「はあーっ」

家に着いて自分の部屋に入るなり、私はベッドにダイブした。

「…本当だったらよかったのに」

私だっていつまでもお子さまなわけじゃない。

矢吹くんがかっこいいということも分かる。

でも、だからこそ。

私なんかには振り向いてくれないだろう。

分かっているから、この気持ちからは目を逸らしたい。

「なんで、諦めさせてくれないのかな…」

 * * *

「妃奈ー?(しゅう)くん来てるわよー」

あれから寝てしまったみたいだ。気づけば窓の外はオレンジ色に染まっていた。

でも何で矢吹くんが?私に何か用?

あ、この間貸した漫画かな。

もうどうでもいいや………

コンコン。

「妃奈?入ってもいい?」

「駄目」

聞きなじみのある優しい声に、こんなに冷たい返事をしたのは初めてだ。

「どうして」

「どうしても」

「わからないよ、ちゃんと言ってくれなきゃ」

「言ってもわからないでしょ」

「何で決めつけるんだ」

扉の向こうの矢吹くんの声が低くなった。

やばい。怒らせたかな。

一度、矢吹くんが本気で怒ったところを見たことがある。

できればもう二度とあの顔は見たくない。

矢吹くんの今の表情を想像するとゾッとした。

私は根負けして、とうとう部屋のドアを開けた。



────ギュッ。



「え?」

え?

え、何これ。

何でこんなことに?

私がドアを開けた瞬間、強い力で引き寄せられ、気づくと私は矢吹くんの腕の中にすっぽりと収まっていた。

「…こわいって、妃奈」

矢吹くんの声と体は、小刻みに震えていた。

それが、私がどれだけ幼かったかを思い知らせる。

「ごめん…なさい…」

その言葉を待っていたかのように、矢吹くんは私をさらに力強く抱きしめた。

「ちょっと、矢吹くん、苦しい」

「あ、ごめん…」

ようやく離れて、矢吹くんの顔を見上げると、頬に涙の跡があった。

「え…?」

これはまずい、矢吹くんを泣かせたって知られたら、矢吹くん大ファンのお母さんに問い詰められる…!

「矢吹くん、こっち」

私は今度は迷わず部屋に入れた。

椅子に座らせて、ティッシュを差し出す。矢吹くんは「ハンカチがあるからいいよ」と言った。

しばらくの沈黙の後、私から切り出した。

「どうして?涙」

「だって妃奈が入れてくれないから」

「そんなこと今までもあったでしょ」

「今日は違ったんだ」

聞くと、下校時の私が明らかにおかしかったので様子を見に来てくれたらしい。

なるほど、そんな折に私が扉を開けないとなると…

「ごめんなさい、考え事してたの」

「そんなに大事な考え事だったの?」

大事?大事な考え事?矢吹くんについて考えることが…?

「そう、かもしれない」

「何、そのあやふやな返事」

「だって」

「だって、何?」

「矢吹くんが…」

「僕が?何かした?」

「何かしたわけじゃないよ、そこは大丈夫」

「じゃあ何なの」

「矢吹くんが…最近変だから…」

「変?僕が?」

まさかそんなことを言われるとは予想だにしなかったのだろう、矢吹くんは目をまんまるにして聞き返した。

「そう、変だよ。矢吹くんほとんど毎日私の送り迎えしてるし、彼氏ができたか、とか好きな人はいるか、とか聞いてくるし」

「それは…」

「それは、何?」

「それは、妃奈が心配だったからだよ」

…ほら、やっぱり。

矢吹くんにとって私は、ずっと妹なんだ。



「妃奈に悪い虫がついたら、僕だって気が気じゃないよ」

「………え?」

「だって妃奈はこんなにかわいいのにさ」

待って。

「妃奈を小さい頃から知ってる身としては、妃奈に告白するタイミングも難しいわけだし」

待って。

「だからといってちょっと本心が出すぎたかなあ、グイグイいき過ぎたかもしれ…」

「待って!」

ようやく声が出た。ずっと喉の奥につかえて言葉がひとつも出てこなかった。

言いたかった言葉も、言えなかった言葉も。

言葉も、気持ちも、何もかもが引っかかっていた。

「矢吹くん、どういうこと?告白って、何?」

「うん、いやまあ、だから…」

急にゴニョゴニョと口ごもりはじめた矢吹くんは、しばらくすると姿勢を正してこちらを向いた。

「妃奈。好きだよ。僕は妃奈のことがずっと好きなんだ」

胸の奥のほうがきゅっと締め付けられた。

柔らかくて、心地よい痛みだった。

矢吹くんがまっすぐに私を見て、一番欲しかった言葉をくれた。

その言葉が、私の心を動かしてくれたんだ。

気づくと私は、矢吹くんに抱きついていた。

「わ、妃奈?どうしたの」

矢吹くんがいつものように私の頭を撫でてくれるものだから、私は安心して、嬉しくて泣いてしまった。

矢吹くんはオロオロしていたけれど、今日ぐらいは許してほしかった。

矢吹くんはちゃんと私を見ていてくれたんだ。

その事実が何よりも嬉しかった。

私は涙が枯れるまで泣き続けた。