「─沙耶」
耳に馴染んだ声に名前を呼ばれて顔を上げると、足の肩越しに父と母が見えた。
「お父さん、お母さん……」
大樹兄が身を引き、そのまま、背を押される。
まだ勇気が出ないのに、押された勢いで、1歩、足を進む。─その瞬間、駆け寄ってきたお母さん。
「わっ、走っちゃ危な……」
母が走るなんてことは初めてで、思わず驚いて、沙耶が慌てて駆け寄ると、─パンッ
「っ……」
響いた、高い音。沙耶の頬を、お母さんが叩いた音。
「……お母さん?」
初めて、お母さんに叩かれた。
痛いよりも、素直に驚きが勝つ。
生まれてこの方、こんな風に叩かれたことも、殴られたことも、そもそも怒られたこともない。
だからこそ、お母さんに怒られる想定はしていなかった。想像出来なかったから。
叩かれた頬を押さえ、沙耶が顔を上げると、白く細い白魚のような手のひらが赤くなっていて、その手を父が無言で包み込み、そのまま震える母の肩を抱き寄せた。
母はされるがまま、その嫋やかな細面は涙に濡れ。
「……っ、どうして、何も言わずにいなくなったの」
「あ、え、えっと……」
「朝陽みたいに、朝、元気に家を出たじゃない!アイラみたいに、私に朝、挨拶してくれたじゃない!どうして、そのままいなくなるの!あのふたりみたいに……っ、どうして!どうしてっ、何も言わずに……っ!」
それは、悲痛の叫びだった。
何かあってもいつも静かに微笑むばかりで、過去の事件でもずっと声を殺すように泣いていた母。
大きい音や声が苦手だから、怒ったりするのはいつも父の役目で、母は父に守られていた。
「『おはよう』って!『いってきます』って!そう言ったじゃないっ!!」
叫びながら、崩れ落ちそうになったお母さんを、お父さんが抱き寄せる。
「ご、ごめっ……お母さん、ごめんなさいっ」
そんなお母さんが、怒ってる。泣きながら、訴えている。
まさか、こんなことになるなんて。だっていつも、何をしても、両親は何も言わなかった。
自由にさせてくれていた。だから、今回も。
「―沙耶」
父の腕の中で顔を覆って、ひどく泣くお母さん。
「お、お父さ……っ、お母さんっ、お母さんが」
どうすればいいのか分からなくて顔を上げると。
「ユイラはお前が居なくなってから1年半、まともに寝ていないし、食べれてもいない。―この言葉の意味が、お前にはわかるな?」
そう言うお父さんの声音は、冷たく厳しかった。
本気で怒っていることが伝わってきて、背筋が冷える。
こんなに本気で怒られたことなんてない。
「だっ、だって、いつも……わ、私、そんなつもりじゃ……」
お母さんは痩せ細っていた。
今にも折れそうで、死んでしまいそうで、怖くなった。
「ま、守りたくて……朝陽が、残したものを返したくてっ、それからっ、わ、私、本当にそんなつもりじゃ……」
─本当に、そんなつもりじゃなかった。
この場所が、家族が、皆が大好きだから、自分が死神じゃないって否定したくて、本当はずっとここにいたいから、自分の価値を証明するつもりで、じゃないと、ここに生きることを、自分を、自分で許せそうになくて。だから。
『貴女は愛されているの。それを忘れちゃダメよ。貴女が無理をすれば、貴女を愛する人達は心配する。それが、普通なの。愛というものなの。だからね、家族の元へ帰りなさい。沙耶』
「…………心配かけてごめんなさい」
何を言えばいいのか分からなくて、でもその瞬間、イタリアであの人に言われた言葉が頭に浮かんだから。
素直にそう言ってみた。なんて返ってくるか分からなくて、大事なんかじゃないって言われたらどうしようとか、大樹兄は嘘つかないとか、なんでお母さんがこんなにも、とか。
色んな考えや感情がごちゃごちゃになって、頭がおかしくなりそうで。
「─ん」
俯いていると、そのまま、お父さんに片手で抱き締められた。
「他には?」
肩を抱かれただけで、震えが止まりそうな。
先を促す優しい声に、お母さんに叩かれた頬を撫でてくれるお父さんの優しくて少し冷たい手に、沙耶の涙腺は耐えられず、ボロボロと涙を零した。
「お父さんとお母さんを―……家族を、信じられなくてごめんなさい……」
自然と涙と一緒に零れた言葉。お父さんは笑った。
「―うん。それが分かればええ」
お母さんごと、お父さんは沙耶を抱きしめる。
お父さんの腕の中で、最後に会った日より細くなった、やつれたお母さんがこちらを見て、泣きながら微笑む。
「痛かったね、叩いてごめんね。……無事に、帰ってきてくれてありがとう」
謝る必要なんてないのに。沙耶が悪いのに。
「わ、私も……何も言わずに、ごめんなさい……」
愛されていることを、自覚していたのに。
ぎゅっ、と、お父さんの腕に籠る力が強くなる。
幼い頃、いっぱい抱き締めて貰った温かい場所。
「おかえり、沙耶。―君が無事で良かった」


