第九章 募る想い
風邪は数日休養してようやく治った。その間、壮一郎はできる限り早めに帰宅するよう配慮してくれたり、会社の仕事を英盛に任せたりしていた。もちろん手術の予定があれば病院を優先せざるを得ないが、それでも「様子を見てから行く」と言ってくれたときは、涼子は胸が温かくなった。
契約結婚とはいえ、家事全般は涼子が担うスタイルになっている。壮一郎は料理は不得意ながらも、食器洗いや洗濯ものの手伝いなどをしてくれることもある。
「料理はどうしても苦手だな……あのときのお粥がトラウマで」
「ふふ、そんなに悪くなかったよ。でも、もしまた作る機会があれば、一緒にやりましょ。私もいろいろ勉強中だから」
「わかった……そうだな。手術器具の扱いは慣れてるが、包丁は繊細じゃないからな。医療とはまた別の難しさがある」
そう言って、笑うように口元をほころばせる壮一郎。
彼がこうして微笑むことは滅多になかったのに、最近は少しずつ笑顔を見せるようになった気がする。それは、涼子にとって何よりも嬉しい変化だった。
ある休日、彼が珍しく予定を入れずに家にいると知った涼子は、思い切って「一緒に買い物に行きませんか?」と誘ってみた。もし断られても仕方ないと思ったが、壮一郎は「構わない」と即答してくれた。
近所のスーパーで食材を買い込み、合わせてショッピングモールで日用品を揃える。カートを押しながら二人で歩く光景は、まるで普通の新婚夫婦のようだ。
涼子が「あ、これお得かも」とセール品を指差すと、壮一郎は「使い切れるなら買えばいい」と言い、それとなく家計を気遣ってくれる。もちろん家計は彼が出してくれているのだが、涼子としても無駄使いは避けたい。
そんなささいなやり取りが、涼子にはとても愛おしく感じられた。クールな彼が、スーパーの通路で「これとこれは栄養素が被るな」とか「糖質が多いから少し控えようか」などと真剣に考える姿は、微笑ましくて仕方ない。
帰り道、ショッピングモールの入り口に設置されたベンチで休憩していると、ふと二人の横を一組の夫婦が通り過ぎていった。若い夫婦らしく、手をつないで楽しそうに話している。その光景を目にしたとき、涼子は自分の手を壮一郎の手に重ねてみたくなった。けれど、彼がどう反応するかわからない。結局、その衝動は抑えてしまった。
帰宅してからも、その物足りなさが胸に残った。
二人で生活して、買い物に行って、食事を作って、そういう日常が積み重なっていくのに、肝心の“愛情”の部分がまだ曖昧なまま。彼は契約上の妻に対して“優しく接する責任”を感じているだけかもしれない。心から惹かれているわけではないだろう。それでも涼子の想いは深まるばかりだ。
(もう少しでいいから、近づきたい……)
そんな願いが、涼子の胸に切実な熱を帯び始める。
彼の笑顔を見るたび、些細な気遣いを受けるたび、自分はその向こう側に行きたくなる。——天才外科医という完璧な殻の中にいる彼の、本当の心に触れてみたいと。
風邪は数日休養してようやく治った。その間、壮一郎はできる限り早めに帰宅するよう配慮してくれたり、会社の仕事を英盛に任せたりしていた。もちろん手術の予定があれば病院を優先せざるを得ないが、それでも「様子を見てから行く」と言ってくれたときは、涼子は胸が温かくなった。
契約結婚とはいえ、家事全般は涼子が担うスタイルになっている。壮一郎は料理は不得意ながらも、食器洗いや洗濯ものの手伝いなどをしてくれることもある。
「料理はどうしても苦手だな……あのときのお粥がトラウマで」
「ふふ、そんなに悪くなかったよ。でも、もしまた作る機会があれば、一緒にやりましょ。私もいろいろ勉強中だから」
「わかった……そうだな。手術器具の扱いは慣れてるが、包丁は繊細じゃないからな。医療とはまた別の難しさがある」
そう言って、笑うように口元をほころばせる壮一郎。
彼がこうして微笑むことは滅多になかったのに、最近は少しずつ笑顔を見せるようになった気がする。それは、涼子にとって何よりも嬉しい変化だった。
ある休日、彼が珍しく予定を入れずに家にいると知った涼子は、思い切って「一緒に買い物に行きませんか?」と誘ってみた。もし断られても仕方ないと思ったが、壮一郎は「構わない」と即答してくれた。
近所のスーパーで食材を買い込み、合わせてショッピングモールで日用品を揃える。カートを押しながら二人で歩く光景は、まるで普通の新婚夫婦のようだ。
涼子が「あ、これお得かも」とセール品を指差すと、壮一郎は「使い切れるなら買えばいい」と言い、それとなく家計を気遣ってくれる。もちろん家計は彼が出してくれているのだが、涼子としても無駄使いは避けたい。
そんなささいなやり取りが、涼子にはとても愛おしく感じられた。クールな彼が、スーパーの通路で「これとこれは栄養素が被るな」とか「糖質が多いから少し控えようか」などと真剣に考える姿は、微笑ましくて仕方ない。
帰り道、ショッピングモールの入り口に設置されたベンチで休憩していると、ふと二人の横を一組の夫婦が通り過ぎていった。若い夫婦らしく、手をつないで楽しそうに話している。その光景を目にしたとき、涼子は自分の手を壮一郎の手に重ねてみたくなった。けれど、彼がどう反応するかわからない。結局、その衝動は抑えてしまった。
帰宅してからも、その物足りなさが胸に残った。
二人で生活して、買い物に行って、食事を作って、そういう日常が積み重なっていくのに、肝心の“愛情”の部分がまだ曖昧なまま。彼は契約上の妻に対して“優しく接する責任”を感じているだけかもしれない。心から惹かれているわけではないだろう。それでも涼子の想いは深まるばかりだ。
(もう少しでいいから、近づきたい……)
そんな願いが、涼子の胸に切実な熱を帯び始める。
彼の笑顔を見るたび、些細な気遣いを受けるたび、自分はその向こう側に行きたくなる。——天才外科医という完璧な殻の中にいる彼の、本当の心に触れてみたいと。
