第九章 指摘
涼子は、静かな朝の光に包まれたリビングで、一人せわしなく動いていた。昨夜、壮一郎が帰宅しないまま朝を迎えたからだ。
いくら病院での急患対応や当直があるとはいえ、連絡すらないとさすがに心配になる。夫婦——たとえ“契約”の関係だとしても、今では彼の存在が生活の要になっていることを否応なく実感する。
顔を洗い、簡単に朝食を済ませたところで、タイミング良くスマートフォンが振動した。画面に表示されたのは、壮一郎ではなく英盛からのメッセージだ。
「悪いが、お前に頼みたいことがある。ちょっとした書類を壮一郎の代わりに持ってきてくれ。今、あいつは病院から抜けられなさそうだし、俺も取りにいく時間がないんだ。よろしく」
会社の仕事で必要なのだろう。涼子は早速、書斎へ向かい、壮一郎のデスクにあるビジネス関連のファイルを確認する。
英盛のメッセージに書かれた内容に従い探すと、すぐに目当ての書類が見つかった。封筒には「AI新規導入プラン」と書かれている。中身はクライアントヘのプレゼンに使う書類らしかった。
「これで間違いなさそうね……」
涼子は資料を抱え、手早く身支度を整える。今日は天気も悪くなさそうだし、外に出て気分転換をしたほうがいいと思った。
壮一郎が顔を出さず、所在なさに囚われているよりは、外の空気を吸いに行きたい。
タクシーに乗り、しばらく街の景色を眺めていると、英盛たちのオフィスが入っている高柳家の別邸が見えてきた。
以前にも訪れたことはあるが、何度見ても瀟洒な造りだと思う。門をくぐり、スタッフ用のオフィスフロアへと足を踏み入れると、数名の社員が忙しそうにパソコンを操作していた。
「おはようございます、涼子さん」
スタッフの一人が明るい声で挨拶してくれる。涼子も微笑みを返しつつ、「今日は兄に書類を届けに来たんです」と簡単に用件を伝えた。
スタッフはすぐに奥の部屋へ案内してくれる。そこが英盛の執務スペースだ。
ところが、案内された部屋のドアがわずかに開いていたため、中の様子が見えてしまった。
英盛のデスクの前に、すらりと背筋を伸ばした女性が立っている。艶やかな黒髪を後ろできちんとまとめ、洗練された白のジャケットをまとった姿。——倉本桜だ。間違いようがない。
(桜さん……どうしてここに?)
驚きと警戒心が同時に湧き起こる。
AI技術の海外展開で提携を——という名目で英盛にもコンタクトを取っているとは知っていたが、こうして英盛の前に現れ、親しげに話をしている姿を目にすると、なぜか胸が落ち着かない。
「それで、壮一郎はどう言っているの? あなたから聞いた話じゃ、あと一年ほどでまたアメリカに戻るって話じゃないのかしら。昔から“俺は日本に根を下ろすつもりはない”と言っていたしね。MBAを取った段階で、いずれはアメリカを本拠地にもっと大きく事業を展開したいって。私たちクラモトホールディングスも、その時は全面的にバックアップするから一緒にやりましょう、と提案してあるの。ねえ、英盛さん?」
桜の声は柔らかいが、自信に満ちている。
まるで、「壮一郎がアメリカへ戻る」ことを既定路線と信じて疑わないかのように。それを聞く英盛は、どうも歯切れが悪い。
「いや、あいつがいずれアメリカへ戻るとは言ってるが、詳しい時期や条件については……まだ決めてないはずだぞ。少なくとも“来年の何月”みたいな確定情報はないんだが」
「ふふ、でも私が彼から直接聞いたのよ? “アメリカでもっと最新の医療技術を学びたいし、英盛と一緒にやっている事業もグローバルに拡大したいから、1年後をめどに拠点をまた移す予定だ”って。あれは先月の会食のときだったわね……」
桜がまるで恋人同士の会話を思い出すような、甘い口調で言うのを聞きながら、英盛はちらりと不満げな眼差しを向けている。だが何も言い返せないようだ。
そんなところへ、ドアのすぐ脇に立ち尽くしていた涼子の姿に気づいたのか、英盛が「あ……」という短い声をもらして言葉を切った。
桜もその視線を追い、ドア越しの涼子と目が合う。すると、彼女はサッと表情を変え、「あら、涼子さん」と軽く口元を歪める。
「あ、ごめん、涼子。来てくれたのか。どうぞ入ってくれ」
英盛はそう声をかけるが、なんとなく場の空気が張り詰めていて、涼子はどこまで聞いてしまったのかを悟られたくない気持ちもあり、戸惑いを隠せない。
桜はそんな涼子の様子を見て、満足そうにほんの少し肩をすくめてみせた。
「それじゃ、私はこのあたりで失礼するわね。岩瀬さん、先ほどの企画書の件は前向きに検討を。壮一郎にもよろしく伝えてちょうだい」
桜はそう言い残して、白いジャケットを翻しながら通り過ぎていく。ふわりと香る高級な香水が、落ち着いたオフィスの空気を一瞬だけ甘く染め上げ、涼子の鼻を刺激した。
涼子は無言のまま部屋の中に入り、持参した書類を英盛の机の上へそっと置いた。英盛はややバツの悪そうな表情で、「これか。助かったよ」と言いつつも、さっきまでの会話をどう切り出すべきか迷っているようだった。
「ごめんな、変なところを見せちまって。桜さんは……クラモトホールディングスとして、うちと取引を拡大したいんだよ。あっちには海外展開のノウハウやネットワークがあるし、こっちも融資や提携を受けるメリットは大きい。だけど……まあ、彼女の個人的な思惑もあるのかもな」
涼子は小さく首を横に振る。聞こえてきた言葉の衝撃が大きすぎて、頭が真っ白だ。
桜が“壮一郎は一年後にアメリカに戻る”と断言していた。
以前から壮一郎の口からも「いずれは海外でまた学びたい」という話がちらりと出ていたのを思い出す。けれど本当に一年後には行ってしまうのか? そして、そのパートナーとして桜が名乗りを上げている——まるで公私ともに共に過ごすかのように。そんなニュアンスが、先ほどの会話の端々から痛いほど伝わってきた。
ぼう然と立ち尽くす涼子を前に、英盛は「今日はもう帰るか?」と声をかけてくる。彼の表情には気遣いの色が浮かんでいるが、涼子はなんとか笑顔を作って首を横に振った。
「うん。書類は渡せたから、私もう戻るね。ありがとう」
「そうか。……涼子、あんまり気にしすぎるなよ。壮一郎の考えは、あいつ自身にしかわからない」
英盛の言葉をどう受け止めればいいのかわからないまま、涼子は重い足取りでオフィスを出る。
すると、ちょうど建物の外へ出たあたりで、待ち構えていたかのように桜が声をかけてきた。
「ねえ、ちょっといいかしら? 涼子さん」
嫌な予感がしつつも、涼子は立ち止って桜を見た。桜は口もとに薄い笑みをたたえている。静かながら挑発的な瞳だ。
「あなた、壮一郎と“結婚”してるんですってね? でも、私から見たら“かりそめの結婚”にしか思えないわ。実際そうなんでしょう?」
「それは……」
否定したい気持ちはあるのに、契約結婚であるという事実が胸を痛くする。桜はその沈黙を見逃さず、さらに言葉を畳みかける。
「不釣り合いよ、あなたたち。彼は天才外科医として名声があるし、それに企業家よ。これからアメリカで本格的に事業を拡大するのに、あなたみたいな人がついていけるの? 恥をかくだけじゃないかしら」
どぎつい言葉がナイフのように胸を抉る。涼子は視線を落とし、何も言い返せない。その様子に桜は勝ち誇ったような微笑みを浮かべた。
「もしあなたが壮一郎を本当に想うなら、身を引くのが一番よ。こういうのは、お互いのためになる。あなたには辛い決断かもしれないけど……結局、彼はアメリカに戻る。私たちは仕事のパートナーでもあるから、自然と一緒に過ごす機会が増えるでしょうね。ふふ」
最後の嘲笑めいた吐息を残し、桜は悠然と歩き去っていった。
涼子は立ち尽くしたまま、何も言葉が出てこなかった。痛いほど胸が締めつけられる。頭では「桜の挑発に負けてはいけない」とわかっているのに、彼女の言葉は突き刺さって離れない。
——不釣り合い。政略結婚。そして、壮一郎はアメリカに行ってしまう。
自分と壮一郎とのあまりに違う世界を、桜は容赦なく突きつけてきた。
涼子は、静かな朝の光に包まれたリビングで、一人せわしなく動いていた。昨夜、壮一郎が帰宅しないまま朝を迎えたからだ。
いくら病院での急患対応や当直があるとはいえ、連絡すらないとさすがに心配になる。夫婦——たとえ“契約”の関係だとしても、今では彼の存在が生活の要になっていることを否応なく実感する。
顔を洗い、簡単に朝食を済ませたところで、タイミング良くスマートフォンが振動した。画面に表示されたのは、壮一郎ではなく英盛からのメッセージだ。
「悪いが、お前に頼みたいことがある。ちょっとした書類を壮一郎の代わりに持ってきてくれ。今、あいつは病院から抜けられなさそうだし、俺も取りにいく時間がないんだ。よろしく」
会社の仕事で必要なのだろう。涼子は早速、書斎へ向かい、壮一郎のデスクにあるビジネス関連のファイルを確認する。
英盛のメッセージに書かれた内容に従い探すと、すぐに目当ての書類が見つかった。封筒には「AI新規導入プラン」と書かれている。中身はクライアントヘのプレゼンに使う書類らしかった。
「これで間違いなさそうね……」
涼子は資料を抱え、手早く身支度を整える。今日は天気も悪くなさそうだし、外に出て気分転換をしたほうがいいと思った。
壮一郎が顔を出さず、所在なさに囚われているよりは、外の空気を吸いに行きたい。
タクシーに乗り、しばらく街の景色を眺めていると、英盛たちのオフィスが入っている高柳家の別邸が見えてきた。
以前にも訪れたことはあるが、何度見ても瀟洒な造りだと思う。門をくぐり、スタッフ用のオフィスフロアへと足を踏み入れると、数名の社員が忙しそうにパソコンを操作していた。
「おはようございます、涼子さん」
スタッフの一人が明るい声で挨拶してくれる。涼子も微笑みを返しつつ、「今日は兄に書類を届けに来たんです」と簡単に用件を伝えた。
スタッフはすぐに奥の部屋へ案内してくれる。そこが英盛の執務スペースだ。
ところが、案内された部屋のドアがわずかに開いていたため、中の様子が見えてしまった。
英盛のデスクの前に、すらりと背筋を伸ばした女性が立っている。艶やかな黒髪を後ろできちんとまとめ、洗練された白のジャケットをまとった姿。——倉本桜だ。間違いようがない。
(桜さん……どうしてここに?)
驚きと警戒心が同時に湧き起こる。
AI技術の海外展開で提携を——という名目で英盛にもコンタクトを取っているとは知っていたが、こうして英盛の前に現れ、親しげに話をしている姿を目にすると、なぜか胸が落ち着かない。
「それで、壮一郎はどう言っているの? あなたから聞いた話じゃ、あと一年ほどでまたアメリカに戻るって話じゃないのかしら。昔から“俺は日本に根を下ろすつもりはない”と言っていたしね。MBAを取った段階で、いずれはアメリカを本拠地にもっと大きく事業を展開したいって。私たちクラモトホールディングスも、その時は全面的にバックアップするから一緒にやりましょう、と提案してあるの。ねえ、英盛さん?」
桜の声は柔らかいが、自信に満ちている。
まるで、「壮一郎がアメリカへ戻る」ことを既定路線と信じて疑わないかのように。それを聞く英盛は、どうも歯切れが悪い。
「いや、あいつがいずれアメリカへ戻るとは言ってるが、詳しい時期や条件については……まだ決めてないはずだぞ。少なくとも“来年の何月”みたいな確定情報はないんだが」
「ふふ、でも私が彼から直接聞いたのよ? “アメリカでもっと最新の医療技術を学びたいし、英盛と一緒にやっている事業もグローバルに拡大したいから、1年後をめどに拠点をまた移す予定だ”って。あれは先月の会食のときだったわね……」
桜がまるで恋人同士の会話を思い出すような、甘い口調で言うのを聞きながら、英盛はちらりと不満げな眼差しを向けている。だが何も言い返せないようだ。
そんなところへ、ドアのすぐ脇に立ち尽くしていた涼子の姿に気づいたのか、英盛が「あ……」という短い声をもらして言葉を切った。
桜もその視線を追い、ドア越しの涼子と目が合う。すると、彼女はサッと表情を変え、「あら、涼子さん」と軽く口元を歪める。
「あ、ごめん、涼子。来てくれたのか。どうぞ入ってくれ」
英盛はそう声をかけるが、なんとなく場の空気が張り詰めていて、涼子はどこまで聞いてしまったのかを悟られたくない気持ちもあり、戸惑いを隠せない。
桜はそんな涼子の様子を見て、満足そうにほんの少し肩をすくめてみせた。
「それじゃ、私はこのあたりで失礼するわね。岩瀬さん、先ほどの企画書の件は前向きに検討を。壮一郎にもよろしく伝えてちょうだい」
桜はそう言い残して、白いジャケットを翻しながら通り過ぎていく。ふわりと香る高級な香水が、落ち着いたオフィスの空気を一瞬だけ甘く染め上げ、涼子の鼻を刺激した。
涼子は無言のまま部屋の中に入り、持参した書類を英盛の机の上へそっと置いた。英盛はややバツの悪そうな表情で、「これか。助かったよ」と言いつつも、さっきまでの会話をどう切り出すべきか迷っているようだった。
「ごめんな、変なところを見せちまって。桜さんは……クラモトホールディングスとして、うちと取引を拡大したいんだよ。あっちには海外展開のノウハウやネットワークがあるし、こっちも融資や提携を受けるメリットは大きい。だけど……まあ、彼女の個人的な思惑もあるのかもな」
涼子は小さく首を横に振る。聞こえてきた言葉の衝撃が大きすぎて、頭が真っ白だ。
桜が“壮一郎は一年後にアメリカに戻る”と断言していた。
以前から壮一郎の口からも「いずれは海外でまた学びたい」という話がちらりと出ていたのを思い出す。けれど本当に一年後には行ってしまうのか? そして、そのパートナーとして桜が名乗りを上げている——まるで公私ともに共に過ごすかのように。そんなニュアンスが、先ほどの会話の端々から痛いほど伝わってきた。
ぼう然と立ち尽くす涼子を前に、英盛は「今日はもう帰るか?」と声をかけてくる。彼の表情には気遣いの色が浮かんでいるが、涼子はなんとか笑顔を作って首を横に振った。
「うん。書類は渡せたから、私もう戻るね。ありがとう」
「そうか。……涼子、あんまり気にしすぎるなよ。壮一郎の考えは、あいつ自身にしかわからない」
英盛の言葉をどう受け止めればいいのかわからないまま、涼子は重い足取りでオフィスを出る。
すると、ちょうど建物の外へ出たあたりで、待ち構えていたかのように桜が声をかけてきた。
「ねえ、ちょっといいかしら? 涼子さん」
嫌な予感がしつつも、涼子は立ち止って桜を見た。桜は口もとに薄い笑みをたたえている。静かながら挑発的な瞳だ。
「あなた、壮一郎と“結婚”してるんですってね? でも、私から見たら“かりそめの結婚”にしか思えないわ。実際そうなんでしょう?」
「それは……」
否定したい気持ちはあるのに、契約結婚であるという事実が胸を痛くする。桜はその沈黙を見逃さず、さらに言葉を畳みかける。
「不釣り合いよ、あなたたち。彼は天才外科医として名声があるし、それに企業家よ。これからアメリカで本格的に事業を拡大するのに、あなたみたいな人がついていけるの? 恥をかくだけじゃないかしら」
どぎつい言葉がナイフのように胸を抉る。涼子は視線を落とし、何も言い返せない。その様子に桜は勝ち誇ったような微笑みを浮かべた。
「もしあなたが壮一郎を本当に想うなら、身を引くのが一番よ。こういうのは、お互いのためになる。あなたには辛い決断かもしれないけど……結局、彼はアメリカに戻る。私たちは仕事のパートナーでもあるから、自然と一緒に過ごす機会が増えるでしょうね。ふふ」
最後の嘲笑めいた吐息を残し、桜は悠然と歩き去っていった。
涼子は立ち尽くしたまま、何も言葉が出てこなかった。痛いほど胸が締めつけられる。頭では「桜の挑発に負けてはいけない」とわかっているのに、彼女の言葉は突き刺さって離れない。
——不釣り合い。政略結婚。そして、壮一郎はアメリカに行ってしまう。
自分と壮一郎とのあまりに違う世界を、桜は容赦なく突きつけてきた。
