第十九章 再来
英盛がアメリカへ飛び立ってから一週間ほど経ったある日の午後。涼子はいつものように部屋で洗濯物をたたんでいた。天気も良く、ベランダで干したシーツが心地よい日差しを含んでいる。
壮一郎はもちろん病院とオフィスを行き来して忙しい。時折、深夜に帰ってくることもあるが、翌朝早々に出かけるという毎日だ。——それでも、涼子は彼を信じてサポートすることを決めているので、この忙しさにも慣れ始めていた。
(ピンポーン♪)
インターホンが鳴り、涼子は「宅配便かな?」と思いながらモニターを覗く。
しかし、そこに映っていたのは見覚えのある女性の姿。白いスーツ姿に鮮やかな口紅、大きなサングラスを外しながらカメラを見つめる——倉本桜だった。
(えっ……なんで桜さんがここに?)
一瞬、出るのをためらうが、相手は明らかに涼子がいると確信して来ているはずだ。
もし無視しても、しつこく呼び出されるかもしれない。意を決してエントランスのオートロックを解錠し、ドアを開ける。すると、桜はけだるげに微笑みながら「急に押しかけてごめんなさいね」と言葉を投げる。
「壮一郎さんは……いらっしゃらない?」
桜の瞳はマンションの奥を探るように泳いでいるが、涼子はなるべく冷静な声を装って答える。
「今日は病院に行ってます。多分、夜まで帰らないと思いますけど……」
「まあ、そうでしょうね。ほんと、忙しい人。じゃあ、私とあなたで話をしましょうか。入れてちょうだい?」
唐突な物言いに、涼子はぎょっとする。だが桜は有無を言わせない調子で玄関からずかずかと中へ進もうとする。これでは阻むこともできず、仕方なく涼子は桜をリビングへ通した。
簡単にお茶を出すのも気が進まないが、礼儀としてテーブルにカップを並べると、桜はソファに腰掛け、あたりを品定めするように見渡している。
「ずいぶん生活感あるのね。まるで……新婚家庭って感じ。料理の香りもするわ」
桜が挑発的な微笑を浮かべる。涼子はそれに動じないようにして、「今はキッチンを片付けていただけなので……すみません、散らかってて」と無難な言葉を返す。
カップに入れた紅茶を啜りながら、桜は本題に入る。
「あなた、もうわかっていると思うけれど……壮一郎には日本を離れてアメリカに拠点を置くプランがあるわ。英盛さんとのAI基幹システムを世界へ広めるためにも、早かれ遅かれアメリカでの拠点づくりが必須になる。私たちクラモトホールディングスは、そのサポートを全面的に引き受ける気があるの。だけど……あなたはそれに見合うパートナーなのかしら?」
やはり桜の話は“お決まり”だ。涼子は内心でうんざりしながらも、気丈に言い返す。
「桜さんにとっては不満かもしれませんが、私は彼の妻です。どこへ行くかは彼と話し合って決めます」
すると桜は、まるで子供をあやすような視線を涼子に向ける。
「随分強気ね。でも……私がこう言ったらどう? “もしあなたが身を引かなければ、クラモトホールディングスは英盛さんと壮一郎の事業に協力しない”ってね。私たちが手を引けば、このAI事業は頓挫する可能性が高いわよ。資金や海外のコネクションなしで、一体どこまでやれるのかしら?」
桜の声が急に低くなる。彼女の瞳に宿るのは、ビジネス上の計算だけでなく、個人的な執着の色だ。
「そんな……あなた、本気で言ってるの?」
思わず涼子の声が上擦る。クラモトホールディングスとの提携が重要だというのは英盛からも聞いていた。もしこのプロジェクトが頓挫したら……壮一郎や英盛の夢はどうなるのか。海外での展開も大きく遅れてしまうだろう。
桜はずいと身を乗り出し、冷ややかな微笑みを浮かべる。
「本気よ。壮一郎を手に入れるためなら、私はいくらでも動く。あなただってわかるでしょ? 私が本気を出せば、海外の医療機関とのネットワークを使って、壮一郎に最高のポストだって用意できるのよ。あなたには用意できないでしょう? アメリカの一流大学病院の主任外科医の地位や、研究プロジェクトのリーダーの肩書だって、一言で叶えてみせるわ」
涼子は桜の言葉に強い嫌悪感を覚える。
彼女は壮一郎が求めるものを“金と権力”で与えることで、思い通りにしようとしているのだ。外科医としてさらなる高みを目指す壮一郎にとって、それは魅力的な話になるかもしれない。
しかし、それはあくまで“桜が与える”ものであって、彼が自分の意思と力で勝ち得るものではない。
同時に、涼子は胸に染みるような不安を感じていた。壮一郎は、もしかしたらこの先アメリカでのキャリアを本格化させる段になったとき、桜のコネクションを必要とするかもしれない。そのとき、もし自分が足手まといになってしまえば……?
そうした涼子の動揺を見透かしたように、桜はとどめを刺すように言った。
「一週間後が、英盛さんや壮一郎との事業提携の決済日になるわ。クラモトホールディングスと最終的に合意できるかどうか。そのときまでに、あなたが壮一郎と別れるなら、私はすべてをサポートすることを約束するわ。もし別れなければ……ここから先は、もう言わなくても分かるわよね?」
強烈な脅迫めいた言葉。涼子は息を呑み、言葉を失う。そんな彼女を前に、桜はすっくと立ち上がり、にこりと笑う。
「じゃ、また会いましょう。決断は早いほうがいいわ。英盛さんが帰国する日までに、きちんと考えてちょうだい」
言いたいことだけ言って、桜はヒールの音を響かせて去っていった。
涼子は何も言い返せなかった。その背中を見送りながら、ふと膝が震えているのに気づく。
(私は……どうすればいいの……?)
このまま壮一郎のそばにいたら、二人が目指してきた大きな“医療インフラの改革”は挫折を余儀なくされるだろう。
一方、ここで身を引けば……すべてが難なく成立するはずだ。壮一郎がそれを望むとは思えないが、桜の持つ絶大な影響力を甘く見られない以上、涼子には選択肢が少なく感じられた。
英盛がアメリカへ飛び立ってから一週間ほど経ったある日の午後。涼子はいつものように部屋で洗濯物をたたんでいた。天気も良く、ベランダで干したシーツが心地よい日差しを含んでいる。
壮一郎はもちろん病院とオフィスを行き来して忙しい。時折、深夜に帰ってくることもあるが、翌朝早々に出かけるという毎日だ。——それでも、涼子は彼を信じてサポートすることを決めているので、この忙しさにも慣れ始めていた。
(ピンポーン♪)
インターホンが鳴り、涼子は「宅配便かな?」と思いながらモニターを覗く。
しかし、そこに映っていたのは見覚えのある女性の姿。白いスーツ姿に鮮やかな口紅、大きなサングラスを外しながらカメラを見つめる——倉本桜だった。
(えっ……なんで桜さんがここに?)
一瞬、出るのをためらうが、相手は明らかに涼子がいると確信して来ているはずだ。
もし無視しても、しつこく呼び出されるかもしれない。意を決してエントランスのオートロックを解錠し、ドアを開ける。すると、桜はけだるげに微笑みながら「急に押しかけてごめんなさいね」と言葉を投げる。
「壮一郎さんは……いらっしゃらない?」
桜の瞳はマンションの奥を探るように泳いでいるが、涼子はなるべく冷静な声を装って答える。
「今日は病院に行ってます。多分、夜まで帰らないと思いますけど……」
「まあ、そうでしょうね。ほんと、忙しい人。じゃあ、私とあなたで話をしましょうか。入れてちょうだい?」
唐突な物言いに、涼子はぎょっとする。だが桜は有無を言わせない調子で玄関からずかずかと中へ進もうとする。これでは阻むこともできず、仕方なく涼子は桜をリビングへ通した。
簡単にお茶を出すのも気が進まないが、礼儀としてテーブルにカップを並べると、桜はソファに腰掛け、あたりを品定めするように見渡している。
「ずいぶん生活感あるのね。まるで……新婚家庭って感じ。料理の香りもするわ」
桜が挑発的な微笑を浮かべる。涼子はそれに動じないようにして、「今はキッチンを片付けていただけなので……すみません、散らかってて」と無難な言葉を返す。
カップに入れた紅茶を啜りながら、桜は本題に入る。
「あなた、もうわかっていると思うけれど……壮一郎には日本を離れてアメリカに拠点を置くプランがあるわ。英盛さんとのAI基幹システムを世界へ広めるためにも、早かれ遅かれアメリカでの拠点づくりが必須になる。私たちクラモトホールディングスは、そのサポートを全面的に引き受ける気があるの。だけど……あなたはそれに見合うパートナーなのかしら?」
やはり桜の話は“お決まり”だ。涼子は内心でうんざりしながらも、気丈に言い返す。
「桜さんにとっては不満かもしれませんが、私は彼の妻です。どこへ行くかは彼と話し合って決めます」
すると桜は、まるで子供をあやすような視線を涼子に向ける。
「随分強気ね。でも……私がこう言ったらどう? “もしあなたが身を引かなければ、クラモトホールディングスは英盛さんと壮一郎の事業に協力しない”ってね。私たちが手を引けば、このAI事業は頓挫する可能性が高いわよ。資金や海外のコネクションなしで、一体どこまでやれるのかしら?」
桜の声が急に低くなる。彼女の瞳に宿るのは、ビジネス上の計算だけでなく、個人的な執着の色だ。
「そんな……あなた、本気で言ってるの?」
思わず涼子の声が上擦る。クラモトホールディングスとの提携が重要だというのは英盛からも聞いていた。もしこのプロジェクトが頓挫したら……壮一郎や英盛の夢はどうなるのか。海外での展開も大きく遅れてしまうだろう。
桜はずいと身を乗り出し、冷ややかな微笑みを浮かべる。
「本気よ。壮一郎を手に入れるためなら、私はいくらでも動く。あなただってわかるでしょ? 私が本気を出せば、海外の医療機関とのネットワークを使って、壮一郎に最高のポストだって用意できるのよ。あなたには用意できないでしょう? アメリカの一流大学病院の主任外科医の地位や、研究プロジェクトのリーダーの肩書だって、一言で叶えてみせるわ」
涼子は桜の言葉に強い嫌悪感を覚える。
彼女は壮一郎が求めるものを“金と権力”で与えることで、思い通りにしようとしているのだ。外科医としてさらなる高みを目指す壮一郎にとって、それは魅力的な話になるかもしれない。
しかし、それはあくまで“桜が与える”ものであって、彼が自分の意思と力で勝ち得るものではない。
同時に、涼子は胸に染みるような不安を感じていた。壮一郎は、もしかしたらこの先アメリカでのキャリアを本格化させる段になったとき、桜のコネクションを必要とするかもしれない。そのとき、もし自分が足手まといになってしまえば……?
そうした涼子の動揺を見透かしたように、桜はとどめを刺すように言った。
「一週間後が、英盛さんや壮一郎との事業提携の決済日になるわ。クラモトホールディングスと最終的に合意できるかどうか。そのときまでに、あなたが壮一郎と別れるなら、私はすべてをサポートすることを約束するわ。もし別れなければ……ここから先は、もう言わなくても分かるわよね?」
強烈な脅迫めいた言葉。涼子は息を呑み、言葉を失う。そんな彼女を前に、桜はすっくと立ち上がり、にこりと笑う。
「じゃ、また会いましょう。決断は早いほうがいいわ。英盛さんが帰国する日までに、きちんと考えてちょうだい」
言いたいことだけ言って、桜はヒールの音を響かせて去っていった。
涼子は何も言い返せなかった。その背中を見送りながら、ふと膝が震えているのに気づく。
(私は……どうすればいいの……?)
このまま壮一郎のそばにいたら、二人が目指してきた大きな“医療インフラの改革”は挫折を余儀なくされるだろう。
一方、ここで身を引けば……すべてが難なく成立するはずだ。壮一郎がそれを望むとは思えないが、桜の持つ絶大な影響力を甘く見られない以上、涼子には選択肢が少なく感じられた。
