第十五章 兄
行くあてもなく、最初に思いついたのは兄・英盛のオフィスだった。
実家に行くと両親に心配をかける。いろいろ面倒な質問もされるかもしれない。それに、桜と壮一郎の件や、高柳院長に言われたことなど、胸に鬱屈した思いが渦巻き、誰かに聞いてもらわないと壊れそうだった。
夜の遅い時間ではあったが、英盛はまだ残業をしている可能性が高い。そう思ってタクシーで会社へ向かうと、建物の明かりは確かに点いていた。
「兄さん……今、いいかな」
オフィスの扉を開けて控えめに声をかけると、英盛は執務机の山積みになった書類を脇に置き、驚いた顔で涼子を迎える。
「なんだ、こんな時間に。ていうか、どうしたんだよ、その顔……」
暗がりの中で乗ったタクシーの揺れが激しく、さらに悩みや疲れが重なって、涼子の顔は相当に青ざめていたのかもしれない。英盛の表情がすぐに曇る。
「……ごめん。ちょっと、話を聞いてほしくて」
涼子はそう言って、ソファに腰を下ろす。英盛も迎いに座り、話を促すようにうなずいた。そこで涼子は、桜とのやり取りや、高柳院長から聞かされた伊庭の動き、そして自分がどう思い悩んでいるかを、途切れ途切れに話す。
兄の前で情けないほど涙をこぼしながら語るうちに、気持ちが少しずつ吐き出されていく。英盛は最後まで黙ってうなずきながら聞いていたが、すべてを聞き終わると、深く息を吐いて答えた。
「……なるほど、そういうことか。桜さんに嫌味を言われたのは知ってるけど、まさかそこまできつい言葉だったとはな。それに、壮一郎の親父さん——高柳院長が、お前に直接“壮一郎を説得してほしい”なんて言ったのか。そりゃ重荷だろうな」
「うん……。私にはどうしようもできないよ。壮一郎さんは、いずれアメリカに行くって言ってるし、病院を継ぐ気なんてまだないと思う。それを私が止める資格なんて……」
涼子の声は震えたままだ。英盛は一度目を閉じ、かみしめるように言葉を探している。
「確かに、あいつは『一年後をめどにアメリカに戻りたい』と言ってる。だけど、その意味をちゃんとお前は聞いたのか? あいつがなぜアメリカで最新医療を学ぼうとしているのか。どうして病院経営から逃げるように見えるのか。……それを、表面的な会話だけで判断しちゃいないか?」
「え……?」
英盛の含みのある口調に、涼子ははっと顔を上げる。兄は軽く首を振った。
「あいつの狙いは、ただ自分が外科医として能力を磨きたいとか、病院を継ぎたくないっていう単純なもんじゃない。もちろん外科医としてもっと成長したいのは本当だと思うが、一番大きいのは俺たちのビジネスで進めている“AI基幹システム”を世界規模で使えるようにすることだ。父の病院を継ぐだけじゃ、限られた患者しか救えない。だけど、AIを使って遠隔医療を推し進めたり、効率的な医療データの共有を実現できれば、世界中の患者を救える可能性がある。それがあいつの理想なんだよ」
「世界中の……患者を……」
涼子は息を呑む。壮一郎は一人の外科医として既に天才的な腕を持ちながら、なおも自分の技術だけで救える人数には限度があることを知っている。だからこそ、英盛と組んでAIシステムのインフラ整備に挑んでいるというのだ。
英盛はさらに言葉を継ぐ。
「実際、あいつはすでに海外の研究機関や医療ベンチャー企業と連携を模索してる。アメリカに行くのは、桜さんとの付き合いがどうとかじゃなくて、このシステムを世界に広げるためだ。——その先に、父の病院を継ぐ可能性だってある。むしろ“より大きな土台を作ってから病院経営を握り、実践的に医療を変えたい”って考えてるんじゃないか?」
「そんな……。でも、私はそんな話、聞いたことも……」
「だろうな。あいつは自分のプランをあまり語らない性格だ。桜さんが勘違いするのも無理はない。だけど、俺はずっとそばで、学生のころから今まであいつのことを見てきたからわかる。あいつは自分の手で医療現場を変革したいって本気で思ってる。——病院の後継者になるのは、その過程の一部なんだよ。だから、一年後にアメリカへ行くのも、決して病院や涼子から逃げるためじゃないんだ」
英盛の断言に、涼子の瞳は揺れ動く。
桜から聞かされた「一年後にアメリカへ」というフレーズを、涼子は「彼が桜と一緒に行くため」だと思い込んでいた。しかし真実はまったく違う。自分は何も知らないまま、一方的に絶望していただけではないのか。
「壮一郎は、ただ外科医として手術室に籠もるだけじゃなく、世界規模で医療を広める方法を追い求めてる。それは父親が期待する病院経営すらも将来的に視野に入れているということだ。あいつは“不器用”なんだ。口下手で、感情表現が苦手だから、表向きにはクールに見える。でも、内心は誰よりも熱く“医療”に関わろうとしてる」
英盛は力強く言い切る。その言葉が胸に響き、涼子は涙が出そうになる。
——確かに壮一郎は不器用だ。普段から無口で、やりたいことを多く語らない。それでも、彼が一度話し出すときは常に芯の通った意志を感じる。それこそが彼の魅力であり、医療に対する真摯な情熱だったのかもしれない。
「……私、何もわかっていなかった。自分勝手に、桜さんの言葉とか院長先生の希望とかだけを気にして……壮一郎さんが何を考えているのかを聞こうともしなかった……」
唇を噛み締め、涼子の目からは大粒の涙が零れ落ちる。そんな彼女に、英盛はぽんと肩を叩いてやった。
「お前、壮一郎が好きなんだろ? だったら、もう少し信じてやれよ。あいつが素直に口にしないだけで、ちゃんとお前を大事にしてるってこと、わかってやってくれ。——ほら、今はもう遅い時間だし、家に帰りなさい。待ってるやつがいるだろ?」
英盛の優しい言葉に、涼子は胸がいっぱいになった。
だけど——もう、自分はマンションを飛び出してしまったのだ。メモ一枚だけ残して。取り返しのつかないことをしてしまったんじゃないか、という思いが込み上げる。
(でも……まだ間に合うかもしれない。今からでも家に戻って、ちゃんと話せれば——)
そのときだった。バタバタと慌ただしい足音が響き、オフィスのドアが勢いよく開かれた。
そこに現れたのは、息を切らせた壮一郎だった。白衣ではなくスーツ姿だが、ネクタイは乱れ、黒い髪は少し湿ったように乱れている。焦点のあってないような慌てた表情で部屋中を見回し、涼子の姿を見つけて安堵の表情を浮かべる。
「……やっと……見つけた」彼の声は、いつになく荒い。
英盛はニヤリと笑い、「じゃあ、あとは二人で話せ」と言い残し、スマートフォンを手に書類を抱えて部屋を出て行った。
涼子は呆然としたまま立ち上がる。壮一郎の胸は早鐘のように上下している。急いで駆けつけたのだろう。
「壮一郎さん……」
涼子が呟くように名を呼ぶと、彼はわずかに眉をひそめ、そして歩み寄ってきた。まるで急に距離を詰めるように、涼子との間合いがぐっと縮まる。
「なんで……家を出た」
その質問に、涼子は言葉を飲み込む。
——けれど、もう逃げることはできない。きちんと話をしなくては。桜のこと、彦造院長のこと、そして何より自分自身の気持ちを。
オフィスの扉が閉まり、静寂が訪れた室内で、壮一郎の鼓動だけがやけに大きく響いているように感じられた。
行くあてもなく、最初に思いついたのは兄・英盛のオフィスだった。
実家に行くと両親に心配をかける。いろいろ面倒な質問もされるかもしれない。それに、桜と壮一郎の件や、高柳院長に言われたことなど、胸に鬱屈した思いが渦巻き、誰かに聞いてもらわないと壊れそうだった。
夜の遅い時間ではあったが、英盛はまだ残業をしている可能性が高い。そう思ってタクシーで会社へ向かうと、建物の明かりは確かに点いていた。
「兄さん……今、いいかな」
オフィスの扉を開けて控えめに声をかけると、英盛は執務机の山積みになった書類を脇に置き、驚いた顔で涼子を迎える。
「なんだ、こんな時間に。ていうか、どうしたんだよ、その顔……」
暗がりの中で乗ったタクシーの揺れが激しく、さらに悩みや疲れが重なって、涼子の顔は相当に青ざめていたのかもしれない。英盛の表情がすぐに曇る。
「……ごめん。ちょっと、話を聞いてほしくて」
涼子はそう言って、ソファに腰を下ろす。英盛も迎いに座り、話を促すようにうなずいた。そこで涼子は、桜とのやり取りや、高柳院長から聞かされた伊庭の動き、そして自分がどう思い悩んでいるかを、途切れ途切れに話す。
兄の前で情けないほど涙をこぼしながら語るうちに、気持ちが少しずつ吐き出されていく。英盛は最後まで黙ってうなずきながら聞いていたが、すべてを聞き終わると、深く息を吐いて答えた。
「……なるほど、そういうことか。桜さんに嫌味を言われたのは知ってるけど、まさかそこまできつい言葉だったとはな。それに、壮一郎の親父さん——高柳院長が、お前に直接“壮一郎を説得してほしい”なんて言ったのか。そりゃ重荷だろうな」
「うん……。私にはどうしようもできないよ。壮一郎さんは、いずれアメリカに行くって言ってるし、病院を継ぐ気なんてまだないと思う。それを私が止める資格なんて……」
涼子の声は震えたままだ。英盛は一度目を閉じ、かみしめるように言葉を探している。
「確かに、あいつは『一年後をめどにアメリカに戻りたい』と言ってる。だけど、その意味をちゃんとお前は聞いたのか? あいつがなぜアメリカで最新医療を学ぼうとしているのか。どうして病院経営から逃げるように見えるのか。……それを、表面的な会話だけで判断しちゃいないか?」
「え……?」
英盛の含みのある口調に、涼子ははっと顔を上げる。兄は軽く首を振った。
「あいつの狙いは、ただ自分が外科医として能力を磨きたいとか、病院を継ぎたくないっていう単純なもんじゃない。もちろん外科医としてもっと成長したいのは本当だと思うが、一番大きいのは俺たちのビジネスで進めている“AI基幹システム”を世界規模で使えるようにすることだ。父の病院を継ぐだけじゃ、限られた患者しか救えない。だけど、AIを使って遠隔医療を推し進めたり、効率的な医療データの共有を実現できれば、世界中の患者を救える可能性がある。それがあいつの理想なんだよ」
「世界中の……患者を……」
涼子は息を呑む。壮一郎は一人の外科医として既に天才的な腕を持ちながら、なおも自分の技術だけで救える人数には限度があることを知っている。だからこそ、英盛と組んでAIシステムのインフラ整備に挑んでいるというのだ。
英盛はさらに言葉を継ぐ。
「実際、あいつはすでに海外の研究機関や医療ベンチャー企業と連携を模索してる。アメリカに行くのは、桜さんとの付き合いがどうとかじゃなくて、このシステムを世界に広げるためだ。——その先に、父の病院を継ぐ可能性だってある。むしろ“より大きな土台を作ってから病院経営を握り、実践的に医療を変えたい”って考えてるんじゃないか?」
「そんな……。でも、私はそんな話、聞いたことも……」
「だろうな。あいつは自分のプランをあまり語らない性格だ。桜さんが勘違いするのも無理はない。だけど、俺はずっとそばで、学生のころから今まであいつのことを見てきたからわかる。あいつは自分の手で医療現場を変革したいって本気で思ってる。——病院の後継者になるのは、その過程の一部なんだよ。だから、一年後にアメリカへ行くのも、決して病院や涼子から逃げるためじゃないんだ」
英盛の断言に、涼子の瞳は揺れ動く。
桜から聞かされた「一年後にアメリカへ」というフレーズを、涼子は「彼が桜と一緒に行くため」だと思い込んでいた。しかし真実はまったく違う。自分は何も知らないまま、一方的に絶望していただけではないのか。
「壮一郎は、ただ外科医として手術室に籠もるだけじゃなく、世界規模で医療を広める方法を追い求めてる。それは父親が期待する病院経営すらも将来的に視野に入れているということだ。あいつは“不器用”なんだ。口下手で、感情表現が苦手だから、表向きにはクールに見える。でも、内心は誰よりも熱く“医療”に関わろうとしてる」
英盛は力強く言い切る。その言葉が胸に響き、涼子は涙が出そうになる。
——確かに壮一郎は不器用だ。普段から無口で、やりたいことを多く語らない。それでも、彼が一度話し出すときは常に芯の通った意志を感じる。それこそが彼の魅力であり、医療に対する真摯な情熱だったのかもしれない。
「……私、何もわかっていなかった。自分勝手に、桜さんの言葉とか院長先生の希望とかだけを気にして……壮一郎さんが何を考えているのかを聞こうともしなかった……」
唇を噛み締め、涼子の目からは大粒の涙が零れ落ちる。そんな彼女に、英盛はぽんと肩を叩いてやった。
「お前、壮一郎が好きなんだろ? だったら、もう少し信じてやれよ。あいつが素直に口にしないだけで、ちゃんとお前を大事にしてるってこと、わかってやってくれ。——ほら、今はもう遅い時間だし、家に帰りなさい。待ってるやつがいるだろ?」
英盛の優しい言葉に、涼子は胸がいっぱいになった。
だけど——もう、自分はマンションを飛び出してしまったのだ。メモ一枚だけ残して。取り返しのつかないことをしてしまったんじゃないか、という思いが込み上げる。
(でも……まだ間に合うかもしれない。今からでも家に戻って、ちゃんと話せれば——)
そのときだった。バタバタと慌ただしい足音が響き、オフィスのドアが勢いよく開かれた。
そこに現れたのは、息を切らせた壮一郎だった。白衣ではなくスーツ姿だが、ネクタイは乱れ、黒い髪は少し湿ったように乱れている。焦点のあってないような慌てた表情で部屋中を見回し、涼子の姿を見つけて安堵の表情を浮かべる。
「……やっと……見つけた」彼の声は、いつになく荒い。
英盛はニヤリと笑い、「じゃあ、あとは二人で話せ」と言い残し、スマートフォンを手に書類を抱えて部屋を出て行った。
涼子は呆然としたまま立ち上がる。壮一郎の胸は早鐘のように上下している。急いで駆けつけたのだろう。
「壮一郎さん……」
涼子が呟くように名を呼ぶと、彼はわずかに眉をひそめ、そして歩み寄ってきた。まるで急に距離を詰めるように、涼子との間合いがぐっと縮まる。
「なんで……家を出た」
その質問に、涼子は言葉を飲み込む。
——けれど、もう逃げることはできない。きちんと話をしなくては。桜のこと、彦造院長のこと、そして何より自分自身の気持ちを。
オフィスの扉が閉まり、静寂が訪れた室内で、壮一郎の鼓動だけがやけに大きく響いているように感じられた。
