第十一章 問い
その日の夜、壮一郎は珍しく早い時間に帰宅した。
玄関のドアが開く音がして、涼子はリビングの照明を暗めに落としたままドア口まで出迎える。彼が姿を現すと、白衣ではなく黒のジャケット姿で、わずかに疲れが見える表情をしていた。
「おかえりなさい……。ご飯、食べてないなら用意しようと思ってるけど、どう?」
「助かる。手術が長引いたせいで何も食べれてないんだ」
そう答える彼の声音は相変わらず淡々としているが、涼子には少しだけ安心感が生まれる。と同時に、胸の奥には今日の出来事がわだかまっていて、居心地の悪さが消えない。
キッチンに立って味噌汁を温めながら、悶々と考えてしまう——桜が言っていたことは本当なのか、壮一郎の口から直接確かめたい。
でも、万が一「そうだ」と言われたらどうしよう。その恐怖に足が震えそうになる。
何とか夕食をテーブルに並べると、壮一郎はすぐに箸を取って食べ始めた。蒸した鶏肉と野菜の煮物、わかめ入りの味噌汁、そして雑穀米の組み合わせ。彼は小さく頷きながら、一言「うまいな」とだけつぶやいている。普段ならそれだけで嬉しい褒め言葉なのに、今夜の涼子の心は晴れなかった。
(言わなきゃ……。聞かなきゃ、だめだ)
涼子は意を決して口を開く。思えば壮一郎とゆっくり話をするのは久しぶりだ。
「ねえ、壮一郎さん……。アメリカに戻りたいの?」
唐突な質問に、彼は箸を止めて涼子の顔をまじまじと見る。涼子は目線を伏せそうになるが、頑張って耐えた。壮一郎は少し間をおいてから、低くしかしはっきりした声で応じる。
「……いずれはそう考えている。あと一年、もしくは一年ちょっとというところだ。英盛との事業も大きくしていきたいし、アメリカで最新の医療技術を学ぶつもりで、もう一度大学病院や研究施設に出入りしたいと思ってる」
それは桜の言葉を裏付ける返答だった。心臓が強く締めつけられるような痛みを感じ、涼子は動揺を隠しきれない。——やはり一年後には彼は海外へ行ってしまう。
しかもそこには、仕事を通じて桜が関わることになるかもしれない。
「そっか……。やっぱり、行きたいんだね」
ぎこちない微笑みを作りながら、涼子は食卓を片付け始める。
壮一郎は彼女の微妙な変化に気づかないのか、それとも気づいているのに敢えて触れないのか、表情を動かさないままだ。
「日本にこのまま留まることは考えていない。父が求めている経営継承にしても、今すぐじゃなくてもいいだろう。俺にはやりたいことがまだまだあるし、病院の設備や技術だけが医療を支えるわけじゃないからな」
「……うん」
実際、彼の言葉に反論はない。むしろ壮一郎の行動力は賞賛すべきだとわかっている。天才外科医と言われる彼が、なおも努力を惜しまず海外でスキルを磨こうとしているのは立派なことだ。彼の強い意思が感じられる。それこそが壮一郎の魅力でもある。——だが、その輝きは自分にはまぶしすぎる。
この契約結婚も、いずれ終わると決まっている。まるで、壮一郎の“海外再渡航”という未来が、その終わりの時期を後押ししているかのようだった。
涼子はどうしようもない切なさを噛み締めながら、食事を片付け終わると「今日は私、先に寝るね……。ごめん、疲れちゃって」と早々に部屋へ引っ込んだ。
背中を向けたまま、壮一郎の様子を窺ってみたが、彼は何か言うでもなく、ただ静かに食卓に座ったまま動かない。
(やっぱり、私たちは本当にただの契約上の夫婦なんだ——)
部屋のドアを閉めると、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
桜の言葉が頭を回り続ける。「不釣り合い」「身を引け」「彼はアメリカに戻る」……。そして壮一郎のさっき発した言葉が、涼子の中で鳴り響いていた。
その日の夜、壮一郎は珍しく早い時間に帰宅した。
玄関のドアが開く音がして、涼子はリビングの照明を暗めに落としたままドア口まで出迎える。彼が姿を現すと、白衣ではなく黒のジャケット姿で、わずかに疲れが見える表情をしていた。
「おかえりなさい……。ご飯、食べてないなら用意しようと思ってるけど、どう?」
「助かる。手術が長引いたせいで何も食べれてないんだ」
そう答える彼の声音は相変わらず淡々としているが、涼子には少しだけ安心感が生まれる。と同時に、胸の奥には今日の出来事がわだかまっていて、居心地の悪さが消えない。
キッチンに立って味噌汁を温めながら、悶々と考えてしまう——桜が言っていたことは本当なのか、壮一郎の口から直接確かめたい。
でも、万が一「そうだ」と言われたらどうしよう。その恐怖に足が震えそうになる。
何とか夕食をテーブルに並べると、壮一郎はすぐに箸を取って食べ始めた。蒸した鶏肉と野菜の煮物、わかめ入りの味噌汁、そして雑穀米の組み合わせ。彼は小さく頷きながら、一言「うまいな」とだけつぶやいている。普段ならそれだけで嬉しい褒め言葉なのに、今夜の涼子の心は晴れなかった。
(言わなきゃ……。聞かなきゃ、だめだ)
涼子は意を決して口を開く。思えば壮一郎とゆっくり話をするのは久しぶりだ。
「ねえ、壮一郎さん……。アメリカに戻りたいの?」
唐突な質問に、彼は箸を止めて涼子の顔をまじまじと見る。涼子は目線を伏せそうになるが、頑張って耐えた。壮一郎は少し間をおいてから、低くしかしはっきりした声で応じる。
「……いずれはそう考えている。あと一年、もしくは一年ちょっとというところだ。英盛との事業も大きくしていきたいし、アメリカで最新の医療技術を学ぶつもりで、もう一度大学病院や研究施設に出入りしたいと思ってる」
それは桜の言葉を裏付ける返答だった。心臓が強く締めつけられるような痛みを感じ、涼子は動揺を隠しきれない。——やはり一年後には彼は海外へ行ってしまう。
しかもそこには、仕事を通じて桜が関わることになるかもしれない。
「そっか……。やっぱり、行きたいんだね」
ぎこちない微笑みを作りながら、涼子は食卓を片付け始める。
壮一郎は彼女の微妙な変化に気づかないのか、それとも気づいているのに敢えて触れないのか、表情を動かさないままだ。
「日本にこのまま留まることは考えていない。父が求めている経営継承にしても、今すぐじゃなくてもいいだろう。俺にはやりたいことがまだまだあるし、病院の設備や技術だけが医療を支えるわけじゃないからな」
「……うん」
実際、彼の言葉に反論はない。むしろ壮一郎の行動力は賞賛すべきだとわかっている。天才外科医と言われる彼が、なおも努力を惜しまず海外でスキルを磨こうとしているのは立派なことだ。彼の強い意思が感じられる。それこそが壮一郎の魅力でもある。——だが、その輝きは自分にはまぶしすぎる。
この契約結婚も、いずれ終わると決まっている。まるで、壮一郎の“海外再渡航”という未来が、その終わりの時期を後押ししているかのようだった。
涼子はどうしようもない切なさを噛み締めながら、食事を片付け終わると「今日は私、先に寝るね……。ごめん、疲れちゃって」と早々に部屋へ引っ込んだ。
背中を向けたまま、壮一郎の様子を窺ってみたが、彼は何か言うでもなく、ただ静かに食卓に座ったまま動かない。
(やっぱり、私たちは本当にただの契約上の夫婦なんだ——)
部屋のドアを閉めると、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
桜の言葉が頭を回り続ける。「不釣り合い」「身を引け」「彼はアメリカに戻る」……。そして壮一郎のさっき発した言葉が、涼子の中で鳴り響いていた。
