストーカーは実業家なのだな」
「そうです。驚きました。大金持ちなんですよ」
「それで、逮捕してくれという訳だ」
「当たり前じゃないですか。何故警察の動きは鈍いんですか」
「昭和科学、代表取締役、山口健三、地元の名士だ」
「名士が何ですか。卑劣なストーカーですよ」
「まあ、待て。逮捕の前に、刑事を一人付けよう」
「冗談でしょう。依頼人が被害をこれ以上被ったらどうするんですか」
「有能な女性刑事を派遣する。御前の依頼人の相談にも乗ってくれる筈だ。メンタルのケアも出来る。適任だと思う。今年40歳の寺本陽子君」
「で、いつ頃逮捕して頂けるので」
「まずは警告だ。無視したら即逮捕する」
「生ぬるいです」
「山口は、依頼人の松本麗奈の私立大学にも多額の寄付をしている。少しは敬意を払え」
「無理ですね」
「まあ、そう言うな。寺本は今日中に任務に就く」
「そうですか、余り期待出来ませんが」
「此処から先は警察の管轄だ。御前は手を引け」
「そうですか、しかし気になることが」
「何だ」
「麗奈さんが先刻財布を擦られたらしいんです」
「擦りか。この件と関係あるのか」
「分かりません」
「それも調べてみる。兎に角御前は手を引け」
5
株式会社昭和科学の社長室。
頑丈な黒檀のデスクの前に、山口健三は革張りの椅子に腰を下ろしていた。と言って格別仕事に携わっている訳でもなかった。洋書の科学雑誌を開いて、英文に眼を通していた。
時折部下が経理書類を持ってくる以外に仕事らしい仕事はしない。大抵はパソコンの一太郎を開いて、英語で論文を書く毎日だ。
矢庭に、デスク上の電話が鳴った。
山口は事務的に受話器を取った。
「はい、山口だが」
「山口社長ですね。わたくし寺本陽子と申します」
妙齢の女性の声だった。
「どのようなご用件でしょう」
「私、県警の刑事です」
「刑事さんですか……」
「そうです。山口さん、警告します」
「何でしょう」
「下荒田のマンションを今直ぐ引き払ってください。これは警告なんです」
山口は首を捻った。
「何故でしょう」
「貴方のなさっていることは違法行為です。分かっていらっしゃると思いますが」
山口は椅子に座り直した。
「引き払えば、私を見逃すとでも」
「そうは参りません。貴方は女性を盗撮している」
「あのマンションに行くだけでも駄目ですか」
「貴方を逮捕します」
「逮捕ですか。顧問弁護士を呼びます」
「御随意に。ですが、マンションは直ちに引き払って頂きます」
山口は深呼吸した。
「御話は分かりました。弁護士と相談の上、充分警戒しましょう」
「山口さん、二度とあのマンションには行かないでください」
「分かりました。そう致します」
山口はコードレス受話器を持ったまま椅子を立つと、窓辺に行った。下方の駐車場に、スマホを持った女性刑事が佇んでいた。
「刑事さん、しかし、私は麗奈を愛しているんです」
「貴方には奥様がいらっしゃる」
「そういう問題ではない。分かりませんか」
「理解不能ですわ。残念ながら」
「家内が居るからこそ、麗奈に対してはこうする他ないんです」
「貴方はストーカーです」
「何とでも呼べばいい。しかし私の麗奈への愛は変わらない」
「貴方の行為は品性下劣な……」
山口は電話を切った。
その日の夜、山口は下荒田のマンションを訪れた。警告を無視した形だった。
タクシーで会社を出る際に、女性刑事の尾行に気付いたが、意に介さなかった。
マンションに着くと、山口は急いでエレベーターに乗った。4階の部屋で、一眼レフカメラの三脚を立てた。これが最後の盗撮になる筈だった。
彼女の部屋は相も変わらず、カーテンが開け放たれていた。彼女は窓辺の安楽椅子に腰掛けて、音楽を聴いているらしかった。片隅のCDプレーヤーはブルーのライトを光らせている。
「麗奈、これが最後だ」
山口はファインダーを覗き込み、言った。彼女は白いレースのネグリジェ姿だった。
「麗奈、此方を向いてくれ」
一方、寺本刑事は漸く二つのマンションの間に車を停めた。ふと自分のスマホを見た。ボタンを押してもネットゲームの広告が全画面で流れるばかり。彼女は舌打ちした。こんな時に、ウイルス感染したらしい。寺本は携帯を投げ捨て、車を降りた。
寺本は全力で駆けた。
山口のマンションに入り、エレベーターに飛び乗った。4階のボタンを押す。
山口の部屋の前まで来た。
ドアの呼び鈴を鳴らした。
応答がないので、刑事はドアを全力で叩いた。
次の刹那、ドアが内側から開けられた。
「山口さん、確かに警告しましたよね。此方には来るなと」
「貴女が寺本という刑事さんか。入りたまえ」
寺本は拳銃を抜いて構え、部屋に入った。
「動かないで」
山口は手を挙げた。
「待ってくれ。危害は加えない。銃を下ろしてくれないか」
丁度その折りだった。
真向かいの麗奈の部屋で、動きがあった。部屋の奥から唐突に、黒覆面を被った賊が現れた。玄関の鍵を持っていたのか、音もなく闖入してきた。
麗奈は悲鳴を挙げたらしかった。彼女は椅子から立ち上がった。
黒覆面の賊は右手を振り翳した。
その手には銀色のナイフが握られていた。ナイフが彼女の肩に振り下ろされた。
彼女は反転して窓辺を向いた。
寺本刑事は向かいの部屋の強行に愕然としたが、次の瞬間、素速く一眼レフカメラのシャッターを押した。
「カメラに触るな」
山口が背後から寺本を羽交い締めにした。
寺本刑事は柔道の技で山口を投げた。山口の手首に手錠を掛けた。
向かいの部屋で、賊が後方から彼女の背中を刺した。彼女は床に倒れ込んだ。床に倒れると、向かいの部屋の視界から外れた。
殺人者はその上から、ナイフを振り下ろした。
寺本刑事は、向かいの部屋の惨劇を注視しつつ、山口を後ろ手に両手を手錠で拘束した。
向かいの麗奈の部屋で、殺人者が緋色のカーテンを閉めた。
寺本刑事は再三舌打ちした。こんな時に限って、携帯が使えない。覆面パトカーに戻って、無線でこの一部始終を通報しなければならなかった。
6
県庁に隣接する県警本部。その見るからに頑丈な建物の前に、亀田は自分の古めかしい中古車を停車していた。
亀田は運転席でガムを噛みながら従兄弟を待っていた。程なくして、安田警部補が現れた。きびきびした挙措で助手席に乗り込んだ。
「さて、叔父さん。まだ捜査中ですね」
「捜査は始まったばかりだ」
「では機密情報の横流しを御願い致します」
「御前な、冗談にならないぞ」
亀田は苦笑した。
「此処の県警、情報漏洩で問題を起こしたばかりでしたね」
「そうだ、簡単に情報は与えられない」
「私達の間でもですか。いつもギブアンドテイクですが」
「其方からも有益な情報があるのか」
「あるかもしれません」
「そうか、では伝えるべき話は5点だ」
「伺いましょう」
「第一に、麗奈は財布を擦られていたが、部屋の鍵も盗られていた」
「そうですか」
「鍵交換は間に合わなかった」
「残念至極です」
「第二に、山口は麗奈と微妙な関係にあった」
「どういう事情ですが」
「うむ」
警部補は頷いた。
「一年前、山口の娘、さゆりが自殺していた。自殺の原因はどうやら、麗奈らしい」
「何ですって」
「驚きだろう。さゆりの恋した男は、麗奈の恋人だった。さゆりは失恋を苦にして自殺した」
「確かに驚きですね」
「ああ、麗奈はその男とは既に別れている」
「なる程」
「第三に、山口は麗奈の向かいのマンションの部屋を、三ヶ月前から手付けを打って確保していた」
「それも、なる程です」
「第四に、山口は警察上層部に圧力をかけていた。奴の逮捕を止めて、女性刑事を派遣したのは奴からの要請だった」
「それも、かなりの驚きですね」
「そうだろう。第五に、寺本刑事のスマホはウイルス感染していた」
亀田は熟考の表情に変わった。
「その全てに、何か繋がりがありそうですね」
「そう思うか。嗚呼、第六がある。寺本刑事は山口のカメラを使って、向かいの部屋から、殺害現場の写真を撮っていた」
「それは興味があります。是非引き伸ばして、私にも写真をください」
「そうはいかん。で、御前からの情報は?」
「そうですね……」
亀田は暫し考えた。
「情報ではなく、質問が2点あります」
「言ってみろ」
「第一に、昭和科学の会社のトラック運転手が当日、無断欠勤していなかったか」
「妙な質問だな」
「運転手は買収されているかもしれません」
「一体誰にだ」
「追々分かってくると思います」
「そうか、では第二は?」
「昭和科学の社員に、最近急遽退職した者は居るか?」
「それも奇妙な質問だ」
「其方の捜査を宜しくお願い致します」
それから、早一ヶ月が経過した。
季節は極寒から着実に春へと向かっていた。県警は漸く、ストーカー殺人事件の収束を宣言し得ていた。亀田は無論のこと捜査の蚊帳の外、二軍にも入れない単なる外野として、事件に関しては悶々と過ごした。麗奈の父親から引き続きの依頼、ストーカー調査から殺人事件調査を請け負っていたが、格別単独で為し得ることはなかった。
というより、事件自体は県警が珍しく急転直下の解明を見せていたのである。亀田が警部補に発案した、二つの質問が案外の早期解決に寄与したのだった。
春の今宵は、亀田が安田警部補を事務所に招待した。事件について、ゆっくり語り合いたいと、レミーを二本準備した。
宵の口から、亀田はbgmに常の如くヘヴィメタルを掛けたいと申し出たが、警部補に断られ、渋々オペラのCDを掛けることにした。オペラと言っても、ロジャーウォータースのCA IRAだった。
「叔父さんと呑むのも久しぶりですね」
「そうだな、今夜は和もうじゃないか」
「和むのも結構ですが、事件の話を聞かせてください」
「全くな、御前には気の毒だが全て事後報告になる」
「構いませんよ。私は元々主役の柄じゃないから」
「何処から話すべきかな。そうだな、矢張りかなり難易度の高い不可能犯罪という能書きからだろうか」
「本当に不可能犯罪ですよね」
「そうだ、何しろ殺人事件の目撃者が如何にして、距離のある向かいの部屋で犯行可能かという問題だ」
「目撃する地点と、犯行現場、両方に生身の人間が存在することが可能かということですよね」
「そうなるな。これは謂わば究極のアリバイ工作だ。犯人はこのアリバイを強固なものにするために、同行する目撃者に警察官を選んだ」
「しかも、体力的に劣ると思ったのか、女性刑事を指名した訳だ」
「実際、女性刑事は体力的に劣ることはなかった。そもそも、何故こんな工作が必要だったかと言うと、普通に殺害したのでは、動機の点から確実に第一に嫌疑をかけられる容疑者になってしまうからだった。思い切ったアリバイ工作がどうしても必要だったのだ」
「犯人は刑事のスマホにウイルス感染を仕掛けた。科学者の犯人にはそれは容易いことですね」
「嗚呼、何故スマホを潰す必要があったかというと、向かいの部屋から犯行現場をスマホで撮影されては困るからだった。しかし犯人の誤算は、部屋に元々あったカメラで、犯行現場を撮影されてしまったことだった。女性刑事の咄嗟の機転が事件解決の大きな糸口になった。女性の力を甘く見ていたのだろう。可哀想な奴だ」
安田警部補はポケットから、ナイフを取り出した。
「これはこういう玩具だ」
警部補は自分の手首を刺した。血一つ出なかった。
「こんな風に、押さえると、刃の部分が柄の中にのめり込む。傍目には刺しているように見える。ましてや、距離のある向かいの部屋から見ていたら、本当に刺しているように見えたことだろう」
「面白い玩具ですね」
「女性刑事が咄嗟に撮影した現場写真がこの計画犯罪を覆してしまった。写真に写っていたロングヘアの女性は、麗奈とは別人だった。警察としても最初は訳が分からなかった。しかし間違いない。山口と刑事が目撃した犯行は、擬似殺人、単なる御芝居だった。本当の麗奈殺害は、それより二時間前に起きていて、麗奈は始めから床に死体となって倒れていた。向かいの部屋からは死角になって、床の上は見えない。一枚の写真がそれを暴露した。あと、御前の意味深な質問だが、昭和科学のトラック運転手は確かに欠勤していた。彼は多額の金で買収されていたが、我々が吐かせた。彼の代わりに、社長の山口がトラックに乗って出て行き、また戻ってきた。運転手の変装をして、張り込みの刑事の目を逃れた。麗奈のマンションに行ったのだ。また、最近急遽退職した男女の社員は居た。彼ら二人がこの擬似殺人の犯行を演じたのだ。現場写真の女性は確かにその社員だった。彼らも多額の金で買収され、犯行に加担した。金持ちだからこそ為し得る犯行だった訳だ。その二人は一昨日北海道で逮捕された。さて……他に何か言い残しているかな。そうだ、プロの擦りも買収されていた」
「犯人の山口の抱いていたジレンマについては」
「嗚呼、山口は麗奈を娘の仇と憎悪していたが、同時に歪んだ恋愛感情も本物だったらしい。山口は事実、ストーカーとして麗奈を偏愛していた。だから殺したことが、死ぬ程苦しかったと供述している」
「なる程、そうだったんですね。叔父さん、今夜は呑みましょう」
アスファルトには未だ幾らか、残雪が斑をなしている。空気も極寒の冴えた剃刀で、肌を擦過する。気象予報では週前半二日間に積雪とのことだったが、こうして土曜日まで雪解けは疎らだ。人通りの極めて少ない夕刻、女性ものの黒のバレエシューズが、通りを歩いてきた。茶色のトレンチコートにチュールのスカート、茶髪のロングヘアの若い女性が速歩で、手前に来た。
その数メートル後方には、サングラスに黒マスクの男が、執拗に女性の後を尾行しているのだった。
疾っくに女性は尾行に気付いていた。先程から速歩で逃走を試みたが、男性はお構いなしに追って来る。
しかもこれが初めてではなかった。男は三ヶ月前から何度も彼女の跡を追って来た。と言って、何らアプローチを掛けてくる訳でもない。ただひたすら沈黙したまま尾行を繰り返すだけなのだった。
彼女の恐怖心は頂点に達しつつあった。これまでは別段何もされなかった。だがいつ危害を加えられるか、分かったものではない。
彼女も背は高い方ながら、男は175くらいの中肉中背で、体力的にも不気味な存在だった。かなり前から、このような危険に遭遇しているので、彼女は護身のために小型ナイフくらい携帯しようかとも考えたが、未だ果たせていなかった。
彼女は帰宅途中で、以前の尾行の際に住居を知られてしまっていた。此の儘帰宅して良いか否か、彼女は困惑した。独り暮らしの彼女のマンションに、帰って良いかどうか判らなかった。
此方から、勇気を振り絞って、貴方は誰ですか、私に何か御用でしょうかと、面と向かって尋ねたい欲求はあった。身も凍る恐怖心がそれに勝っていた。
彼女は自分のマンションの手前で立ち止まった。溜まりに溜まった怒りが恐怖心を制した。
彼女は自分でも信じ難い勇気を以て、男を挑発した。
「何なの、貴方。私に何か用事?」
男は沈黙した儘。
「何よ、見たいんでしょう。見せてあげるわ、ほら」
彼女は愕く程大胆な行動に出た。
男の前で、自らスカートを捲り上げたのだ。すらりと伸びた生足と、薄ピンクのパンティが露わになった。
男はサングラスとマスクの奥で表情を硬直させた。
彼女はそれから、大慌てで、マンションに入った。後方を一切振り返らず、エレベーターに飛び乗った。
取り残された男は、4階の窓を食い入るように凝視した。其処が彼女の部屋だった。
彼女はカーテンを開けて、路上を見下ろした。男の熱視線が心底不快だった。彼女は緋色のカーテンを閉めた。
男は、彼女が見えなくなっても、尚暫く4階を見上げた。その後、彼女の向かいのマンションに視線を移した。向かいのマンションに、丁度空き部屋ありの看板が出ていた。男は調べた。空き部屋は偶然、彼女の真向かいの4階の部屋だった。
男は内ポケットから、スマホを取り出した。不動産会社に電話したのだ。向かいの部屋は三ヶ月前から、空き部屋だった。
2
歓楽街天文館の隣、いずろの外れの廃ビル寸前のビルにその探偵事務所はあった。亀田浩志が単独で看板を掲げている事務所だ。
乱雑な事務所内に、大音量でジェフベックの06年のオフィシャルブートレグが鳴っている。亀田はホールズワース等に比べればテクニカルではないものの、十二分に技巧派のベックのギターに心酔していた。ブロウバイブロウやワイアードを愛聴したのは昔の話だ。最近の例えばハリウッドボウルライブには辟易していた。ヴォーカルの背後のベックは精彩を欠くのだ。しかしオフィシャルブートレグでの彼は明らかに違う。孤高のギタリストの面目躍如、惜しいミュージシャンを亡くした。
突然デスク上の電話が鳴り響いた。本当に久々の仕事かと、亀田は緊張して受話器を取った。
「亀田探偵事務所です」
「松本順次と申します。娘のことで、ちょっと仕事を頼みたいのですが、大丈夫でしょうか」
「ええ、今、一つ仕事を片付けたところでして、空いて居ります。お受け致しますよ。どのような案件でしょうか」
「娘がストーカー被害に遭っていて、困っているんです。今から伺っても宜しいでしょうか」
「なる程、ストーカーですか。大丈夫です。事務所の場所はご存知ですか」
「存じております。では今から娘と一緒に参ります」
電話が切れた。亀田は深呼吸した。雑然とした事務所内を少しは片付けなくてはと思った。久しぶりの来客なのだ。
散らかった書類を書棚に戻す。ワードで書類を打つのは、内容如何に関わらず苦手だった。しかし調査内容は全て書類に纏めて、依頼人に提示しなければならない。
今回の依頼はストーカー被害か、すると尾行術が重要になるなと構えた。その場合、ある程度の変装も必要になる。
事前の策を練りつつ、ベックを最初から再生して、依頼人を待った。
松本順次と娘の麗奈が、事務所を訪れたのは30分後だった。
順次はオーダーメイドらしい身体にピタリと合ったダークスーツ姿、麗奈はコートを脱ぐと、Vネックワンピースに黒の透けブラウスを着ていた。
「麗奈がストーカー被害を受けていると聞いて、警察に直ぐ届けたのだが、らちが空かない。警察は直接的被害を被った後でなければ、本気で動いてはくれないらしい」
「そういうことになりますかね。私立探偵は依頼人の思う通りに動けます」
「何でもかね」
「ええ、ときには違法行為も」
「頼もしい。申し遅れたが、私は建設会社を経営している。麗奈は大学三年生だ」
「なる程、麗奈さんのマンションは何処ですか」
「下荒田だ」
「その周辺で、ストーカー被害を受けているのですね」
「そうだ、麗奈、探偵さんに説明してあげなさい」
「あの、三ヶ月程前から、男に付き纏われているんです」
「相手の男の顔は見知っているんですか」
「いいえ、サングラスと黒マスクで顔は分かりません」
「背は高い方ですか」
「中肉中背ではないでしょうか。私が69センチですから、私より少し高いくらい」
「その他に、男について分かっていることはありますか」
「何もありませんわ。何処に住んでいるのか。何処で私と出会ったのか。その辺りを調査して頂きたいんですの」
「大学で知り合った訳ではないんですね」
「ええ」
「貴女はアルバイトは」
「致して居りません」
「すると、友達と飲みに行かれた際に知り合ったとかは。男の方が一方的に貴女を見初めた訳で、貴女には分からないかもしれませんが」
麗奈は首を振った。
「ええ、分かりません。あの男の粘着質の嫌らしい視線が、いつ頃から私を捉えたのか、想像がつきません」
「何処か、危ない場所に行かれたことはありませんか。ぼったくりバーとか」
「行ったことありません」
「何処かで、知り合っている筈なんです。例えば、失礼ですが、貴女は精神科の門をくぐったことはありますか」
「いいえ」
「相手の男は、そういう所に居る可能性が高いんですが」
「幸い、そういう場所に縁はございません」
亀田は暫し熟考した。
「貴女は鹿児島大学病院を受診したことはありますか。最近ですけれど」
「はい、受診しました」
「何の用件で」
「乳癌検診です」
「それは三ヶ月前ではないんですか」
「ええ、そうです」
麗奈は身体を震わせた。
「大学病院には、精神科があります。其処で出会われたのかもしれませんね。時期は一致します」
「あの、やっぱり分かりませんわ」
「自覚はないんですね」
「はい」
「と言うことなら、分かりました」
亀田はデスク上で、大型の帳面を開いた。
「それで、麗奈さん、貴女の帰宅時間は一定ですか」
「はい、大学の期末試験が終わってから、大学図書館に午後から通学しています。帰宅時間はほぼ同じですわ」
「サークルは入っておられない?」
「ええ、帰宅部です。図書館で時間を潰してから帰りますけれど」
亀田は2月の予定表に万年筆を付けた。
「そうしますと麗奈さん、これから毎日、私が貴女を遠くから尾行致します」
「結構ですわ」
「日曜日も、祝日も、ご自由に外出なさって大丈夫です。私が見張って居ります」
「あの、他のお仕事は」
「暫く、この件に専念します」
3
麗奈が街角で、コンパクトを開いた。小さな丸鏡の裡に、凍てついた街路樹が大写しになった。続いて、ふっくらと柔らかそうな唇のアップ画像。麗奈はその唇に、ローズベージュの口紅を引いた。
彼女はトレンチコートの下に、ラガーシャツと細身シルエットのチェックパンツ。ラインベルトの服装。
彼女はルージュとコンパクトを小型バッグに仕舞うと、ゆっくり歩きだした。今日は尾行者を恐れてはいなかった。尾行者を尾行する者の存在も、意識の隅にあった。
麗奈は寧ろ堂々と帰路に着いていた。昨日は相手の男は現れなかった。仕事が多忙だったのだろうか。兎も角、亀田も一日無駄足を踏んだ。
今日は現れそうな予感があった。異常者の陰湿な視線をものにしていることが、彼女の心の何処かで、僅かな快楽をもたらしていた。
彼女は素知らぬ顔で単調に歩を進めていた。難解な専門書を図書館で読んだ後の気怠さの中で、半端投げ槍な気持ちで歩いた。
其処へ、矢張り相手の男が現れた。常の如くサングラスと黒マスク姿で、麗奈の後方数メートルをつけて歩いた。男は路地裏から素速く本通りに出て来た。彼女が来る時間はいつも通りなのだ。
男から更に数メートル後方に、亀田もサングラスと野球帽姿で尾行していた。目標を見るのは、これが初めてだった。
麗奈は淡々と家路を辿る。
時刻はそろそろ夕刻6時半、闇が3人を支配し始めていた。
亀田は後ろ姿から、目標の男を注視した。髪に白いものが混じっている。予想よりも年配の男なのだった。
亀田としては漠然と、童貞の若者を想定していた。こんな大人がストーカーになるのかと訝った。
薄闇の中の、3人の奇妙な同行は続いた。何処までも果てしなく続くかと思われる程の緊張感だった。
麗奈のマンション前に着いた。
彼女は敢えて後方を振り返らず、マンション内に駆け込んだ。
男は4階の窓を見上げて、暫く路上に佇んでいた。が、次の瞬間、その向かいのマンションに入って行った。
亀田には意外な展開だった。数分待つと、麗奈の向かいのマンションの、同じく4階の窓辺に、サングラスの男が立った。亀田は凝視を外さず、男のマンションの影に身を潜めた。
麗奈は向かいのマンションに気付かないのか、緋色のカーテンを開けたままだった。
男は窓辺で、小型のビデオカメラを構えた。カメラの画像として、向かいの麗奈の部屋の一部始終が映り込んだ。
男は無表情にカメラを構えている。
麗奈は何一つ気付かないのか、ゆっくりとコートを脱いだ。続いて、ベルトを外すと、ラガーシャツをたくし上げて、頭から脱衣した。
麗奈の薄ブルーのブラが露わになった。彼女はチェックパンツも脱いで、ブラとパンティだけの下着姿になった。
ビデオカメラの撮影は飽くまで冷淡に続いている。
麗奈は下着姿の儘、奥の浴室に向かった。
男はビデオカメラを傍らに置くと、今度は一眼レフを構えた。望遠レンズを装着したカメラだった。
麗奈の妖艶な下着姿が男の眼前に迫った。浴室のドアが閉められた。
磨り硝子に、桃色の影が映り込んだ。男はズームを絞った。甘い桃色の影が大写しになった。影の妖しい蠢きを、男は凝視した。
それから、約1時間後、男はマンションの部屋から降りてきた。
男が深い闇の歩道を進む。
亀田は、尾行を再開した。
男は速歩になった。一瞬亀田は尾行に気付かれたかと思ったが、そうではなかった。
亀田はマンション近くの路上に違法駐車してあった自分の車に乗り込んだ。車のノロノロ運転で、徒歩の男を追った。亀田の予測としては、男の方も例えばタクシーを拾うなりして、車で移動を始める筈だったが、相変わらず、男は徒歩で進む。
荒田から郡元へと、そして唐湊へと。今年で閉学になるという、女子短期大学の近くまで来た。
尾行は結局全く気付かれなかったらしい。男は短期大学の校門に続く坂道にある、一つの大きなビルに入って行った。
ビルの大型の看板には、株式会社昭和科学、とあった。
ビルの前庭に、一人の警備員が立っていた。亀田は車を降りて、警備員に尋ねた。
「済みません、たった今、会社に入って行った人は何方ですか?」
警備員は苦笑して、振り向いた。
「アンタ、何を言ってるんだ。あれが社長だよ」
亀田は愕然とした。
4
亀田の事務所近くの、すき家は他の店舗のようにタッチパネル式の注文になっていない。今時旧式なと思われるが、カウンターのクルーに直接注文をアナログに頼む形になっている。更に厄介なことには、その職員はアジア系外国人で、日本語が必ずしも堪能ではなく、注文を間違うこともしばしば。変わった店だが、亀田は常連客だった。
「牛丼大盛り二つ、に温玉二つ、味噌汁二つ」
亀田は成るべく正確を期して発声し、注文した。
席では、従兄弟の安田警部補が待っていた。
「この店、相変わらずセルフサービスなのか」
警部補が問う。
「相変わらずです」
「どうして此処はタッチパネルを取り入れないんだ」
「さあ、謎です」
謎は困りものながら、流石に注文は牛丼店だけに速かった。番号を呼ばれて、二人は牛丼を取りに行った。
暫し、牛丼をかっ込む。
「で、今日はストーカーの件だったな」
「ええ、宜しく御願い致します。依頼人は生きた心地がしないんですから」
「そのストーカーは実業家なのだな」
「そうです。驚きました。大金持ちなんですよ」
「それで、逮捕してくれという訳だ」
「当たり前じゃないですか。何故警察の動きは鈍いんですか」
「昭和科学、代表取締役、山口健三、地元の名士だ」
「名士が何ですか。卑劣なストーカーですよ」
「まあ、待て。逮捕の前に、刑事を一人付けよう」
「冗談でしょう。依頼人が被害をこれ以上被ったらどうするんですか」
「有能な女性刑事を派遣する。御前の依頼人の相談にも乗ってくれる筈だ。メンタルのケアも出来る。適任だと思う。今年40歳の寺本陽子君」
「で、いつ頃逮捕して頂けるので」
「まずは警告だ。無視したら即逮捕する」
「生ぬるいです」
「山口は、依頼人の松本麗奈の私立大学にも多額の寄付をしている。少しは敬意を払え」
「無理ですね」
「まあ、そう言うな。寺本は今日中に任務に就く」
「そうですか、余り期待出来ませんが」
「此処から先は警察の管轄だ。御前は手を引け」
「そうですか、しかし気になることが」
「何だ」
「麗奈さんが先刻財布を擦られたらしいんです」
「擦りか。この件と関係あるのか」
「分かりません」
「それも調べてみる。兎に角御前は手を引け」
5
株式会社昭和科学の社長室。
頑丈な黒檀のデスクの前に、山口健三は革張りの椅子に腰を下ろしていた。と言って格別仕事に携わっている訳でもなかった。洋書の科学雑誌を開いて、英文に眼を通していた。
時折部下が経理書類を持ってくる以外に仕事らしい仕事はしない。大抵はパソコンの一太郎を開いて、英語で論文を書く毎日だ。
矢庭に、デスク上の電話が鳴った。
山口は事務的に受話器を取った。
「はい、山口だが」
「山口社長ですね。わたくし寺本陽子と申します」
妙齢の女性の声だった。
「どのようなご用件でしょう」
「私、県警の刑事です」
「刑事さんですか……」
「そうです。山口さん、警告します」
「何でしょう」
「下荒田のマンションを今直ぐ引き払ってください。これは警告なんです」
山口は首を捻った。
「何故でしょう」
「貴方のなさっていることは違法行為です。分かっていらっしゃると思いますが」
山口は椅子に座り直した。
「引き払えば、私を見逃すとでも」
「そうは参りません。貴方は女性を盗撮している」
「あのマンションに行くだけでも駄目ですか」
「貴方を逮捕します」
「逮捕ですか。顧問弁護士を呼びます」
「御随意に。ですが、マンションは直ちに引き払って頂きます」
山口は深呼吸した。
「御話は分かりました。弁護士と相談の上、充分警戒しましょう」
「山口さん、二度とあのマンションには行かないでください」
「分かりました。そう致します」
山口はコードレス受話器を持ったまま椅子を立つと、窓辺に行った。下方の駐車場に、スマホを持った女性刑事が佇んでいた。
「刑事さん、しかし、私は麗奈を愛しているんです」
「貴方には奥様がいらっしゃる」
「そういう問題ではない。分かりませんか」
「理解不能ですわ。残念ながら」
「家内が居るからこそ、麗奈に対してはこうする他ないんです」
「貴方はストーカーです」
「何とでも呼べばいい。しかし私の麗奈への愛は変わらない」
「貴方の行為は品性下劣な……」
山口は電話を切った。
その日の夜、山口は下荒田のマンションを訪れた。警告を無視した形だった。
タクシーで会社を出る際に、女性刑事の尾行に気付いたが、意に介さなかった。
マンションに着くと、山口は急いでエレベーターに乗った。4階の部屋で、一眼レフカメラの三脚を立てた。これが最後の盗撮になる筈だった。
彼女の部屋は相も変わらず、カーテンが開け放たれていた。彼女は窓辺の安楽椅子に腰掛けて、音楽を聴いているらしかった。片隅のCDプレーヤーはブルーのライトを光らせている。
「麗奈、これが最後だ」
山口はファインダーを覗き込み、言った。彼女は白いレースのネグリジェ姿だった。
「麗奈、此方を向いてくれ」
一方、寺本刑事は漸く二つのマンションの間に車を停めた。ふと自分のスマホを見た。ボタンを押してもネットゲームの広告が全画面で流れるばかり。彼女は舌打ちした。こんな時に、ウイルス感染したらしい。寺本は携帯を投げ捨て、車を降りた。
寺本は全力で駆けた。
山口のマンションに入り、エレベーターに飛び乗った。4階のボタンを押す。
山口の部屋の前まで来た。
ドアの呼び鈴を鳴らした。
応答がないので、刑事はドアを全力で叩いた。
次の刹那、ドアが内側から開けられた。
「山口さん、確かに警告しましたよね。此方には来るなと」
「貴女が寺本という刑事さんか。入りたまえ」
寺本は拳銃を抜いて構え、部屋に入った。
「動かないで」
山口は手を挙げた。
「待ってくれ。危害は加えない。銃を下ろしてくれないか」
丁度その折りだった。
真向かいの麗奈の部屋で、動きがあった。部屋の奥から唐突に、黒覆面を被った賊が現れた。玄関の鍵を持っていたのか、音もなく闖入してきた。
麗奈は悲鳴を挙げたらしかった。彼女は椅子から立ち上がった。
黒覆面の賊は右手を振り翳した。
その手には銀色のナイフが握られていた。ナイフが彼女の肩に振り下ろされた。
彼女は反転して窓辺を向いた。
寺本刑事は向かいの部屋の強行に愕然としたが、次の瞬間、素速く一眼レフカメラのシャッターを押した。
「カメラに触るな」
山口が背後から寺本を羽交い締めにした。
寺本刑事は柔道の技で山口を投げた。山口の手首に手錠を掛けた。
向かいの部屋で、賊が後方から彼女の背中を刺した。彼女は床に倒れ込んだ。床に倒れると、向かいの部屋の視界から外れた。
殺人者はその上から、ナイフを振り下ろした。
寺本刑事は、向かいの部屋の惨劇を注視しつつ、山口を後ろ手に両手を手錠で拘束した。
向かいの麗奈の部屋で、殺人者が緋色のカーテンを閉めた。
寺本刑事は再三舌打ちした。こんな時に限って、携帯が使えない。覆面パトカーに戻って、無線でこの一部始終を通報しなければならなかった。
6
県庁に隣接する県警本部。その見るからに頑丈な建物の前に、亀田は自分の古めかしい中古車を停車していた。
亀田は運転席でガムを噛みながら従兄弟を待っていた。程なくして、安田警部補が現れた。きびきびした挙措で助手席に乗り込んだ。
「さて、叔父さん。まだ捜査中ですね」
「捜査は始まったばかりだ」
「では機密情報の横流しを御願い致します」
「御前な、冗談にならないぞ」
亀田は苦笑した。
「此処の県警、情報漏洩で問題を起こしたばかりでしたね」
「そうだ、簡単に情報は与えられない」
「私達の間でもですか。いつもギブアンドテイクですが」
「其方からも有益な情報があるのか」
「あるかもしれません」
「そうか、では伝えるべき話は5点だ」
「伺いましょう」
「第一に、麗奈は財布を擦られていたが、部屋の鍵も盗られていた」
「そうですか」
「鍵交換は間に合わなかった」
「残念至極です」
「第二に、山口は麗奈と微妙な関係にあった」
「どういう事情ですが」
「うむ」
警部補は頷いた。
「一年前、山口の娘、さゆりが自殺していた。自殺の原因はどうやら、麗奈らしい」
「何ですって」
「驚きだろう。さゆりの恋した男は、麗奈の恋人だった。さゆりは失恋を苦にして自殺した」
「確かに驚きですね」
「ああ、麗奈はその男とは既に別れている」
「なる程」
「第三に、山口は麗奈の向かいのマンションの部屋を、三ヶ月前から手付けを打って確保していた」
「それも、なる程です」
「第四に、山口は警察上層部に圧力をかけていた。奴の逮捕を止めて、女性刑事を派遣したのは奴からの要請だった」
「それも、かなりの驚きですね」
「そうだろう。第五に、寺本刑事のスマホはウイルス感染していた」
亀田は熟考の表情に変わった。
「その全てに、何か繋がりがありそうですね」
「そう思うか。嗚呼、第六がある。寺本刑事は山口のカメラを使って、向かいの部屋から、殺害現場の写真を撮っていた」
「それは興味があります。是非引き伸ばして、私にも写真をください」
「そうはいかん。で、御前からの情報は?」
「そうですね……」
亀田は暫し考えた。
「情報ではなく、質問が2点あります」
「言ってみろ」
「第一に、昭和科学の会社のトラック運転手が当日、無断欠勤していなかったか」
「妙な質問だな」
「運転手は買収されているかもしれません」
「一体誰にだ」
「追々分かってくると思います」
「そうか、では第二は?」
「昭和科学の社員に、最近急遽退職した者は居るか?」
「それも奇妙な質問だ」
「其方の捜査を宜しくお願い致します」
それから、早一ヶ月が経過した。
季節は極寒から着実に春へと向かっていた。県警は漸く、ストーカー殺人事件の収束を宣言し得ていた。亀田は無論のこと捜査の蚊帳の外、二軍にも入れない単なる外野として、事件に関しては悶々と過ごした。麗奈の父親から引き続きの依頼、ストーカー調査から殺人事件調査を請け負っていたが、格別単独で為し得ることはなかった。
というより、事件自体は県警が珍しく急転直下の解明を見せていたのである。亀田が警部補に発案した、二つの質問が案外の早期解決に寄与したのだった。
春の今宵は、亀田が安田警部補を事務所に招待した。事件について、ゆっくり語り合いたいと、レミーを二本準備した。
宵の口から、亀田はbgmに常の如くヘヴィメタルを掛けたいと申し出たが、警部補に断られ、渋々オペラのCDを掛けることにした。オペラと言っても、ロジャーウォータースのCA IRAだった。
「叔父さんと呑むのも久しぶりですね」
「そうだな、今夜は和もうじゃないか」
「和むのも結構ですが、事件の話を聞かせてください」
「全くな、御前には気の毒だが全て事後報告になる」
「構いませんよ。私は元々主役の柄じゃないから」
「何処から話すべきかな。そうだな、矢張りかなり難易度の高い不可能犯罪という能書きからだろうか」
「本当に不可能犯罪ですよね」
「そうだ、何しろ殺人事件の目撃者が如何にして、距離のある向かいの部屋で犯行可能かという問題だ」
「目撃する地点と、犯行現場、両方に生身の人間が存在することが可能かということですよね」
「そうなるな。これは謂わば究極のアリバイ工作だ。犯人はこのアリバイを強固なものにするために、同行する目撃者に警察官を選んだ」
「しかも、体力的に劣ると思ったのか、女性刑事を指名した訳だ」
「実際、女性刑事は体力的に劣ることはなかった。そもそも、何故こんな工作が必要だったかと言うと、普通に殺害したのでは、動機の点から確実に第一に嫌疑をかけられる容疑者になってしまうからだった。思い切ったアリバイ工作がどうしても必要だったのだ」
「犯人は刑事のスマホにウイルス感染を仕掛けた。科学者の犯人にはそれは容易いことですね」
「嗚呼、何故スマホを潰す必要があったかというと、向かいの部屋から犯行現場をスマホで撮影されては困るからだった。しかし犯人の誤算は、部屋に元々あったカメラで、犯行現場を撮影されてしまったことだった。女性刑事の咄嗟の機転が事件解決の大きな糸口になった。女性の力を甘く見ていたのだろう。可哀想な奴だ」
安田警部補はポケットから、ナイフを取り出した。
「これはこういう玩具だ」
警部補は自分の手首を刺した。血一つ出なかった。
「こんな風に、押さえると、刃の部分が柄の中にのめり込む。傍目には刺しているように見える。ましてや、距離のある向かいの部屋から見ていたら、本当に刺しているように見えたことだろう」
「面白い玩具ですね」
「女性刑事が咄嗟に撮影した現場写真がこの計画犯罪を覆してしまった。写真に写っていたロングヘアの女性は、麗奈とは別人だった。警察としても最初は訳が分からなかった。しかし間違いない。山口と刑事が目撃した犯行は、擬似殺人、単なる御芝居だった。本当の麗奈殺害は、それより二時間前に起きていて、麗奈は始めから床に死体となって倒れていた。向かいの部屋からは死角になって、床の上は見えない。一枚の写真がそれを暴露した。あと、御前の意味深な質問だが、昭和科学のトラック運転手は確かに欠勤していた。彼は多額の金で買収されていたが、我々が吐かせた。彼の代わりに、社長の山口がトラックに乗って出て行き、また戻ってきた。運転手の変装をして、張り込みの刑事の目を逃れた。麗奈のマンションに行ったのだ。また、最近急遽退職した男女の社員は居た。彼ら二人がこの擬似殺人の犯行を演じたのだ。現場写真の女性は確かにその社員だった。彼らも多額の金で買収され、犯行に加担した。金持ちだからこそ為し得る犯行だった訳だ。その二人は一昨日北海道で逮捕された。さて……他に何か言い残しているかな。そうだ、プロの擦りも買収されていた」
「犯人の山口の抱いていたジレンマについては」
「嗚呼、山口は麗奈を娘の仇と憎悪していたが、同時に歪んだ恋愛感情も本物だったらしい。山口は事実、ストーカーとして麗奈を偏愛していた。だから殺したことが、死ぬ程苦しかったと供述している」
「なる程、そうだったんですね。叔父さん、今夜は呑みましょう」

