スパダリ起業家外科医との契約婚

第二十八章 二人の夜

 こうして、英盛のオフィスでひとしきり裏話を確認し合ったあと、壮一郎は穏やかな顔つきで涼子の方を見つめた。

 「父さんの術後管理は後輩たちに任せてある。大丈夫だ。今夜はもう病院に泊まらなくていいから、俺たちは家に帰ろう」

 驚いて涼子が「でも、彦造さんの容体は……」と尋ねると、壮一郎はゆるく首を振って否定する。

 「すでにICUで安定している。万が一があればすぐ呼び出されるが、そのときはまた行けばいい。……今は休みが必要なのは、お前も同じだろう?」

 彼がそれほど言うなら、きっと間違いはないのだろう。英盛も「そうしろ、壮一郎。お前、体力はあるとはいえ無理しすぎるなよ。涼子も相当参ってるはずだ」と後押しする。涼子はその二人のやりとりを聞き、胸があたたかくなる。これからは孤独に耐える必要なんてないのだ。

 英盛とは会社の業務について再確認して、最後は三人で簡単に夕食でも……と考えたが、結局、壮一郎が「せっかくだから、涼子と二人きりで家に戻らせてくれ」と切り出し、英盛も笑って「わかったよ、あとは任せろ」と送り出してくれた。
 今夜は二人きりでゆっくり過ごす。それが、終息した騒動の中でもっとも望ましい形に思えた。

 夜になり、二人はマンションへ帰宅した。ドアを開けると、いつもの静かなリビングが迎えてくれる。ほんの数日前までは、“涼子が離婚届を出そうと”苦しんだ場所でもあるが、今はなぜか温かく感じられた。
 涼子が「あなたは疲れたでしょう。私が何か作るわ」と申し出ると、壮一郎は言葉少なに「いや、俺もやる」と言い、台所へ向かおうとする。以前は料理などほとんどしたことがなかった彼だが、最近は涼子を手伝おうと努力しているのは知っている。

 「何を作ろうかな……冷蔵庫には卵と野菜、鶏肉があるし……」

 涼子はそうつぶやきながらエプロンを取り出す。壮一郎はシャツの袖を少し折り返して、そのままのスラックス姿で立ち尽くしていた。

 「手伝いたいが、もう十分忙しかっただろう? 俺は包丁を使うより、火加減を見たり皿を用意するくらいならできる」

 これまでなら口出しを苦手とする彼が、今日は妙に積極的に動こうとする。そのぎこちない様子が微笑ましく、涼子は素直に「それじゃあ、食器の準備をお願い」と言い、調理に取りかかった。

 卵を割り、野菜と鶏肉を炒いため、簡単な丼ものを作る。炒めた具材に卵を回しかけるだけの手軽な料理だが、味付けをしっかり調整すれば栄養も摂れて夜食にぴったりだ。
 ガスコンロの火と油の香りが立ち上がる中、涼子は時折カウンター越しに壮一郎の姿を盗み見る。
 彼は皿を二枚取り出し、箸を揃え、水を汲んでテーブルに置く。動作に迷いはあるが、一つ一つ真剣にこなすのが伝わってくる。

 (こんな光景が……私にとっては一番大事なんだな。騒動も立場も何もかも忘れて、家族として過ごせる瞬間が)

 時折、疲れがふと押し寄せるかのように、壮一郎は立ち止まってリビングのソファを振り返り、深く息を吐く。だが、そのすぐ後には涼子に向かって「大丈夫か?」と声をかけるのだ。その優しさと彼の強い背中が、何よりの支えに感じられる。

 調理は短時間で済み、二人分の簡単な丼ぶりが出来上がった。色合いを意識して浅葱を散らせば、見た目も悪くない。「いただきます」と声を合わせ、テーブルで向かい合う。
 一口目を食べた壮一郎は、自然と目を細めて微笑む。「うん、美味い」と低い声で呟く。涼子はそれだけで報われた気持ちがした。もともと彼はグルメというわけではないが、この一言にすべてが詰まっている――“涼子が作ってくれたご飯が嬉しい”という彼の想いが。

 食事を終えたあと、キッチンを片づける涼子に、壮一郎が「少し休んでろ」と声をかける。彼は手際よく皿を洗い、拭きあげるまでを一人でこなそうとする。涼子が「手伝うわよ」と言っても、「いいから休め」と譲らない。そのあまりの甘やかしように、涼子は苦笑混じりでソファへ腰掛けることにした。

 (……こんなにも甘やかされるなんて、思いもしなかった…)

 小さく呟くと、壮一郎は洗い物の合間に振り向いて、「お前が無理をしていた分くらいは、させろ」と言わんばかりの頼もしさを見せる。考えてみれば、今夜の手術直後なのに、彼の顔に疲労の影はない。まさに“天才外科医”の二つ名を持つ男が、このリビングにいるという不思議さに、涼子は改めて胸が弾む。

 やがてすべての皿を片づけ終え、涼子がソファに腰を下ろしたところへ壮一郎がそっと回り込み、彼女の背後から腕を回す。薄手のシャツ越しに伝わる体温が、涼子の肩や背中をじんわりと包み込んだ。

 「もう一度言うが……二度と離婚なんて考えるな。俺には、涼子が何より大切なんだ」

 低く優しい声が耳元で響き、涼子は顔を赤らめながら下を向く。

 「うん……わかった。ごめんなさい。もうそんなこと、絶対言わない……」

 頭の奥で桜の言葉や伊庭の脅しが過ぎり、あの離婚届を出そうと焦っていた自分を思い返すと、まだ少し心が痛む。だが、壮一郎の腕のなかにいると、その痛みも穏やかに癒されていくのを感じる。
 “全身全霊でお前を守る”と言わんばかりの確かさが、彼の体温からにじみ出ている。

 夜の静寂がリビングを包む――都会の明かりを映すガラス窓が暗い闇に溶け込む中、涼子は思わず壮一郎の胸にもたれる。彼は軽く微笑み片方の手で髪をそっと撫でた。

 (この人となら、どこへでも行ける……)

 アメリカへ渡る話が浮かんでも、もう怖くはない。
 彼はきっと、家族や病院を切り捨てるやり方はしないし、涼子を苦しめることもない。英盛も一緒に夢を実現するだろう。そうした壮大な未来の構想を思い描いてみれば、胸が希望でいっぱいになった。

 「涼子……」

 壮一郎が名を呼ぶ。とても甘くて優しい、その響きが耳にしみる。涼子はうっすらと目を閉じ、彼の胸の鼓動を感じた。この家こそが、自分の帰るべき場所なのだと、強く思う。
 ソファで寄り添ったまま、二人の間には言葉がなくても通じ合う何かがあった。たまに体勢を変えて、壮一郎が涼子の肩や髪を撫でると、そのたびに心がとろけるような安心を味わえる。
 まるで嵐のあとの静寂だ。ようやく二人が同じゴール地点に立てた、そんな感覚。

 「……どうした? 疲れたか?」

 壮一郎の低い声が、まるで子供をあやすように穏やかに耳をくすぐる。疲れよりも、むしろ高揚感と安堵感が胸に渦巻いて、涼子は答えに窮する。それでも「うん……でも平気。あなたがいてくれるから」と小さく微笑んだ。

 彼は黙って、涼子の手をそっと引いた。互いに何も言わず寝室へ向かう。今朝まで“契約結婚”という鎖に絡め取られ、桜の圧力で別れを決意していた涼子が、まさかこんな形で壮一郎と帰宅し、肩を並べて眠る夜が来るとは。

 「……涼子、座って」

 ベッドの端に腰かけた彼が、落ち着いた声音で促す。涼子もそばに腰をおろし、視線を恥ずかしそうに落とすが、壮一郎はかすかな笑みを浮かべながら涼子の肩を支え、ゆっくりと顔を近づけてきた。長いまつげが、ほんのわずかに伏せられるのがわかる。
 唇が触れ合う瞬間、涼子は息を飲んだ。まるで初めて手をつないだときのような甘く切ない緊張が全身を貫く。天才外科医として絶対的な腕を振るう壮一郎が、今は自分のためだけに優しさを注いでくれている。その事実が胸を甘く満たすのだ。

 (もう一度、こうして触れてくれるなんて……)

 小さな吐息が混じり合い、壮一郎の片手が涼子の背をすべらせ、しっかりと引き寄せる。温かい体温が衣服越しにもはっきり伝わり、彼女は思わず肩をすくめて目を閉じた。二度目のキスは、最初よりも深く、互いの想いを確かめるように静かに続く。心の奥にくすぶっていた不安や痛みが、すっと消えていくようだった。

 キスが終わると、壮一郎は額をそっと涼子の額に合わせる。吐息に混じる安堵が、微妙に震える声を帯びていた。

 「……もう、何も考えなくていい。あとは俺に任せてくれ。お前はただ、ここで笑っていてくれればいい」

 言葉の最後に震えるほどの優しさを感じて、涼子は瞳を潤ませて首を振る。壮一郎のひたむきな愛が、この上なく尊く思えた。
 やがて壮一郎は静かにベッドの端の照明を落とし、涼子を導くようにシーツの柔らかな感触へと招き入れた。

 胸の鼓動が早まる。もっと深いところでの安らぎが混ざり合う。薄暗がりのなか、壮一郎が涼子をさらに引き寄せるのがわかる。

 (あんなに離婚を考えていたなんて……もう遠い昔のことみたい。)

 目を閉じ、涼子は彼の鼓動に耳を澄ます。静かで力強い拍動を感じると同時に、自分の心まで溶けていくようだ。壮一郎がこれからもずっと私のそばにいてくれる。それを確信するだけで胸がじんと熱くなる。
 ベッドサイドの小さな灯りが、彼の優しい目元をほんのり照らす。その微笑みに気づいたとき、涼子は瞳を潤ませながらそっと微笑み返した。

 静かな部屋に、二人の呼吸だけが聴こえる。壮一郎の腕をしっかりと感じながら、涼子は深く息をつく。痛みや迷いは、もうどこにもない。
 彼となら、どんな未来でも受け入れられるだろう。そう信じられる温かな夜が、静かに幕を下ろしていった。