●空子の自宅、リビング(夕方)
静かなリビングに響いた琥珀の要求。
まだ心の準備期間中だった空子に、望み通りの対応は難しかった。
空子「……なんで、急にそんなこと言うの?」
琥珀「……」
空子「ゆっくり慣れればいいって、言ってくれたのに」
突然迫られ、狼狽えてしまった空子が視線を落とす。
何も言わない琥珀が少し怖くて、顔を見られないまま問いかける。
空子「私、何かしちゃったかな? それとも学校で嫌なことでもあっ――」
琥珀「もういい」
話の途中で立ち上がった琥珀は、空子を見ないまま鞄を拾う。
そのまま玄関に向かい家を出ていく。玄関ドアの閉まる音がやけに大きく聞こえた。
空子(っ……な、んだったの……)
脱力して立ち上がることができない空子。
顔の熱が引かない中、琥珀に口付けられた首根にそっと手のひらをのせる。
空子(あんな琥珀……初めて見た……)
(腕の力が強くて、だけど触れた唇は優しくて……)
余裕の笑みを浮かべる時や、無邪気な少年のように笑う琥珀を思い浮かべる空子。
しかし、さきほどの琥珀は欲求する年頃の男の子の顔をしていた。
思い出して、空子の心臓がぎゅうっと締め付けられる。
空子(……私が、あまりにのんびりしてるから痺れを切らした?)
(だとしたら、拒んでしまった私はもう、琥珀に見限られたかも知れない……)
座ったまま落ち込む空子。
けれどこのままではいけないとスマホを手に取り、琥珀にメッセージを送る。
●琥珀の部屋
屋根に雨音が響く部屋で、琥珀がベッドに仰向けになる。
スマホを手にして、今送られてきたばかりの空子のメッセージを読む。
空子【さっきはごめん。ちょっと驚いちゃっただけ。ちゃんと話したい】
謝罪の言葉が先にあるのは、空子の心遣い。
琥珀(……謝るのは、俺の方なのに)
無許可であんなことをした自分を責める一方で、煮え切らない思いを抱える琥珀。
空子には返信しないまま、スマホをベッドの上に置いた。
●(回想)学校、琥珀の教室(放課後)
数時間前の学校の教室。
今日は日直当番だった琥珀が教室で日誌を書く中、廉や涼音たちといったメンバーも教室に残っていた。
琥珀『お前ら帰んねーの?』
涼音『琥珀が終わるまで待っててあげる』
琥珀『一人の方が集中できるんだけど』
涼音『ひどい、廉だってここにいるじゃん〜』
わざと瞳を潤ませて、涼音が廉を見る。
しかし廉は冷静な表情のまま、窓際の自分の席で本を読んでいた。
代わって琥珀が答える。
琥珀『廉は帰りのバス時間まで教室で待ってんだよ』
涼音『いいな〜バスとか電車通とか憧れる。私、近くのマンション住みだから基本徒歩だもん』
琥珀『近くていいじゃん、早起きしなくていいし』
涼音『よくないよ〜、つまんないからいつも寄り道してるんだもん』
涼音が羨ましそうに話していると、机に置いているスマホがメッセージを受信した。
すぐにメッセージを読んだ涼音は、静かに口角を上げる。
涼音『……ねえ、今他クラスの子と繋がってるグループチャットに送られた情報なんだけど』
琥珀『俺今集中してるから』
早く日誌を書き終わらせたい琥珀が、涼音の話には耳を傾けないと意思を示した。
しかしその内容が、琥珀の意思を簡単に壊す。
涼音『一組の青宮さん、やっぱり仲野くんとデキてるらしいよ〜』
琥珀『っ⁉︎』
紙の上を滑るシャープペンの先がぴたりと止まった。
しかし琥珀が鼻で笑い、同時にペン先が再び動きはじめる。
琥珀『はは、ほんと好きだな涼音。そういうくだらない噂』
涼音『違うよ。私は答え合わせが好きなの』
琥珀『……答え合わせ?』
涼音の言葉に苛立つ琥珀の視線が、日誌から涼音にゆっくりと移った。
動じない涼音が微笑んで話を続ける。
涼音『青宮さんと仲野くんが一緒にいるところ何度も見てるし、なんとなくお互いに好意寄せてる感じしたし』
琥珀『……っ』
涼音『それに、青宮さん本人が仲野くんのこと“彼氏にしたい”って言ったらしいよ』
そのセリフを聞いて、思わず手に力が入った琥珀。
シャープペンの芯がポキリと折れて、紙には痕が残った。
涼音『私見たんだよね〜。図書館で、仲野くんが青宮さんの手を大事そうに握ってるところ』
琥珀(!!)
涼音『は〜、答え合わせできてスッキリした! あれでお互いに好き同士じゃない方がおかしいもん〜』
琥珀と空子の関係を問いただすために、図書館に突撃した日を思い出す涼音。
あの日は啓介に邪魔されて、明確な答えが得られなかった。
退館した後、二人の様子を窓から窺っていると、啓介が空子の手を握ったところを目撃した。
涼音(琥珀と青宮空子の関係はうやむやのままだけど、そっちでくっついてくれるなら問題ないわ)
そう考えながら、涼音は他人から得たばかりの情報を琥珀に話した。
沈黙したまま動かない琥珀。察した廉は、冷静な態度で涼音に忠告する。
廉『涼音が見たものはともかく、噂は尾ひれがつくから信じない方がいい』
涼音『青宮さん本人が言ってたことも?』
廉『涼音が直接聞いたわけじゃないだろ。そもそも青宮さんが言っていた証拠は、現時点でどこにもない』
涼音『言ってもいないことがこうして流れてこないと思うけど。ねぇ琥珀?』
涼音は琥珀に同意を求めたが、もちろん頷くはずもなく。
琥珀(……っ……くそ)
不穏な空気を放ちながら、筆圧をかけて黙々と日誌を書きはじめた。
(回想終了)
●琥珀の部屋
ベッドの上で仰向けになり、悶々とする琥珀。
琥珀(俺と両想いの空子が“仲野を彼氏にしたい”なんて言うはずない)
(なのに不安になるのは……空子の好きと俺の好きに、差があるからだ……)
琥珀ばかりがいつも好きで、琥珀ばかりが空子といつも一緒にいたいと思っている。
琥珀(信じてないわけじゃないのに、確かめたくて、安心したくて……)
そうして空子の気持ちを無視して突っ走った結果、怖がらせた挙句に拒否された。
困惑する空子の顔を思い出して、頭をかき苛立つ琥珀。
琥珀(……両想いになっても、結局嫉妬と不安はなくならないんだな……)
相変わらず、幼なじみという関係は秘密のまま。
琥珀は好きな子を無視しなくてはいけない日々がこれからも続く。
空子に変な噂が立っても、他の男子が空子に近づいても何もできない自分に苦悩した。
●翌日、学校の昇降口(登校時間)
登校したばかりの空子は、明らかに元気がなかった。
視線は常に下を向き、足取りは重くいつも以上に表情が暗い。
空子(琥珀、昨日の夕食どうしたんだろ……)
あれから琥珀が空子の家に戻ってくることはなく、今朝も一緒に弁当を作る時間に現れなかった。
送ったメッセージにも返信はなく、琥珀に拒絶されていることに空子は傷ついていた。
空子(ううん、先に琥珀を傷つけたのは私だ……)
琥珀の要求に応えられなかったことで、失望させたのかもしれない。
いくら幼なじみだからといって、自分は琥珀に甘えすぎていた。
一晩考え抜いた空子は、強い覚悟を持って自分の鞄を見つめる。
空子(……琥珀のために作ったお弁当)
(朝礼前に、琥珀がいる八組に行って、直接渡す……)
(これを機に、秘密だった幼なじみの関係を解禁するんだ)
そう決意した空子の鞄には二つの弁当が入っていて、いつもより重かった。
●空子の教室
空子が教室に入ると、数名のクラスメイトの視線が一斉に空子に向いた。
一瞬、会話がスッと止んで異様な空気が漂った気がした。
空子(え、何……?)
しかし、すぐに会話は再開されていつも通りの空気に戻る。
違和感を覚えたけれど、それを確かめるほど仲の良い友達もいない。
空子(……気のせいかな)
空子は自分の席に鞄を置き、琥珀に渡す弁当袋を抱えて教室を出た。
●八組に繋がる廊下
ゆっくりと廊下を歩く空子は、八組が近づくたびに緊張して心臓が慌ただしくなる。
すると前方から登校したばかりの啓介が歩いてくるので、挨拶を交わした。
空子「仲野くん、おはよう」
啓介「おはよう青宮さん、早いね」
空子「いつより早起きしちゃって」
ごく普通に廊下で立ち話をする二人。啓介が空子の手元の弁当袋に気づいて問いかける。
啓介「それ、どうしたの?」
空子「あ、これは……」
少し頬を赤くして、空子が勇気を持って答える。
空子「……琥珀に、渡そうと思って」
啓介「え、それって……佐々木くんと幼なじみだってこと解禁するの?」
改めて言葉にされると少し緊張してしまった空子だけど、グッと堪えて頷いた。
空子「昨日、喧嘩みたいになっちゃって。これ以上琥珀に無理させられないって思った」
啓介「……そっか。ついに決めたんだね」
空子「うん。琥珀のためにも、私が変わらなきゃいけないって」
嘘偽りのない空子の瞳を見て、啓介が微笑む。
啓介「仲直りできるといいね」
空子「うん。ありがとう」
啓介に話したことで心が軽くなった空子も、同じく微笑んだ。
空子(昔は喧嘩してもすぐに仲直りできた)
(成長とともに喧嘩は減ったけど、昨日のような重大なものは久々で……)
(だから顔を合わせるのは少し不安があるけれど)
空子は弁当袋をキュッと抱える。
空子(……きっと大丈夫。私は琥珀のこと、ちゃんと好きだもの……)
そう心の中で唱え啓介と別れようとした時、背後から声をかけられた。
涼音「あれー? こんなところに青宮さんと仲野くん?」
階段を登ってきた涼音が、二人の存在に気づいて名前を呼ぶ。
あの日以来何も仕掛けてこなくて、すっかり諦めたと思っていた涼音が再び現れた。
空子は後ろに下がりたくなる気持ちをなんとか抑え、啓介は警戒の目を涼音に向ける。
涼音「この前はごめんね。図書館で詰め寄っちゃって」
空子「……あ、あの時の質問なんだけど――」
涼音「ああ、もう解決したから忘れて!」
先日は血相を変えて『琥珀とどういう関係?』と空子を問い詰めた涼音。
今なら答えられると決心がついた空子だったが、涼音はもう気にしていない様子。
その切り替えに空子は違和感を覚え、啓介は以前から抱く不信感を増長させた。
涼音はにこりと微笑んで、空子と啓介を交互に見る。
涼音「それより、二人が仲良くしているところを邪魔しちゃったみたいで」
空子「え?」
涼音「知らなかったよ〜! 二人は付き合ってるんだね」
嬉しそうに笑顔で話す涼音。
しかし空子と啓介は身に覚えのない話に顔を顰めた。
啓介「はあ⁉︎ またそんな勝手なこと……そんなわけないだろ」
涼音「私見たもん、お互いに手を握り合ってるところ」
言われて思い出した啓介が、ほんのりと頬を赤らめて慌てる。
啓介「そ、それは訳あって俺が一方的にしたことで……」
あの日、震える空子を落ち着かせるために啓介がとった咄嗟の行動を涼音に見られていた。
それを知って分が悪いと思った啓介は、視線を逸らしつつも空子が損をしないように答える。
そんな中、空子は涼音の話す内容に納得していた。
空子(……だから花城さんは、私と琥珀の関係を疑わなくなったんだ)
空子と啓介が交際していれば、琥珀との関係を問いただす必要がないから。
空子(――つまり、花城さんは琥珀が本気で好きなんだ)
そう思うと空子の脳裏に中学時代の出来事が蘇って、胸が苦しくなった。
空子(私と琥珀が“幼なじみ”にとどまらず“両想い”の関係だと知ったら、花城さんはきっと私を恨む――)
空子は、中学時代よりもっと酷いことをされたらどうしようという恐怖心に襲われた。
抱える弁当袋を強く抱きしめる中、涼音は構わずクスクスと笑いながら話を続ける。
涼音「ヘ〜、一方的に? 仲野くんって見かけによらず大胆なんだね〜」
啓介「っ……君は本当に性格が悪いな」
涼音「……はあ? あんたに性格のこと言われたくないわ」
啓介の一言で余裕の表情だった涼音は、一気に不機嫌な顔となる。
前回と同じく、啓介と涼音の間に火花が散った。
その時、足元に視線を落としながら、だるそうに階段を登る琥珀がやってきた。
顔を上げた瞬間、空子と目が合う。
琥珀「……」
空子「っ……!」
しかし、琥珀の無表情が変化することはなく、すぐに視線を逸らされた。
学校内では琥珀がいつもしている対応。なのに今日はいつになく距離を感じる。
涼音「琥珀おはよー!」
琥珀「おー」
空子の姿が見えていないように通り過ぎ、同じクラスの涼音と親しげに挨拶を交わす。
それでも、琥珀に弁当を渡したい空子が意を決して声をかけた。
空子「あ、あの……」
すると立ち止まった琥珀が振り向いて、冷たい声で涼音に尋ねる。
琥珀「涼音、噂の二人が八組に何の用?」
空子「っ⁉︎」
涼音「知らなーい。朝の校内デート中じゃない? 仲良しなんだねー!」
涼音の答えを聞いた琥珀は、興味のない様子で空子に背を向けた。
そのまま自分の教室に入っていき、涼音が上機嫌な様子でついていく。
啓介「え……?」
八組の教室を不満げに見つめる啓介が、空子に声をかけた。
啓介「青宮さん……大丈夫?」
空子「……」
虚ろな目をしていた空子は、周囲の景色も音もぼんやりと感じていた。
空子(……琥珀の対応は、本来なら正解……)
なのに、空子の背筋にはスッと冷たいものが通り、胸が押しつぶされそうなほどに息苦しい。
鼻の奥がじんと痛くて、喉が詰まる。
空子(……そうか、やっとわかったよ)
空子は以前、琥珀に言われたセリフを思い出す。
琥珀『俺が何年片想いして、何年この時を待ち侘びたと思ってんだよ』
ずっと一途に想い続けてくれた琥珀に、自分を無視するようお願いしていた空子。
身も心も琥珀でいっぱいになっている今、本当の意味で自分のお願いの残酷さを理解した。
空子(好きな人に無視されるって、こんな気持ちになるんだね……)
絶望感と虚無感に襲われた空子の思考は、どんどん落ちていく。
今までこんな思いをさせていた琥珀を、安心させることもできなかった昨日。
見限られても仕方ない、琥珀に嫌われてしまったと考えた。
啓介「きっと佐々木くんは普段通りに対応しただけだよ、事前に話した方が良かったかもね」
空子「……」
啓介が気遣うが、空子には何も響いていない。
悲しくて孤独感を覚えた空子は、必死に涙を堪えた。
空子(……っ、泣く資格は、私にない……)
肩を震わせて必死に耐える空子の姿を目の当たりにして、啓介も胸を痛める。



