「はあはあ……先輩、ここまでくれば大丈夫なんで。一旦ベンチに座って……」
近所の保育園の子が遊んでいるだけの小さな公園で、あたしはペダルをこぐ足を止める。
翔先輩は止まった自転車からゆっくりと降り、足を引きずりながらベンチに腰を下ろした。
「ありがとう……ところで、君」
翔先輩に口止めしたらとっとと去ろう。
そう思って口を開いたあたしよりも早く、翔先輩が話し出す。
「どうして、オレを助けてくれたんだ?」
「えっと……」
昔どこかで会った気がするから?
そうなのかもしれないけど、そんなあやふやで答える気にはなれない。
「――紅陽のカバンが見えたので、つい。あたしの家、このあたりなんです。それで、あたしの住んでる街で不良に好き放題されるのは、その、気に食わなかったというか」
これは、うそではない。
あたしじゃなくたって、気分は良くないだろう。
ただそれよりも、『かわいい女子を目指す』のほうが、自分の中での優先順位は上だと思っていたのだけども。
「そうか。やっぱり君はかっこいい! 決めた!」
翔先輩は声を大きくすると、座っているベンチの隣をポンポンと叩いた。
えっ、座れってこと?
翔先輩は、まだ傷だらけの顔で、まっすぐにあたしを見つめてくる。
血がにじんでいても、顔が良すぎる。
あたしの足は、断りきれず翔先輩の隣へ。
「君、新入生だよね。名前は?」
「朝井 鈴菜です」
「わかった。朝井さん、オレのボディーガード兼特訓相手になってほしい」
――は?
「はああ!?」
思わず出てしまったあたしの大声に、遊んでいた子たちがビクッとなる。
「なんですかそれ? そもそも総長のボディーガードなんていったいどういう」
いや待てよ。
正直、さっきの不良たちは高校生ではあったけども、全然強くはなかった。
翔先輩が本当に10人を無傷で倒したり、銀行強盗を返り討ちにするような人なら、あたしよりも速く倒せてるだろう。
でも目の前の翔先輩は、その不良たちになすすべなくやられていた。
ということは。
「もしかして、翔先輩の武勇伝って……全部うそ?」
「そうだよ。あれは全部、修の話だ」
「修?」
「日暮 修。オレの双子の兄。強いのは修だけ。オレは……ケンカなんて全然できない、弱い男だよ」
翔先輩の顔が、わずかに暗くなる。
「でもそしたら、なんで総長に」
「それも本当は修がなる、予定だったんだよ」
「じゃあ、その修先輩は」
「新学期が始まった日に、トラックにはねられた。当分、入院生活だ」
とすると、翔先輩は、修先輩の代わりに、総長になったってこと?
「それなら、辞退すればいいじゃないですか。『自分は強くありません、だから他の人を総長に指名してください』って」
それとも、それを許さないほどに、先輩からの指名は絶対なのだろうか。
本物のヤクザでもあるまいし。
でも、翔先輩の話してくれた理由は、あたしの想像の斜め上を行っていた。
「それはできない。先輩たちは、オレのことを修だと思ってるから」
聞くと、翔先輩は生まれつき心臓が弱く、幼少期から入院を何度もしていたらしい。
紅陽学園に入ったのも、日暮家の親戚と学校関係者に繋がりがあって、翔先輩の事情を考慮してくれることになったからだそうだ。
実際、翔先輩は入学して以降ほとんど教室に来ていないから、修先輩に双子の弟がいるということを知らない生徒の方がほとんど。昨年末に大きな手術をして、ようやく3年生になった新年度から普通に教室登校できるまで回復したらしい。
その状況で、修先輩が総長に指名された。
ところが、その直後に修先輩は交通事故で入院することに。
そしてタイミング悪く、ちょうど入れ替わりで翔先輩が登校してきたのだ。
「修! 事故ったって言うから心配したけど、普通に元気じゃねえか!」
「さすが総長、車とぶつかったぐらいじゃあびくともしねえ!」
初めて登校した翔先輩は、そう言って出迎えられたという。
その圧に本当のことを言い出せず、ズルズルと今日まで来てしまった。
その上、なぜか翔先輩が総長に選ばれたことになり、さらに今まで修先輩の話だったはずの武勇伝が総長指名のうわさとつながって、翔先輩の武勇伝が広まってしまったのだ。
「……いや本当ですかそれ?」
一通り聞いて、あたしは首をかしげる。
翔先輩と修先輩は一卵性だけあって、顔もかなり似ているらしい。
だから間違われるのは仕方ない、と翔先輩は言う。
けどそれだと、先輩たちは修先輩を総長に指名したのに、実際は翔先輩が指名されているうわさが広まっているわけで、誰か変に思ってたりしないのだろうか?
「実際オレも説明したよ。オレは修じゃないって。でも『そうだとしても、修の弟なんだからお前も強いんだろう』って聞かなくて」
うーん。
とにかく、本当の翔先輩は今も定期的な通院が必須なぐらいには弱い身体だというのに、数々の武勇伝を持つケンカ強者の総長と思われているのだ。学園の先輩からも後輩からも。
「だから朝井さん、君にはオレのボディーガード兼特訓相手になってほしいんだ」
ようやく事態が飲み込めた。
ボディーガードというのはつまり、翔先輩が今日みたいなことになったときに助けてほしい、ということなんだ。
「でもそれって、別にあたしじゃなくてもいいですよね。例えば、星川先輩とか」
副長の星川先輩なら、総長を守るのはごく自然な動きのような気がする。
「ダメだ。オレが本当は弱いって知ってないと、もしものときに不審に思われる」
なるほど。確かにボディーガードなら、守る対象の実力を把握しておくのは必須だ。
ケンカ慣れしてない人としてる人では、守る側の動きも全然違ってくる。
そして翔先輩が知る限り、先輩が弱いと知っているのは現状あたしだけ。
「それに、強い朝井さんには、オレが強くなる助けもしてもらいたいんだ」
強くなる助け?
「修が戻って来るまでは、オレが総長だから。修ぐらいにはなれなくても、少しでも強くなりたいんだ」
「でも、病気がまだ完全に治ったわけでは」
「もともとお医者さんからはリハビリも兼ねて無理せず身体を動かすように言われてるんだ。それをちょっときつくするだけさ」
そう言って、翔先輩はボロボロの手で、あたしの手を握る。
握られてるとは思えないほど、力が伝わってこない。
「朝井さん、お願い。これは君にしか頼めないんだよ」
まっすぐ見つめられる。
登校するようになってから、黄色い声をキャーキャー浴びまくったであろう整った顔。
そのキリッとした瞳に、あたしはハッとした。
あたしも何回か見たことあるからわかる。
これは、覚悟を決めた男の目だ。
修先輩が帰って来るまでは、自分が総長の立場を守る。
指名した先輩たちや、自分のことを見てくれる他の生徒のことを裏切りたくない。
そのためなら、特訓だってする。
――そう言ってるように、あたしには見えた。
そしてその想いに、あたしの心が高鳴る。
覚悟を見せられて応じないことなんて、できるはずがない。
「わかりました。その代わり、条件があります」
「条件?」
あたしは、翔先輩を見返す。
傷だらけでも、やっぱりめちゃくちゃかっこいい。思わず心臓の音が大きくなる。
響子ちゃんが直視できないのも、ちょっとわかる。
けど、それでもこれを言わないわけにはいかない。
「あたしが本当はケンカできるってことは、絶対に秘密です。今日起こったことは、誰にも話してはいけません」
あたしの目標は、普通のかわいい女子になること。頑張って中学受験して紅陽に入ったのも、全てはそのため。
不良高校生を1人で撃退する子、なんてうわさが広まってしまったら、今までの頑張りがすべて水の泡。絶対にそんなことを許してはいけない。
「わかった。オレも朝井さんに秘密を守ってもらう立場だからね。そこはおあいこというわけだ」
「はい。よろしくお願いします」
「でもそうかあ。あのかっこいい朝井さんを見られるのは、オレだけってことか」
!?
やっぱり、翔先輩あたしのことをかっこいいって言った?
さっきは聞き間違いかなと思ったけど、今度ははっきり聞こえた。
「かっこいいなんてそんな」
「いやいや。朝井さんの強さがうらやましいよ」
そう言う翔先輩の笑顔が、まぶしい。
だけど、どうして。
「翔先輩は、怖くないんですか?」
「何が?」
「あたし、女子ですよ?」
すずちゃんが、怖い。
かつて言われたその言葉が頭の中を回りだす。
あのときあたしは学んだのだ。力を見せるのは男の仕事。女子が強さを見せても、変に思われるだけ。
――好きだった子に、想いを言えずに終わるだけ……
「いやいや。女子でも男子でも関係ない。朝井さんは強い。そしてオレを助けてくれた。だからかっこいい。それだけだよ」
でも。
その翔先輩のまっすぐな目は、とても適当なことを言ってるようには思えなかった。
あたしが、かっこいい?