スパダリ起業家外科医との契約婚

第二十四章 裏側


 「高柳……総合病院の……伊庭さん?」

 涼子が驚きと戸惑いを露わにすると、伊庭はにやりと笑う。

 「ご存知でしたか? まあ、俺も一応、高柳家の血筋でね。壮一郎の従兄にあたる。今回の契約には、病院サイドからも深く関わる余地があってね。多くの役員もこの件には大いに期待を抱いていて、私が“病院を代表して”このクラモトホールディングスとの連携に参加するんですよ」

 桜が横から口を挟むように言う。

 「そうなの。伊庭さんには、今回の契約締結のあと、高柳総合病院の経営にも大きく関わっていただく予定よ。院長—さんの体調が安定しない中、早めに次の体制を整えなきゃいけないのは当然でしょ? そこで私たちクラモトホールディングスが手を貸すの。……壮一郎さんがアメリカへ渡るにあたって病院を空けても大丈夫なようにね」

 その言い方に、嫌な笑みが混じっている。彦造の状態が悪いからこそ、伊庭が正式な経営者として名乗りを上げるチャンスを狙っているのだと涼子は察する。
 つまり、今回の契約が成功すれば、高柳総合病院は伊庭の手中に収まり、壮一郎は外科医としてアメリカに活躍の場を移す——そういったシナリオを桜と伊庭が裏で共有しているのではないか。

 伊庭はテーブルに鞄を置き、淡々と続ける。

 「病院が安定すれば、壮一郎は安心してアメリカへ行けるというわけだ。……いやあ、羨ましいね。天才外科医は楽なもんだ。病院を放り出して海外へ行っても、誰も文句は言わない。まあ、従兄の私が尻拭いをすることになるがね。」

 涼子の胸に、怒りにも似た感情が沸き起こる。壮一郎は病院を“放り出そう”などと決して考えてはいない。
 耐えがたい感情の渦の中、涼子は黙り込んでいる。そんな彼女を見下ろすように、伊庭はふと「そういえば」と口の端を曲げる。

 「そういえば、旧姓は岩瀬涼子だったよね? まさか、もう一度“岩瀬”に戻る日は近いのかな。私の耳にもいろいろ噂が届いていてね」

 そのフレーズに涼子の心臓が跳ね上がる。離婚をほのめかすような言い回し――やはり伊庭と桜は密かに手を組み、桜の脅迫が成功するのを待っているというわけだ。涼子は何とか平静を装い、小さくうなずいた。

 「……噂は、ただの噂じゃないですか」

 伊庭は面白がるようにクスクス笑った。
 そして桜が「伊庭さん、そろそろ時間もあるし、あんまり涼子さんをいじめないで」と優雅に囁く。
 そういうやり取りを目の当たりにして、涼子の背筋に悪寒が走る。この二人は確実に、壮一郎と英盛の“裏”で大きなシナリオを描いている。

 そんな不穏なムードが漂う会議室に、ようやく英盛の姿を現したのは開始時刻の数分前だった。
 ドアを勢いよく開けた彼は、息を切らせながら涼子を見つけて一瞬安堵の表情を浮かべる。しかし部屋の奥に立つ伊庭や桜の姿を認めると、すぐに警戒の色に変わった。

 「伊庭さん……あなた、なぜここに?」

 英盛は荒い呼吸を整えながら問いかける。伊庭は涼子に話したときと同じように、「高柳総合病院側からのオブザーバーだよ。いずれ正式に病院経営の代表になるかもしれない立場としてね」と答える。

 「……そうか。まさかとは思ったが……」

 英盛は苦々しい顔で目を伏せる。おそらく、英盛も伊庭が病院を乗っ取る動きを進めているのは承知のうえだ。
 ここに現れたということは、桜の契約をテコに自身の権限を拡大しようという魂胆があるに違いない。

 一方、桜はなれなれしく英盛に挨拶し、すぐに話を切り出そうとする。

 「では、お揃いになったところで、早速始めましょうか。壮一郎さんは……まだ来られていないのね?」

 その問いに、英盛は少し口ごもりながら言葉を発した。

 「手術があるので……もしかしたら時間に間に合わないかもしれないという話でした」

 桜は小さく眉を動かし、「そう」とつぶやく。その笑みには、どこか得意げな勝ち誇りが感じられる。まるで「壮一郎がいない場で、すべてを決めてしまおう」と思っているかのような、自信に満ちた姿勢だ。

 桜は会議室の中央に設置された大きなテーブルの中央席に腰掛け、英盛、涼子、伊庭にそれぞれ指定席を示す。おそらく契約の核心を握っているのは桜本人なのだろう。彼女が執行部長という肩書で呼ばれている以上、周囲の部下や弁護士らしき人物も控えている。

 桜の指示でテーブル上には分厚い資料が並べられ、伊庭は終始余裕たっぷりの微笑を浮かべている。
 こうして、桜を中心に、クラモトホールディングスと英盛たちの商談が始まった。