矢吹くんと付き合い始めてから2週間。

私たちは毎日、朝と夕方の2回は顔を合わせている。

…だけど。

「さすがに進展なさすぎじゃない?!」

思わず声に出して言ってしまった。隣の家には矢吹くんがいるかもしれないのに…

でも実際、その通りなのだ。矢吹くんは付き合ってからというもの、手を繋ぐことは増えてもそれより先に進んでくれない。

「…もっとくっつきたいんですけど…」

自分からぽろりとこぼれた本音にびっくりする。

わかる。鏡を見なくても、今の私の顔が真っ赤なのがわかる。

だってだって!

付き合ってすぐの恋人ってもっとイチャイチャするんじゃないの?!

もっと、こう、もっとさぁ…!

枕に顔をうずめて、うーっと唸る。

矢吹くんにはこんなこと言えない。きっと引かれてしまうから。

ピロン。

「…ん?」

通知は矢吹くんからだった。

【妃奈、今何してる?】

ぼぼぼっと顔が赤くなる。矢吹くんのことを考えてましたなんて…言えない!

【何もしてなかったよ〜】

短い文章を打って、携帯を伏せる。

…矢吹くんは、大人だからな。

きっと私みたいな子供っぽい考えはないはず。

ピロン。

【じゃあ電話する?】

ん?矢吹くんと電話…?

【いいけど、矢吹くん今家でしょ?】

【そうだけど?】

【直接会って話せばいいんじゃない?】

【妃奈はわかってないな】

そのあと、白いひつじがはぁ、とため息をついてやれやれといったように首を振っているスタンプが送られてきた。

ポロポロポロポロン。ポロポロポロポロン。

次の瞬間、聞き慣れた着信音が聞こえたものだから私は変な声を出してしまった。今の、矢吹くんに聞こえてないよね…?

「はいっ、もしもし!」

電話をかけてきたのはもちろん矢吹くん。
慌てて出たので声が裏返ってしまった。
すると、矢吹くんが電話の向こう側でくっ、と笑う音がした。

「妃奈、元気すぎ。声、窓のほうから聞こえる」

「…矢吹くんがいきなりかけてくるからだよ…」

「そっか。ごめんごめん」

矢吹くんは声が震えている。さてはまだ笑ってるな?

「もう!あんまり笑うなら切るよ?!」

「うおっ、待って待って。ごめんもう笑わない」

「言ったからね」

「言った。笑わないから切らないで」

はあ、とため息をついてみせる。矢吹くんの焦りようは本物に思えたので、電話は切らないでおく。

「電話したのは、これ」

これ、と言われても。私が頭にハテナマークを浮かべていると、コンコンと隣の窓から音が聞こえた。

私が薄いカーテンを開けると、そこにはにっこりと笑った矢吹くんがいた。

「何それ?」

矢吹くんは、手にノートを持っていた。男の子にしてはきれいな字でびっしりと何かが書かれている。

「さあ、何でしょう?」

「ええ、わからないよ…ヒントは?」

「妃奈」

「はい」

呼ばれたと思ったので素直に返事をすると、矢吹くんは横を向いて吹き出した。

「ちょっと!笑わないって言ったよね?」

「いや、でも今のは不可抗力でしょ」

「なんでよ」

「僕はたしかに妃奈、って言ったけど、それは『ヒントは妃奈』って意味だったんだよ」

かあっと顔が赤くなるのがわかる。今日何回目だ?

「そ、それならそうと言ってよ!無駄に怒っちゃったじゃん…」

「ごめんごめん。では改めまして」

矢吹くんがわざとらしくコホン、と咳をする。

「ヒントは『妃奈』です。さあ何でしょう?」

「うーん…わからない…」

「まあ無理だよね」

…じゃあ問題にしないでよ、と心の中でツッコミを入れる。

「答え、教えて」

「正解は」

矢吹くんがそう言ってノートをこちらにずいっと近づける。

「『妃奈とやりたいことリスト』でした!」

「………」

「あれ?妃奈?おーい」

「ちょっとごめん一旦タイム」

そう言ってカーテンをシャッと閉める。携帯をタップしてマイクをオフに。

「…可愛すぎるでしょーっ!」

私は枕に向かって本日2度目の叫びを放った。
もちろん、極小の声で。

枕を抱きしめてジタバタと暴れる。無理。可愛すぎる。やりたいことリスト?何それ。あのかっこいい矢吹くんが?何それ…!

ひとしきり悶えると、カーテン越しに慌てふためいているであろう矢吹くんのことを思い出した。

再びカーテンを開ける。携帯のミュートを解除して、耳にあてる。

「…ごめん矢吹くん、おまたせ」

きっとまだ私の顔はにやけている。仕方ない、私の彼氏が可愛すぎるんだもん…!

「妃奈、大丈夫?ごめん、気持ち悪かった…?」

「ううん!ぜーんぜん!」

「そっか、それならよかった」

「それ、よく見せて」

「もちろん」

ノートに書かれた文には番号がふられており、それは1ページ目だけで26個もあった。

「おお…これいつ書いたの?」

「えっ?あっそれは…秘密」

「?」

「言いたくない…かっこ悪いから」

「そう?わかった。無理には聞かない」

「ありがとう」

矢吹くんはちょっと気まずそうに下を向いた。私は矢吹くんのこの仕草の意味を知っている。何か隠したいことがあるときだ。高校の同級生に告白されたらしいとお母さんたちが噂していたあともずっと下を向いていた。

だから、矢吹くんに無理して言わせることはしない。
うん、いつか言ってくれるでしょ!

「ところで、これが何なの?」

「うん、この中にね…ほらここ、よく見て」

"妃奈と長電話する"

わ、わー…!

矢吹くん、私と電話したかったんだ…!

そういえば文字のやりとりだけだったからなあ。

なんか…照れる…

どうやらそう思っているのは私だけではないようで、私にノートを見せた矢吹くん本人も顔を赤くしていた。

「わかった!長電話、しよ」

「えっ、いいの?!」

「いいよ、ていうかこれもう長電話じゃないの?」

そう言って携帯の画面を見ると、すでに20分を超えていた。

「うーん、僕が言ってる長電話はもっと長いやつなんだよね」

「どのくらい?」

「最低1時間、最長4時間」

「えぇ…かなり長いね、疲れちゃいそう」

「僕はそんなことないけどなあ」

うーむ…矢吹くんって、やっぱり…?

「妃奈が嫌ならもちろん強制はしないけど…」

…ほら!どう考えてもそうだよね?!

「ごめん矢吹くん、一旦ストップ!」

私は本日2度目のマイクオフを執行した。



………前々から気づいてはいたけど、もしかして矢吹くんって、

「私のこと好きすぎるんじゃ…?!」

心当たりはいくつもある。

まず、佳音と女性限定のカフェに行こうと話していたとき。

矢吹くんはいつもより明らかに多くメッセージを送ってきていた。

私はそのときは『矢吹くんの新しい一面を見れた!』と喜んでいたけれど…そういえば、それだけでは終わらなかった。

次に違和感…というか矢吹くんの愛の重さを感じたのは、初デートのとき。

矢吹くんはあのアクセサリーをさも当然というようにプレゼントしてくれたけれど、あれがそんなに安い値段ではないことくらい私にもわかる。

だって…0が4つもついていたんだから!

そして、極めつけはその帰り。

びっくりしすぎて思わず聞こえなかったフリをしてしまったけれど、あのとき矢吹くんは確かにこう言った。

『いいんだよ。それに僕、妃奈の為にたくさん貯金してるからさ』

これが、もし本当だったら…!



私は嬉しいやら驚きやらで、顔からぷしゅーっと煙を出すことしかできなかった。

矢吹くんって、薄々気づいてたけど…やっぱり『好き』が大きいよね、いわゆる重めの人だよね?!

…ダメだ、一回考えるのやめよう。

矢吹くんが電話の向こうで待ってるだろうし。

これ以上待たせたら申し訳ないし…



私はマイクオフを解除して、電話と窓の向こうで待ちくたびれているであろう矢吹くんと向きあった。

「ごめんね、矢吹くん」

「いいよ、大丈夫だよ」

ほらやっぱり…こんなに待たせちゃったのに。

矢吹くんは優しすぎるなぁ。

私にはもったいないよ…

だんだんと落ちこみはじめた私は、ぱくぱくと動く矢吹くんの口を見ながらぼーっとしてしまっていた。

「ひーな。妃奈!妃奈、聞いてる?」

「うぇっ?あっ、ごめん!なんの話だっけ」

「もー、聞いてなかったの?今度のデートの話してたでしょ」

矢吹くんは笑いながら言ってくれたけど、その表情はどこか悲しそうに見えた。

駄目駄目。もったいないなんて言ってる場合じゃない。矢吹の気持ちに応えなくちゃ!

「今度行くところなんだけど、駅前に新しくできた本屋さんが気になってるから…そこでもいいかな?って言ったんだよ」

「うん、大丈夫。矢吹くんと一緒ならどこでも」

「…すーぐそういうこと言う…」

矢吹くんがはぁーっと頭を抱える。心なしかその耳は赤く染まっているような…

頭上にクエスチョンマークを浮かべる私を矢吹くんは軽く睨むと、にこっと笑った。

「まあ、そんな妃奈を好きになったんだけどね」

「…っ!」

矢吹くんが私のことをとても大切に思ってくれていると気づいた今、矢吹くんの一挙手一投足にドキドキしてしまう。

「や、矢吹くんこそ、すぐそういうこと言わないでよ…!」

「あはは、ごめんごめん」

…なんだか寂しいなあ。

私は矢吹くんからもらってばっかり。

矢吹くんは優しいけれど、どこか自分を大事にしていないようなところがある。

私がこんなにも大切にされていいのかな。

矢吹くんにも『大切だよ』って教えたい。

矢吹くんは私にとって必要な存在なんだよ、って。

矢吹くんとの電話を切ったあと、私は子供の頃の出来事を思い出していた。