「翔先輩、大丈夫でした!?」


 診察室からふらふらと出てきた翔先輩を、あたしは立ち上がって支える。


「ああ、問題ないらしいけど、一応検査してもらった。結果が出るまで、少し待機だ」

 小声でそう言いながら、待合スペースの手近な長椅子に翔先輩は腰を下ろす。


 あたしとの特訓中ずっときつそうだった顔は、すっかり学校で見るイケメン顔に戻った。

 もうあたしに殴る蹴るされた挙げ句、小学生の投げた野球ボールが後頭部に直撃して気絶していた人の顔なんかではない。

 ここは病院だけど、翔先輩の周りだけ少し空気が明るい、気がする。


「改めて、病院まで連れてきてくれてありがとう」
 あたしの方を見て笑顔になる翔先輩。


 本当にもう痛みは無いのか、と言おうとしたけど、翔先輩の笑顔を見たらその言葉は吹き飛んだ。


 やっぱりこの顔には、魅力があるんだ。



 ***



「……先輩! 先輩!」


 ――少し前、野球ボールの直撃を受けて動かなくなった翔先輩を、あたしは病院に連れていくことにした。
 実は特訓を始めた当初から、翔先輩に言われていたのだ。


「もしオレがやばくなったら、駅前の病院へ連れて行ってほしい」

 そこはずっと翔先輩が入院していた病院で、今も通院をしているからお医者さんも自分のことを良く知っている、のだという。


 公園からは歩いていける距離だ。それでも一応救急車を呼んだほうが良いのか、それともあたしが翔先輩をおぶっていった方が早いのか……と、あたしが一瞬悩んだときだった。



「ううん……痛っ……」
「翔先輩!」


 翔先輩が身体を起こす。


「おかしいな……鈴菜は目の前なのに……後ろから殴られたような……」

 そう言いながら、身体を支える手に力が入らず、ゴロンとなって今度はあおむけになる翔先輩。


「翔先輩大丈夫ですか!」
「ああ、うん、さすがに今のは効いたよ……」
「効いたってレベルじゃないです! 翔先輩、病院行きますよ!」


 これで翔先輩の身体に何かあったら。
 その責任は、絶対あたしにある。


 もし、翔先輩がもう特訓なんてできないような状況になったら、それはあたしが翔先輩の覚悟に応えてやれなかったということ。
 それだけは絶対にダメだ。翔先輩の大事な覚悟を知っている人間として、ダメだ。

 翔先輩が病院を嫌がったとしても、引っ張ってでも連れて行ってやる。



「鈴菜がそこまで言うのなら、じゃあ……」

 って、あれ。
 翔先輩は、病院行きをあっさり受け入れて、翔先輩を立たせるあたしの動きに身を任せた。



 急に素直になるなんて、ずるくないです?


「……翔先輩、歩けますか? 肩貸しますね」


 まあでも、翔先輩の身体が動くなら病院に連れて行くのは楽だ。
 あたしは右手で翔先輩の身体を後ろから支える。

 
 自然と、2人の脇の下同士がくっつく格好になる。




 ……ええい! 静まれあたしの心臓!
 ドキドキしているのが翔先輩に丸わかりでしょ!


 あたしも翔先輩との特訓で少しばかり体力を使っているとはいえ、どうしてこんなに!


 翔先輩の顔が間近にあるからなのか?
 しれっとさっきから翔先輩があたしを名前呼びしているからなのか?




「どうした、鈴菜。……顔が赤いぞ?」

 それ多分、翔先輩のせいです!




 ――というわけで、翔先輩を病院へ連れていき、診察室まで運び、その診察が終わって翔先輩が戻ってきた、のが今だ。

 笑顔になった翔先輩を見ると、また心臓の音が大きくなる。
 さっき歩いているときの、間近にあった翔先輩の顔が思い出される。



「翔先輩の病気って、今はどんな感じなんですか?」
 あたしはなんとなく聞いてみる。

 ……何か話していないと、落ち着けないような気がするのだ。


「激しい運動さえしなければ大丈夫、ってお医者さんからは言われてる」
「それって、最近になって回復したんです?」
「うん。今年の2月までは入院してたし。一応オレ、リハビリも結構頑張ったんだ」


 リハビリ、組の人がやってたのを見たことがある。
 あれ、人によってはかなり大変だった気が……


「もしかして、新学期に間に合わせるために」
「そうそう。本当は修と一緒に登校したかったんだけど」

 そこで、翔先輩が少し遠い目をしたように見えた。



 修先輩。本来『紅桜』総長の座を担うはずだった、翔先輩の双子の兄。

 やっぱり、仲いいんだろうな。あとイケメンなんだろうな。


 きっと2人で登校したら、女子たちの黄色い声はもっと大きくなっているはず。


 それにその場合、あたしが翔先輩と知り合えることはない。

 だって翔先輩がやられそうになっても、修先輩が守ってくれる。
 翔先輩にとっては、誰よりも安心できるボディーガード。



 修先輩、ずるいな。
 翔先輩がもし強くなりたいと願った場合でも、それに付き合えるのは本来修先輩なわけだし。


「それ見たかったです。修先輩って強いんですよね? やっぱり体格も良いんですか?」
「まあね。小6になった頃ぐらいに、急に筋トレとかに目覚めたんだよ修は。元々運動神経良かったけど、腕っぷしとか磨き始めたのはそれからかな」

 翔先輩たち兄弟が小6ってことは、3年前か。そこからトレーニングとかして、総長に選ばれるぐらいの強さになったとしたら普通にすごい。


 翔先輩は総長の座を守るため、あたしとの特訓を志望したけど、修先輩にも何か理由があったのだろうか。

「急に筋トレに?」
「そうだよ。『オレ、最近鍛え始めたんだ。強くなりたくなって』とか言って、病院のベッドで寝てるオレの前で力こぶ作ってさ」


 じゃあ、何かそこのきっかけが無かったら、修先輩が強くなることもなくて、そしたら修先輩が総長に選ばれることもなくなって……どうなってたんだ?

 そしたら、あたしと翔先輩との関係は?



 ん、あたし何を気にしてるんだ?

 多分その場合、あたしと翔先輩は出会わない。
 翔先輩はあのイケメンっぷりだから、総長とか関係なく女子からの黄色い声を集めるだろう。
 あたしはあたしで、当初の計画通り、かわいい女子を目指す学校生活を送ることになる。それだけだ。


 少なくともあたしは、そっちのほうが予定通りで良いのではないか?



 でも、それだと今、翔先輩の隣にあたしがいることはない。
 翔先輩が覚悟を決め、それをあたしが知ることもない。



「……うん、どうしたの朝井さん?」
「え?」
「いや、何か考え事してない?」


 え。
 はっとして、そこで翔先輩とまた目が合う。


 特に意味もなく、見つめ合ってしまう。
 時が止まったかのように、あたしと翔先輩の周りだけが静かになったような、気がする。



 この時間も、翔先輩と出会えなかったら無いんだ。
 修先輩が総長に指名されてなかったら。修先輩が登校できない状態になってなかったら。
 あるいは翔先輩が、あのとき不良たちに襲われてなかったら。あたしがたまたま通りかかってなかったら。



 そう考えると、あたしが翔先輩のあの覚悟を持った決意を知ることができたのは、すごい偶然なんだ。


「あ、もしかして、修のことが気になってる?」
「はい?」
「だったら、修に会わないか?」


 え?