第二十二章 寝室

 時計の針が夜の二時を回るころ、涼子はようやくベッドへ向かった。
 途中、空のコップや雑多なものを片付けていたら、いつの間にかこんな時間になっていたのだ。結婚して以来、こんな時間まで起きていることは滅多にない。それなのに今夜はまったく眠気が湧かない。明日が迫る中、自分が下すべき結論があまりにも重くのしかかり、瞼を閉じる勇気すら削いでいた。

 そっと寝室のドアを開けると、真っ暗に近い室内の静けさが押し寄せてくる。カーテンがしっかり閉ざされているせいで、外からの街灯の明かりはほとんど入り込まず、わずかな月明かりだけが床に淡い線を描いている。その名残の光を頼りに目を凝らすと、ベッドの上に壮一郎の影が横たわっていた。胸の上下がかすかに確認できるから、どうやら深い眠りについているのだろう。

 (こんな時間まで起こしてしまったら悪いわよね……)

 涼子は息をひそめて足元を確かめながら、彼を起こさないようにベッドの端へ腰掛けた。
 枕の横には医療用のタブレットらしきものが置かれている。英盛への連絡やオペ前のデータの確認していたのだろうか。あれほど疲れているのに、彼がここまで仕事に没頭せざるを得ないのは、やはり、明日の難手術と、桜との契約の件が重くのしかかっているからに違いない。

 布団をそっとめくり、涼子は横になる。先に寝ている壮一郎からは規則的な息づかいが聞こえてくるが、そのリズムはどこか浅い。ナースたちが言うように、医師の眠りは常に途切れやすいのかもしれない。あるいは、明日のオペを思い煩っているのか。

 (ごめんね、壮一郎さん……ほんとはもっと早く相談すればよかった。それなのに私、あなたの忙しさと疲れを見てたら、言い出せなくて……)

 自分を責める気持ちが湧いてくる。
 もし“明日の契約”を回避するならば、あるいは打ち勝つならば、彼とともに戦うしかないのかもしれない。
 だが、桜の脅迫めいた言葉が頭から離れない。「あなたさえいなくなれば、英盛さんや壮一郎の夢を全面的にサポートしてあげる」――あの言葉が真実なら、いま自分がここに居座り続けては、壮一郎をさらに苦しめる可能性が高い。病院経営も兄との仕事も、すべてが頓挫しかねない脅威がそこにはある。

 いっそ明日、自分から身を引こう——その思いはここ数日ずっと変わらなかった。だが、今はこんなにも苦しそうな彼の隣で寝息を聞いているだけで、胸が裂かれそうになる。
 きっと自分が去るとき、壮一郎はどんな顔をするだろう。悲しむのか、怒るのか、それとも無理に取り繕おうとするのか。想像するだけで息が詰まる。

 ふと、壮一郎が小さく寝返りを打った。布団がカサリと鳴り、彼の肩越しに月の光がわずかに当たる。暗闇のなか、かすかに見えるその横顔は、いつもよりも険しいしわが刻まれているようだ。疲労は限界に近いはず。それでも眠りの中ですら何かと戦っているかのように、眉間がぎゅっと寄ったままになっている。

 (……せめてもう少し、安らかに眠れるようにしてあげたい……)

 涼子がそっと息を吐き、布団の上から彼の肩のあたりに指先を伸ばした瞬間、壮一郎がびくりと反応した。そして少し寝ぼけた声で、かすれた囁きが耳に届く。

 「……涼子……もう……こんな時間……寝ないと……」

 思わず涼子は手を引きそうになるが、壮一郎は完全に目を開けているわけではなさそうだ。夢うつつの状態で、彼女の気配に気づき、声をかけてきたらしい。吐息に混じる語尾が震えているあたり、深い眠りから急に意識が浮上してきた感覚なのだろう。

 「ごめん、起こしちゃった? 私、いまベッドに……」

 言葉が最後まで続かないうちに、壮一郎は微かに頭を振って、まるで安心させるように布団の端をつまむしぐさをした。暗がりでも、彼の指先が布団を握るのがわかる。

 「平気……俺こそ……朝早いのに……ゴメン。」

 その問いに、涼子は苦笑するように唇を歪めた。
 どうして彼はこんなに優しいのだろう。明日、大手術が控えているのに、そして英盛や病院の今後を左右する大きな問題を抱えているのに、自分のことを気遣う言葉をかけてくれる。それがいっそう、涼子の胸を締めつける。——このまま“何も言わずに去る”など、本当にできるのだろうか。

 「……私こそ……ごめんね。あなたが休めるように、静かにしてたんだけど……」

 「涼子のせいじゃない……眠りはもともと浅いんだ……」

 寝ぼけた声はときどき途切れながらも、彼の素直な気持ちを映し出しているようだった。涼子の存在に対して、苛立ちや怒りなどは微塵も感じられない。それどころか、何か言いたげな、訴えかけるような優しさが溢れている。

 少し姿勢を変えた壮一郎が、暗がりの中で涼子の方へゆっくりと腕を伸ばし、その手が彼女の枕元へ落ち着く。まるで視力に頼らずに涼子を探ろうとするかのように、すこし不器用な動きで布団を手繰り寄せる。その指先が涼子の肩にかすめると、彼はホッと安心したかのように眉間をゆるめた。

 「……涼子……疲れてるんじゃないか…?」

 ああ、やはり気づかれてしまっている。わざわざ笑顔を作っていたつもりでも、壮一郎ほどの観察眼を持つ人間には誤魔化しようがないのかもしれない。ましてや医師として、人の些細な変化には敏感なのだろう。

 涼子はドキリと胸を突かれ、どう答えようか迷う。夜の静寂に包まれたこの空間で、嘘はつけない。彼の寝顔を見つめながら、それでも涼子は精一杯取り繕うような声を出す。

 「私、ちょっとバタバタしてただけ……英盛もいないし、家のことや色々……でも大丈夫。あなたの方がずっと大変だから……」

 その言葉を聞いた壮一郎の喉が、かすかに震えるように上下する。じっとりした眠気の中で言葉を選んでいるのか、しばらく沈黙したあと、ぽつりと呟いた。

 「涼子……ちゃんとお前のこと、支えるから……」

 支えたい。その言葉は、涼子の胸を深く抉るようでもあり、同時に温かい喜びをもたらす。
 もしも彼が自分を支えてくれるのだとしたら、どんなに心強いだろう。桜の要求なんて蹴飛ばして、一緒に問題を解決できるなら、どんなに嬉しいだろう。けれど、桜はあまりにも強大な力を握っている。クラモトホールディングスという巨大企業の後ろ盾は、ベンチャー企業や病院にとって無視できない脅威だ。

 (結局、私がいなくならないと、桜さんは契約を破棄すると言い張る……それを強行されたら、壮一郎さんだけでなく兄やスタッフたちはどうなるの? 壮一郎にだって、最先端の医療を学ぶ機会を失わせることになるかもしれない……)

 そんな苦悩を、涼子はどうしても口にできない。壮一郎がこれ以上悩みを抱えるのは耐えられないからだ。
 だからこそ、ここで自分が犠牲になろうと決めたのに……彼の寝ぼけ声はなおも、涼子への愛情と気遣いを含んだ言葉を紡ぎだす。

 「……お前がいるから…全部やりきれる“気がする”……だから……離れるなよ……」

 朦朧とした意識の中から漏れる本音なのかもしれない。
 外科医のプライドが邪魔をしているときではなく、睡眠の淵にいるからこそ出てくる“弱さ”だ。涼子を求めている——それが痛いほど伝わる。

 (ごめんね、壮一郎さん……私も離れたくない。それでも、あなたを苦しませたくないの……)

 瞳に涙が浮かびそうになるのを必死にこらえ、涼子はそっと彼の手の甲に指を触れた。
 まるで“ここにいるよ”と知らせるように。すると、壮一郎の唇がかすかに動いて、「ありがとう」と聞こえるか聞こえないほどの小さな声が漏れ、それから完全に意識が沈んでいくらしい。呼吸のテンポがゆっくりと一定になっていく。

 (そうよ……私が去れば、あなたはもっと自由になれる。それに桜さんの後ろ盾があれば、海外の最先端の病院でオペの腕をさらに磨いて、多くの患者さんを救えるはず。そう考えたら、私がしがみつくのはただのエゴなんだ……)

 ——そう。しがみつくことは単なる自己満足。
 彼に負担をかけ、兄やスタッフたちの努力を無駄にするかもしれない。それを避けるためには、どうしても身を引かなければならない。そして、その意志を示すことで桜は納得し、ビジネスを存続させてくれるはずなのだ。

 涼子は覚悟を固めるように、大きく息を吸い込んだ。
 そして、眠りに落ちた壮一郎の横顔を見つめながら、最後の名残りのように彼の頬へそっと触れる。——その瞬間、肌越しに伝わる体温が切なすぎて、胸が締めつけられた。じわりと熱いものがこみあげてきそうになる。

 けれど、ここで泣いたら負けだ。せめて明日の朝まで、彼に気づかれないようにしよう。彼は苦しげに眉を寄せながらも、安堵しているかのように寝息を立てている。少しでも今のうちに休ませてあげなければ、明日の難しいオペに支障が出てしまう。

 (……壮一郎さん、ありがとう。あなたの優しさに甘えたいけど……ごめんね。)

 そう心の中で呟き、涼子は彼の頬から手を離す。最後にこぼれそうになった涙をこすりながら、暗闇のなかで静かに横たわる。
 彼の体温が布団越しに感じられて、涙腺をさらに刺激する。これが最後の夜になるかもしれない——そんな想いが頭をよぎるたび、いつまでも眠れそうになかった。