第二十三章 当日
夜が明けきらぬ早朝、わずかに白み始めた空を背にして、玄関の扉が静かに開く。
時刻はまだ朝の五時。涼子は凛とした空気の冷たさに肩を竦ませながら、出勤支度を終えた壮一郎の後ろ姿を見送っていた。
壮一郎は早朝から病院に詰めて最終準備をするという。
「……ご飯、少しでも食べていけば?」
涼子が控えめに声をかけると、壮一郎は苦笑いを浮かべて首を振る。
「手術着に着替える前に胃が重くなると集中力が落ちるんだ。水だけで十分なんだ。ありがとう。」
言葉こそそっけないが、涼子には彼が何度も部屋の中を振り返ろうとしているのがわかった。
まるで「何かあれば今のうちに話してくれ」と暗に伝えているかのようにも感じる。しかし、それでも涼子は口をつぐんだままだ。自分の中ではもう結論を出している——このまま離婚を申し出て身を退くこと。それが壮一郎を苦しみから解放し、英盛やスタッフたちの夢を守る唯一の方法だ。
だからこそ、彼に迷いを与えたくない。
深い沈黙ののち、壮一郎は小さく溜め息をついて、涼子の肩に手を置いた。
「……手術が長引いたら、契約の時間には間に合わないかもしれない。英盛には悪いが任せるしかない。……涼子、お前はどうする? 無理に行かなくてもいいんだぞ」
「ううん……私も行く。契約の場面を見ておきたいから……」
もしそこで桜に“離婚”の言質を突きつけられたらどうするのかという恐れが涼子の胸によぎる。
だが、それでも逃げずに桜の前に姿を現し、自分の意思を示すしかない。壮一郎は気づかなそうな素振りで「わかった。だが気をつけろ」とだけ告げ、背を向ける。
そのまま鞄を握りしめ、玄関先で靴を履く彼に、涼子は「頑張って。お父さんを助けてあげて」と声をかける。
壮一郎は、いつもの微笑を返して頷く。そしてドアを開けて外に出た。朝焼けに混じる冷たい風が一気に室内へ流れ込んでくる。その風があまりに切なく、涼子の胸を抉る。
ドアが閉まると、すべての音が遠のき、静かな玄関に戻った。涼子は背を壁に預け、そっと目を閉じる。
そして、隠した覚悟を噛み締めるようにして、涼子は床に落ちた朝の光の筋を見つめた。
そのままベッドには戻らず、いつもと変わらぬように家事をしてから、十一時に始まる契約にあわせ、涼子は家を出た。
気持ちとは裏腹に、いつもより丁寧にメイクをし、シックなワンピースを選ぶ。最後に鞄の中にある離婚届を確認して、胸が苦しくなる。だが、一度決めたことだ。これ以上迷ってはならない。
電車とタクシーを乗り継ぎ、指定された高層ビル街の一角にそびえるクラモトホールディングス本社へ向かう。
想像以上に大きなビルで、エントランスは豪奢な吹き抜けになっていた。大理石の床が眩しく、涼子は少し萎縮しながらも受付に声をかける。
「あの……今日、十一時から契約の打ち合わせがあると伺っていて……岩瀬英盛から予約が……」
受付の女性はにこやかに微笑み、タブレットを操作する。
「はい、岩瀬英盛さまのご関係ですね。ご本人はまだいらしていませんが、倉本(桜)執行部長がすでにお待ちです。会議室までご案内いたしますね」
英盛はまだ到着していないらしい。
空港から直行すると言っていたが、フライトの遅れが影響しているのかもしれない。
涼子はエレベーターで数十階まで上がり、長い廊下を案内される。壁にはクラモトホールディングスが扱う最先端の医療機器やプロジェクトの写真が飾られ、どれも壮大なスケールを感じさせる。
桜が、この企業の“一人娘”として大きな影響力を持ち、さらに英盛や壮一郎の事業にも深く関わっているという事実が改めて重くのしかかる。
やがて廊下の先、重厚な扉の前で案内役のスタッフが「どうぞ中へ」と促す。
涼子が深呼吸をしてから扉を開けると、広々とした会議室に桜の姿が見える。彼女は窓辺に立ち、外の景色を眺めながら携帯電話で何か話しているようだ。涼子が入室したのを感知してか、「ええ、ではまた後ほど」と短く切り上げて振り返った。
「あら、涼子さん。早かったのね。英盛さんはまだ到着していないわ」
そう言って桜は、まるで旧知の友人を迎えるように上品な笑みを作り、会議室のテーブルを指差す。
「よかったら座ってちょうだい。コーヒーでもどう? ……それとも紅茶のほうがいいかしら?」
その優雅な態度とは裏腹に、瞳の奥には冷たい光が宿っているのがわかる。
涼子は警戒心を抱きながらも、「それではお言葉に甘えて……」と、いちばん手前の椅子に腰を下ろした。すぐに秘書らしきスタッフが、温かい紅茶のカップを運んでくる。おそらく桜が“手配しておけ”と指示していたのだろう。
座り心地の良いチェアにゆったりと腰掛け、桜は「もうしばらく待つわね。英盛さんが着いたら本題に入りましょう」と口にする。しかし、その笑顔には含みがある。
(何を企んでいるのか……まだ私に無理を言い渡すつもり?)
涼子が黙っていると、桜は薄く唇を歪めて微笑を浮かべた。
「涼子さん、私……あなたには本当に感謝しているのよ。壮一郎をここまでキープしてくれたからこそ、彼がアメリカで活躍する可能性を拓いてくれたんだもの。でも……もうそろそろ、あなたの役目は終わりかもしれないわね」
突然、ストレートに挑発的な言葉を投げかける桜。涼子は軽く息を飲んだが、何とか平静を装う。
そこへ、もう一方の扉が開き、一人の男性が入ってきた。
年の頃は三十代半ばか四十代前半ほど。背筋を伸ばした細身のスーツにネクタイをきっちりと締め、どこか冷徹な雰囲気を漂わせていた。その男と目が合った瞬間、涼子はドキリと心臓が鳴る。
「おや……あなたが"壮一郎の奥様"の涼子さんですか? ご挨拶が遅くなり大変申し訳ない」
男は意味ありげな口調で言い、涼子の前へと歩み寄る。そして彼は名刺を出しながらこう名乗った。
「はじめまして。"高柳総合病院"の、伊庭秀一です。」
夜が明けきらぬ早朝、わずかに白み始めた空を背にして、玄関の扉が静かに開く。
時刻はまだ朝の五時。涼子は凛とした空気の冷たさに肩を竦ませながら、出勤支度を終えた壮一郎の後ろ姿を見送っていた。
壮一郎は早朝から病院に詰めて最終準備をするという。
「……ご飯、少しでも食べていけば?」
涼子が控えめに声をかけると、壮一郎は苦笑いを浮かべて首を振る。
「手術着に着替える前に胃が重くなると集中力が落ちるんだ。水だけで十分なんだ。ありがとう。」
言葉こそそっけないが、涼子には彼が何度も部屋の中を振り返ろうとしているのがわかった。
まるで「何かあれば今のうちに話してくれ」と暗に伝えているかのようにも感じる。しかし、それでも涼子は口をつぐんだままだ。自分の中ではもう結論を出している——このまま離婚を申し出て身を退くこと。それが壮一郎を苦しみから解放し、英盛やスタッフたちの夢を守る唯一の方法だ。
だからこそ、彼に迷いを与えたくない。
深い沈黙ののち、壮一郎は小さく溜め息をついて、涼子の肩に手を置いた。
「……手術が長引いたら、契約の時間には間に合わないかもしれない。英盛には悪いが任せるしかない。……涼子、お前はどうする? 無理に行かなくてもいいんだぞ」
「ううん……私も行く。契約の場面を見ておきたいから……」
もしそこで桜に“離婚”の言質を突きつけられたらどうするのかという恐れが涼子の胸によぎる。
だが、それでも逃げずに桜の前に姿を現し、自分の意思を示すしかない。壮一郎は気づかなそうな素振りで「わかった。だが気をつけろ」とだけ告げ、背を向ける。
そのまま鞄を握りしめ、玄関先で靴を履く彼に、涼子は「頑張って。お父さんを助けてあげて」と声をかける。
壮一郎は、いつもの微笑を返して頷く。そしてドアを開けて外に出た。朝焼けに混じる冷たい風が一気に室内へ流れ込んでくる。その風があまりに切なく、涼子の胸を抉る。
ドアが閉まると、すべての音が遠のき、静かな玄関に戻った。涼子は背を壁に預け、そっと目を閉じる。
そして、隠した覚悟を噛み締めるようにして、涼子は床に落ちた朝の光の筋を見つめた。
そのままベッドには戻らず、いつもと変わらぬように家事をしてから、十一時に始まる契約にあわせ、涼子は家を出た。
気持ちとは裏腹に、いつもより丁寧にメイクをし、シックなワンピースを選ぶ。最後に鞄の中にある離婚届を確認して、胸が苦しくなる。だが、一度決めたことだ。これ以上迷ってはならない。
電車とタクシーを乗り継ぎ、指定された高層ビル街の一角にそびえるクラモトホールディングス本社へ向かう。
想像以上に大きなビルで、エントランスは豪奢な吹き抜けになっていた。大理石の床が眩しく、涼子は少し萎縮しながらも受付に声をかける。
「あの……今日、十一時から契約の打ち合わせがあると伺っていて……岩瀬英盛から予約が……」
受付の女性はにこやかに微笑み、タブレットを操作する。
「はい、岩瀬英盛さまのご関係ですね。ご本人はまだいらしていませんが、倉本(桜)執行部長がすでにお待ちです。会議室までご案内いたしますね」
英盛はまだ到着していないらしい。
空港から直行すると言っていたが、フライトの遅れが影響しているのかもしれない。
涼子はエレベーターで数十階まで上がり、長い廊下を案内される。壁にはクラモトホールディングスが扱う最先端の医療機器やプロジェクトの写真が飾られ、どれも壮大なスケールを感じさせる。
桜が、この企業の“一人娘”として大きな影響力を持ち、さらに英盛や壮一郎の事業にも深く関わっているという事実が改めて重くのしかかる。
やがて廊下の先、重厚な扉の前で案内役のスタッフが「どうぞ中へ」と促す。
涼子が深呼吸をしてから扉を開けると、広々とした会議室に桜の姿が見える。彼女は窓辺に立ち、外の景色を眺めながら携帯電話で何か話しているようだ。涼子が入室したのを感知してか、「ええ、ではまた後ほど」と短く切り上げて振り返った。
「あら、涼子さん。早かったのね。英盛さんはまだ到着していないわ」
そう言って桜は、まるで旧知の友人を迎えるように上品な笑みを作り、会議室のテーブルを指差す。
「よかったら座ってちょうだい。コーヒーでもどう? ……それとも紅茶のほうがいいかしら?」
その優雅な態度とは裏腹に、瞳の奥には冷たい光が宿っているのがわかる。
涼子は警戒心を抱きながらも、「それではお言葉に甘えて……」と、いちばん手前の椅子に腰を下ろした。すぐに秘書らしきスタッフが、温かい紅茶のカップを運んでくる。おそらく桜が“手配しておけ”と指示していたのだろう。
座り心地の良いチェアにゆったりと腰掛け、桜は「もうしばらく待つわね。英盛さんが着いたら本題に入りましょう」と口にする。しかし、その笑顔には含みがある。
(何を企んでいるのか……まだ私に無理を言い渡すつもり?)
涼子が黙っていると、桜は薄く唇を歪めて微笑を浮かべた。
「涼子さん、私……あなたには本当に感謝しているのよ。壮一郎をここまでキープしてくれたからこそ、彼がアメリカで活躍する可能性を拓いてくれたんだもの。でも……もうそろそろ、あなたの役目は終わりかもしれないわね」
突然、ストレートに挑発的な言葉を投げかける桜。涼子は軽く息を飲んだが、何とか平静を装う。
そこへ、もう一方の扉が開き、一人の男性が入ってきた。
年の頃は三十代半ばか四十代前半ほど。背筋を伸ばした細身のスーツにネクタイをきっちりと締め、どこか冷徹な雰囲気を漂わせていた。その男と目が合った瞬間、涼子はドキリと心臓が鳴る。
「おや……あなたが"壮一郎の奥様"の涼子さんですか? ご挨拶が遅くなり大変申し訳ない」
男は意味ありげな口調で言い、涼子の前へと歩み寄る。そして彼は名刺を出しながらこう名乗った。
「はじめまして。"高柳総合病院"の、伊庭秀一です。」
