「翔先輩! 腹筋はあごがひざまでついて1回ですよ!」
「う、うう……朝井さん、もうダメ……」
「強くなりたいんですよね翔先輩! ほら! あと5回!」


 あたしがげきを飛ばしても、翔先輩の頭はなかなか上がらない。
 なぜか反動で翔先輩の足が動こうとするが、そこはあたしが腕でがっちり抑え込んでいる。


「はい! もうちょっと! OK! あと4回!」


 ここは昨日あたしが翔先輩を自転車の後ろに乗せて逃げ込んだ公園。
 保育園の子たちが遊びながら、ベンチに寝て時々ゆっくり腹筋をする翔先輩と、そこに声を飛ばすあたしに不思議な目を向ける。


 でも確かに、公園のベンチで腹筋する中学生男女なんて、大人が見ても物珍しいかな。



「その、朝井さん、せめて大声はやめてくれないかな」
「何言ってんですか! 甘えたこと言わないでください!」


 翔先輩よ、無理は言わないでもらいたい。
 これでも、ヤクザ口調が出ないように頑張ってセーブしているのだ。


 さっそく今日から特訓してほしい、と翔先輩に言われはしたが、あたしは特訓の仕方なんて知らない。
 だからとりあえず、組の若い人たちが毎朝やってる腹筋や腕立て伏せなんかをやらせようとしたけど……


 入院生活が長かった翔先輩の身体は、予想以上に動かなかった。


 あたしは中学受験することを決めてからそういう身体を動かす習慣はバッサリ止めたけど、それでも翔先輩が1回腹筋する間に5回はできるぐらいの自信はある。


 身体が動かない人というのは、本当に動かないものなのだと実感する。



「修先輩が帰ってくるまでの間、総長の座をちゃんと守るんでしょう! そのために強くなるんでしょう!」
 かといって、頼まれたものを断るわけにはいかない。
 翔先輩のひざを抑えるあたしの腕に、思わず力が入る。


「痛い、痛い! 朝井さん痛い!」


 おっと。
 あたしが力を抜くと、翔先輩の足が勢いで右に跳ねる。


 そのままベンチから転げ落ちる翔先輩の身体。


「痛あ!」
「もう……ほら、起きてください」
 あたしは苦痛の表情を浮かべる翔先輩の身体を起こし、またベンチに座らせる。


「翔先輩から特訓してほしいって言い出したんですからね。泣き言は無しですよ」
「うう、わかってるよ」


 シュンとしてしまう翔先輩。


 学校の他の生徒が――普段総長として振る舞う翔先輩しか見てない人が、こんな姿を想像できるだろうか?


 誰にも見せない秘密の顔、と考えると少し気分は良いけれど、イメージを壊してしまうのは確かだ。


 そして、イメージを壊すのが嫌だから、翔先輩は強くなりたいと覚悟を決めた。
 その覚悟が伝わったから、あたしはこれを引き受けたんだ。そう思い、気を引き締める。



「そうだ、ついでに聞いていいですか」
「何? 朝井さん」
「今日の昼休み……どうしてあのときだけ、その……名前で呼んだんですか?」



 どさくさ紛れに、あたしは聞いてみる。


 なんで。
 なんであのシチュエーションで、鈴菜なんて名前で呼んだんだ。
 あれじゃあ本当に少女漫画である。


 あたしが目標とする、かわいい女子の憧れではあるかもだが、そうだとしても突然すぎる。
 翔先輩と会って、まだ2日だぞ?



「ああ……あの方が、かっこいいだろ?」
「え?」


 翔先輩があたしの方を向く。
 その顔はまた普段学校で見せる顔。キリッとした総長の顔。


「あれは、そう、周りへのアピールだよ。総長たるもの、常にかっこよくないといけないから」


 翔先輩が、また笑顔になる。


 その笑顔だけで、十分かっこいいのに……



「わかりました。じゃあ総長たるもの、常に強くないといけないことも、翔先輩はわかってますよね」


 あたしは、翔先輩の足をまた抱えるふりをして、目を逸らした。


 高鳴った心臓と、熱くなった顔を見られたく、なかった。



 無理だって。翔先輩ぐらいかっこよくて、覚悟ある人に、あんなこと言われたら、動揺せずにはいられない。



「さあ! 腹筋あと4回! その後は腕立て10回! スクワット10回!」


 すべて吹き飛ばすような大声を、あたしは翔先輩にぶつけた。




 ***




 その日から、あたしと翔先輩の特訓が始まった。


 朝は翔先輩のアパートの前で出迎えて、学校の手前までランニング。
 あたしは転びそうなぐらいゆっくり自転車をこいで翔先輩の速さに合わせる。それでも翔先輩は100mも行くと、もうつらそうな顔。
 本当は学校まで走らせたいところだが、朝からへとへとになっている総長なんて不自然すぎるので周りに他の生徒が見えてきたところでおしまい。


「途中休憩無しなんて、朝井さん、厳しすぎるよ」
 そんなことを言う翔先輩だが、歩いている間に顔が整っていく。


「おはようすばる」
「きゃー! 翔先輩と星川先輩よ!」
「今日もかっこいい……」
 そして学校に着く頃には、すっかり『紅桜』の総長。道の向こうから来た星川先輩に手を振って、にっこり笑顔。
 これも総長としての周りへのアピールなのだろうか。翔先輩なりの努力なのだろうか。
 そう思うと、余計に笑顔がかっこよく思える。



「それじゃあ朝井さん、また昼休みにでも」
 あたしが翔先輩と別れて教室へ入ると、響子ちゃん始め女子たちに囲まれる。


「ねえ! 今日は翔先輩とどんな話したの!」
「何も無いよ。あくまであたしは翔先輩の使いっ走りだもの」
「でも、翔先輩から壁ドンされたって聞いたよ!」
「あれは無理やりだし……」


 あくまであたしは、翔先輩に守られる代わりにこき使われている、という設定。仕方なく一緒にいるのだ。
 毎日それを言って、響子ちゃんたちももうわかってるはずなのに、あたしへの翔先輩関連の質問は止まらない。


 それだけ、翔先輩へのみんなの関心が強いということなんだ。
 翔先輩が『紅桜』の総長だから。あれだけのイケメンで、たくさんの武勇伝があるから。


 武勇伝を疑ってる子は、全くいない。
 翔先輩が、総長として堂々と振る舞ってるから。
 その頑張りは、素直に尊敬してしまう。



「朝井さん、中庭の自販機でコーラ買ってきて」
 昼休みになると、設定を守るためにあたしは翔先輩から命令される。
 総長は人の上に立つものだから、こうして人を使ってこそ総長。
 それもあるし、『紅桜』のメンバーでもないあたしが翔先輩の近くにただいるだけというのは、周りから見るととても怪しい。
 星川先輩や、翔先輩に視線を向ける女子たちの目をごまかすためには、行動で示すしかないのだ。


 だから、あたしは翔先輩に言われると、なるべく急いで自販機のところまで行き、お金を入れて、ペットボトルのコーラを買って戻って来る。
「翔先輩、こちらお望みの品になります」
 父さんの世話をする若い組員のごとく、頭を下げてペットボトルを差し出す。


 と、翔先輩はあたしの差し出したコーラではなく、コーラを持つあたしの右手首をつかんだ。
 そして椅子から立ち上がり、あたしの耳元にそっと顔を近づける。


 
「いつもありがとうな、鈴菜」



 !?


 その一瞬で、あたしは固まってしまう。
 翔先輩は小声で言ったけど、声が聞こえた周りの女子たちから黄色い声が上がる。


 それを聞きながら翔先輩はあたしの手からコーラを取り、ゆっくりとキャップを回して飲む。


「ったく、翔は朝井をどうしたいんだよ」
「どうって……オレのために色々してくれてるんだから、感謝はして当然じゃないか」
「いやまあ、そうなんだけどさ」
 隣では、翔先輩に軽くあしらわれた星川先輩が、あたしをじろりとにらみつけている。


 不満そうな顔をしないでください、星川先輩。
 困惑してるのは、あたしもなんです。