スパダリ起業家外科医との契約婚

第二十五章 交渉

 商談の大まかな内容としては、AI基幹システムを海外に展開する際の出資やコネクションの提供、技術面でのサポートなどをクラモトホールディングスが負担する代わりに、システムの規模拡大後は莫大なリターンを得られるというものだ。

 英盛は旅の疲れを抱えながらも、桜や弁護士、伊庭の質問に応じている。
 資金計画やリリース後の運用スケジュール、海外での特許問題など、専門的かつ重要な事項が山積みだ。一方の桜は、さすが大企業の令嬢だけあって交渉術に長けており、英盛の言葉尻を巧みに捉えて自社に有利な条件を引き出そうとしている。

 「そこは、もう少し具体的な数字を出してもらわないと難しいわ。日本国内だけでなく、アメリカやヨーロッパの病院と提携するとき、どの程度の投資回収が見込めるのか……」

 「ええ、我々としては初年度は試験運用が中心で、二年目以降に本格展開する見込みです。その間のキャッシュフローは……」

 激しいやりとりが続くなか、涼子は置物のように黙って座っているしかない。
 ビジネスの話など到底詳しくないし、彼女が口を挟む余地はほとんどない。ましてや桜の懐刀と化した伊庭が時折、横から冷ややかな意見を差し込むのも気になる。涼子としては、ただ隠した覚悟が揺れ動くことがないよう、じっと成り行きを見守るしかなかった。

 この契約交渉がどこまで進んだ段階で、桜は“あの言葉”を言い放つのか。それとも、もう少しタイミングを計っているのだろうか。
 どちらにせよ、壮一郎が不在のいまが好機だ。涼子が自主的に身を引く形を取れば、誰もが納得してビジネスは円満に運ぶに違いない。

 (壮一郎さん……ごめんね。あなたには何も言えないまま……)

 英盛が桜の提示した契約書を読む間、伊庭が「病院の今後についても少し話しておこうか」と口を開く。
 「私が正式に代表になれば、医療機器メーカーとの導入計画をもっとスピーディに進められる。桜さんのところとも連携して、もっと大規模な研究施設を作れるかもしれない……」などと得意気に語る。
 桜はうなずき、「ええ、私も壮一郎さんのために大きな手術室と研究スペースを用意したいんです」と誘い水のような言葉を漏らす。

 その二人のやりとりに、英盛は睨むような目を向けて「……壮一郎がその話に乗るとは思えない」と低く警告する。だが、桜はあくまで余裕の微笑を浮かべたままだ。

 「いずれ彼は気づくわ。これがベストだってね。……そう思わない、涼子さん?」

 不意に桜が振ってきた。その視線を受け、涼子は身を固くする。——今この瞬間に決断を迫られている気がした。

 桜の長いまつげの奥から放たれる冷たい光。その視線が、まるで涼子の心の中を覗き込んでいるかのように突き刺さる。伊庭の嘲笑めいた笑みも横から涼子を追いつめ、息苦しさで胸がいっぱいになる。
 ――“いまこそ身を引くときではないのか?”
 涼子がいま離婚を申し出れば、英盛やスタッフたちが守ってきた夢を守ることに繋がるのかもしれない。代わりに、壮一郎との未来は消えてしまう。

 (それでも、私が犠牲になれば……みんなを救える? 壮一郎を苦しめずに済む?)

 桜の視線は「早く言いなさい」という無言の圧力をまとっている。伊庭も含み笑いを浮かべながら、ソファのひじ掛けに身体をあずけて涼子を見つめる。けれど、その瞬間——。

 「では、一旦ここまでの契約内容を整理して、最後の詰めは後半にいたしましょうか。岩瀬さん、よろしいですか?」

 クラモトホールディングス側の弁護士らしき男性が突然声を上げた。桜は「ええ、そうね。前半で大枠は確認できたはずだし、細部を詰めるには休憩を挟んだほうがいいわ」と席から立ち上がる。英盛もファイルを閉じて「……そうですね」と応じた。


 こうして、商談は前半がいったん終了となり、契約案の正式な最終確定は後半に行われることになった。
 まさにいま、決断を迫られようとしていた涼子は、意外な中断に胸をなでおろす。部屋の空気が弛緩し、スタッフたちがテーブルの資料をまとめる音が響く。

 「さあ、休憩しよう」

 英盛が小声で涼子に言う。涼子はこくりと頷いた。

 桜の意向で、後半は“具体的な出資割合の明言”や“将来の経営体制”について話し合うという。つまり、壮一郎がアメリカへ渡る段取りや、伊庭が病院を支配するかどうか、決定的な内容がここで確定してしまう可能性が高い。
 桜が“余計なしがらみ”と呼んだ涼子の存在をどう位置づけるかも、同時に問われるのは確実だ。

 涼子の胸には、不安と絶望が交錯する。けれど、ほんの少し先延ばしになっただけでも救われた気がした。
 桜が伊庭と一緒に部屋を出ていくと、英盛はファイルを抱えたまま、涼子のそばに来る。

 「涼子……控え室で休もう。ここにいると落ち着かないだろ?」

 英盛は疲れが顔ににじんでいるものの、妹を気遣う優しさを失ってはいない。
 周囲のスタッフたちも散開し、会議室にはもう誰もいなくなった。涼子はうなずき、小走りで英盛の後を追うように部屋を出る。


 指定された控え室は、同じフロアの一角にあり、ビジネスライクな打ち合わせスペースとソファが設えられていた。英盛がスタッフに声をかけて飲み物を用意させると、涼子はソファに腰を下ろし、息をつく。
 窓から見下ろす街並みは、冬の光が鋭くビル群を照らしている。カーテン越しに感じる冷気が、胸に突き刺さるようだ。英盛はテーブルに資料を広げ、さっきの交渉内容を細部にいたるまで確認しながらペンでメモを取っている。

 英盛の表情に浮かぶ懸命さを見て、涼子は妹として何か言いたいと思うが、どう切り出せばいいのか迷う。

 (本当のこと——桜が私に離婚を迫っていることを話すべきか。それとも黙って、自分ひとりで決断すべきか……)

 前にも、英盛に桜のことを少し相談しかけて口をつぐんだ記憶がある。今回も、彼に話してしまえばきっと「馬鹿なことはやめろ」と止められるだろう。だが、それではみんなの努力が水の泡になりかねない——桜は簡単に契約を反故にしてしまうに違いない。

 あと数十分もすれば後半の契約交渉が始まるが、壮一郎からの連絡はまだ一切ない。
 手術はどうなったのだろうか。成功したならば、きっと疲れ果ててまだ病院にいるのだろう。英盛も連絡を待っているのか、時々スマートフォンを確認している。

 やがてスタッフが控え室をノックし、「そろそろ休憩時間が終わります。会議室へお戻りいただけますか」と促してきた。
 英盛は資料をまとめ短く息を吐く。

 「わかった。もう行くよ……涼子、無理せずに。どうせ後半も専門的なやりとりが続くから、お前がつらかったら外してもいいんだぞ?」

 そう言われても、涼子は首を横に振る。

 「ううん……私も最後までいさせて。見届けたいから……」

 自分の最後の役割を果たすためにも——そう心中で呟きながら、涼子は意を決して立ち上がる。バッグの中には、離婚届が入った封筒が変わらず沈んでいる。もう戻れない。英盛が扉を開け、涼子はその後ろをついて控え室を出た。

 長い廊下を英盛と並んで歩き、会議室の前で小さく息を整える。
 ドアを開けると、中では桜がドリンクを手にスタッフと何やら話し込んでおり、伊庭は先ほどと同じく不敵な笑みを浮かべて座っていた。

 テーブル上には、契約書類やプレゼン資料が山積みになっている。
 英盛が「お待たせしました」と低い声で言い、涼子も深く頭を下げた。周囲のスタッフたちは持ち場に着き、後半戦の打ち合わせ開始を待っている。

 すると桜が優雅に振り返り、柔和な笑みで「いらっしゃい」と迎える。まるでホステスのような完璧な態度だが、その瞳の奥はまるで冷たい爬虫類のように光っている。

 「それでは、続きに入りましょうか。英盛さん、前半の議論から何か修正点があれば、遠慮なく言ってくださいね」

 英盛がうなずき、書類を開く。伊庭もペンを手にして、「私が病院側から示す新たな合意事項もあるので、追って提案する」と意欲満々だ。涼子は何も言わずに席に着き、息を潜めるかのように身を縮めた。

 数十分が経過し、英盛が資金繰りや海外展開の具体案について意見を述べては、桜や弁護士が言葉巧みに調整を加える。そこに時折、伊庭が「病院経営を支える側としては、これくらいの条件が妥当だろう」と口を挟む。熾烈な攻防が続くなか、涼子はずっとそわそわと桜の動向を気にしていた。

 (絶対、最後に“あなたから離婚を宣言しなさい”と言ってくるに違いない……あの日、私を脅したあの言葉を、今度は公の場で突きつけられるのかも)

 そして、ついにその瞬間が訪れる。

 「では、細部の補正も概ね終わりましたので、契約を最終確定しましょう。……ただし、その前に一つだけ、わたくしから確認しておきたいことがあります」

 桜が書類を閉じ、視線をテーブル越しに送る。英盛をちらりと見たあと、まっすぐ涼子を射貫くように見つめた。

 部屋が一気に静まり返り、スタッフたちも“何の話だ?”と疑問顔になる。伊庭だけが薄い笑いを浮かべ、彼女の言葉を待ち構えているようだ。

 「涼子さん……何か、言いたいことがあるんじゃないかしら? …あなたが決断しようとしていることがあるはずよね」

 周囲の人々がざわつき始める。英盛は「は? なんの話だ」と眉をひそめるが、桜はあくまで優雅な笑みを浮かべるだけ。伊庭はそのやりとりを楽しむかのように腕を組んで眺めている。

 (きた……やっぱり、ここで言わなきゃいけないんだ。壮一郎はまだ来てないし、誰も私を止めることはできない……)

 涼子はぐっと唇を噛み、心を落ち着ける。この場で離婚を切り出せば、桜は満足し、契約は安全に締結される。英盛の夢も、壮一郎の未来も守られるはず。
 身体が小刻みに震え、目の奥が熱くなる。けれど、もう後戻りはできない。覚悟を決めて、涼子はバッグを手探りする。そして“あの封筒”をつかんだ——離婚届が入った封筒だ。


 「……あの、実は……」

 言葉が詰まりそうになるが、涼子は必死に声を出す。

 「桜さんの言うとおり、私が……しなければならない決断があります。これは……この場で正式にお伝えするべきだと思って、持ってきました」

 英盛がぎょっとした顔で「涼子、お前何を……?」と止めようとするが、伊庭が「聞こうじゃないか」と制するように手を挙げる。桜は得意げな笑みを浮かべ、椅子に深く腰掛けて涼子の行動を眺めている。
 涼子は誰にも阻まれぬうちに、サッと封筒を取り出し、震える指で中身を引き抜いた。きちんと記入捺印した離婚届が、会議室の薄暗い照明の下で不吉な光を帯びたように見える。英盛は目を丸くし、顔が真っ青になっている。
 スタッフたちは騒然となり、なぜ契約の場で離婚届が出てくるのか理解できない様子だ。

 (これでいい……みんなが望む形を取れば、きっと契約は成立して、壮一郎にはアメリカでの活躍が約束される)

 涼子は胸がえぐられるような痛みを堪えながら、離婚届をテーブルに置こうとした——まさにそのとき。

 「お待たせしました」

 低く静かな声が会議室の扉の方から響き渡る。会議室内が水を打ったように静まり、みながそちらを振り返る。扉がゆっくりと開き、一人の男が姿を現した。

 漆黒のスーツに身を包んだ隙のない佇まい、深く澄んだ瞳にはひときわ鋭い光が宿っていた。部屋に足を踏み入れた瞬間、静かな威圧感が空気を震わせる。
 涼子もその完璧な姿に息をのむ。立ち居振る舞いのすべてが研ぎ澄まされ、まるでこの場所が“自分の領域”であると宣言しているようにも見えた。

 ――そう。壮一郎が現れたのだ。