●学校近くの道(夕方)
まるで空子を待ち伏せしていたように立っていた琥珀が、空子にムスッとした顔を向けた。
しかし学校前という危険な場所を考えて、空子はいつものように他人のふりをする。

空子(まだ下校中の生徒もちらほらいるし……)

きっと考慮してくれるという期待を込めて、空子は琥珀を素通りし駅へと向かう。
すると琥珀は、不機嫌オーラを放ったまま無言でついてくる。

空子(なんで委員会で帰りが遅くなる私と、帰宅部の琥珀の下校時間が被るのぉ……)

困惑した表情で、ちらりと背後を気にする空子。
相変わらずじっと睨んでくる琥珀。空子は逃げるように駅へ向かった。

●駅、電車のホーム
いつもより遅い時間の下校となり、帰宅中の学生や社会人が目立つホームで電車を待つ。
そばには琥珀の姿も確認できたが、ホームの柱に背中を預けてスマホをいじっていた。
安心した空子だが、鞄の中でスマホが振動する。

空子(ん?)

すぐにスマホを取り出す。それは電車を降りるまで話しかけられない琥珀からのメッセージだった。
背中に刺さる視線を感じながら、空子がメッセージを開く。

琥珀【仲野と何話してたの】
空子(そうだった。一年の時、琥珀と仲野くん同じクラスだったんだ)

啓介の名前を知っていた琥珀に納得して、空子が返信の文章を打つ。

空子【委員会が一緒だから、当番の話してただけだよ】

間違ったことは言っていない。すると琥珀からすぐに返信が来た。

琥珀【手も振ってた】
空子(え、それも見てたの……)

覗き見していた琥珀に不快感と恥ずかしさを覚えた空子は、早くこの話題を終わらせたかった。

空子【仲良くなったんだから手くらい振るよ】

そう返信したと同時に、電車がホームにくる時の音楽が流れた。
すると外国からの観光客らしき人たちがワッとホームに押し寄せて、一気に混雑する。

空子(電車の中混みそうだから、乗り降り気をつけなきゃ)

スマホを鞄の中に戻した空子は、ホームに到着した電車に乗り込んだ。
やはり車内は混雑して、あっという間に満員電車となる。

●電車内、満員
後ろから次々と乗り込んでくる人波に押された空子は、吊り革も手すりも届かない場所に立つことになった。
鞄を抱えてよろけないように身構えていると、正面に立っていたのは琥珀。

空子(っ⁉︎)
琥珀「……俺に掴まれば?」

小声で空子に声をかけると、顔を背けて知らんふりをする。
空子の頭ひとつ分は背が高い琥珀が、上部にある手すりに掴まっていた。
琥珀の心遣いに甘えて、空子は他の乗客に見えないよう琥珀の腕を控えめにきゅっと掴んだ。
そのいじらしい姿に琥珀の胸が徐々に高鳴る中、電車が発車した。

空子「……」
琥珀「……」

車内は観光客同士の英語が飛び交い、かなり賑やかだった。
カーブに差し掛かり、ふらついた空子の体が琥珀の懐に密着する。

空子(……ひゃ……!)

すぐに体勢を戻そうとした空子だったが、琥珀がそれを許さなかった。

空子(えっ⁉︎)

琥珀の片腕が空子の背中に回り、ぐいっと引き寄せられた。顔の側面が琥珀の胸に押し当てられた状態になる。

空子(な、何? もう大丈夫なのに――同じ高校の生徒にこんな場面を見られたら大変!)

空子がすぐに押し返そうとするが、さらに琥珀の腕に力が入った。
はたからみれば、抱きしめられている体勢。徐々に緊張してきて鼓動が速くなる。
力で敵わないのはわかっている空子が、抵抗するのを諦めて顔を隠す作戦に移行した。

空子(もう〜、なんで離してくれないの……)

頭の中でうんざりしながら愚痴をこぼす空子が、ふとあることに気づいた。

空子(……琥珀、体温高い方なのかな? 何だかポカポカするし、いい匂いもする……)
(体つきもすっかり男子って感じになっちゃって……)

少しゴツゴツとした男の子の体つきが、抱き寄せられているとわかってしまう。
すると琥珀の心臓の音が、自分のものより速いことを知った。

空子(あれ……ドキドキいってる……?)

こんなに互いの体を密着させることなんて、子供の頃にあったのかも記憶にない。
その音を耳で感じているうちに、空子の心臓の鼓動もつられてさらに速くなってきた。

空子(……え、なんか……なんでだろう……)
(いけないことしているみたいな感覚)
(琥珀は幼なじみなのに……こうしていると、男の子って感じがして落ち着かない……)

昨日のことといい、琥珀に初めての感覚を味わわされている空子の頬が、徐々に熱を帯びてきた。
意識すればするほどドキドキが止まらない空子は、琥珀との至近距離を必死に耐えた。

空子(琥珀に知られたくない、私がドキドキしてること……)

早く駅に着いて欲しいと強く願った空子。しかし琥珀は――

琥珀(……ずっとこのまま、時間が止まればいいのに)

と思いながら、中吊り広告を読んでいるふりをしていた。


●自宅の最寄り駅、ホーム(午後六時前)
二十分も満員電車に揺られて、ようやく自宅の最寄り駅に到着した。
いつもよりも乗車時間が長く感じた空子。
電車がホームに到着してドアが開いた途端、空子は逃げるように下車して改札口を通過する。
駅構内を飛び出した時、後を追ってきた琥珀に呼び止められた。

琥珀「空子!」
空子「っ……!」

同時に腕を掴まれてしまった空子は、俯いたまま浅い呼吸を繰り返す。
今の火照った顔を見られたくなくて、琥珀に目を向けずにいた。

琥珀「急に走るなよ、危ないだろ」

肩で息をする空子の様子に、思い当たる節があった琥珀が尋ねた。

琥珀「またよろけると思って支えてたんだけど、苦しかったか?」

琥珀の声色は、本当に心配しているようだった。
小さく頷いた空子に、琥珀も素直に謝罪する。

琥珀「ごめん、痛いところは?」

その気遣いには首を振った空子が、ようやく声を発する。

空子「……もう、大丈夫」

呼吸が平常に戻り、空子の心臓も落ち着いた。
気持ちを切り替えるように深呼吸すると、空子が顔を上げて笑みを浮かべる。

空子「か、帰ろっか」

しかし頬にはまだ熱が残っていたようで、赤く色づいているのを琥珀は気づいた。
理由を尋ねるよりも先に、琥珀の指が空子の頬に触れる。

空子「っ……」
琥珀「赤い」

琥珀が様子を窺う。空子は琥珀に指摘されたことでさらに赤くなった顔を、慌てて背けた。

空子「で、電車の中が暑かったの」
琥珀「それだけ?」

追求してくる琥珀の目は真剣で、空子の心臓がぎゅっと音を立てる。

空子「そうだよっ」

言い捨てるように答えて一人で歩きはじめた空子。
何か誤魔化されている感じがした琥珀は、しばらく黙ったまま空子の後を追う。

●帰り道、住宅街
あれから会話のない二人。
電車内での出来事はできれば早く忘れたいと思っていた空子。
なるべくいつも通りに琥珀と接するよう心がけなくては。
そう思っているうちに、自宅前に到着してしまった。

●空子自宅前
自宅の鍵を開けようとした空子。背後ではいつものように琥珀が待機していた。
しかし空子は鍵を開けず、ドアに顔を向けたまま琥珀に話しかける。

空子「……琥珀。今日は一旦、自分の家に帰って」
琥珀「は? なんで」
空子「仮眠とりたくて……夕食の時間にまたきてよ」

そんなこと一度も言ったことがない空子に、違和感しか湧かない琥珀はすぐに断った。

琥珀「いやだ」
空子「なっ……」

困惑した空子が振り返ると、琥珀がずいっと距離を詰めてきた。
高圧的な目をした琥珀に見下ろされて、空子が息を呑む。

琥珀「空子がなんか隠してるから」
空子「そ、それは琥珀の方でしょ」
琥珀「俺? 俺は何も……?」

身に覚えのない琥珀が首を傾げた。
空子に好意を寄せる以外の隠しごとが思いつかない。かといってそれが本人に知られた様子でもなく、沈黙する。
そのとぼけた態度が、空子をカチンとさせた。

空子「――か、彼女がいる男子を家にはあげられません!」

言い放って鍵を開けた空子は、急いで自分だけ家の中に入る。
そしてドアを閉めようとした時、怒りと呆れでおかしな笑みを浮かべる琥珀がドアをこじ開けてきた。

琥珀「そ〜ら〜こ〜?」
空子「ひい!」

まるでホラー映画のワンシーンのような状況に、空子が恐れ慄く。

琥珀「今何つったのかな〜? 仲野に何か吹き込まれたか〜?」
空子「ち、違う! 仲野くんは何も――」
琥珀「じゃあ誰からそんなクソデマ聞いたんだ〜?」
空子「っ……え、デマ……?」

琥珀の口からデマだと聞いた空子は、抵抗する気が弱まった。
その隙をついてドアをこじ開けた琥珀が家の中に入る。
バタンとドアが閉まり、腕を組んだ琥珀がじっと空子の弁明を待つ。
逃げ場のない空子は、諦めて正直に話しはじめた。

空子「……クラスの子たちが、そう話しているのをたまたま聞いたの」
琥珀「ほう。で? 空子はそれを聞いてどう思った?」
空子「どうって……」

琥珀は神妙な面持ちで尋ねてきた。それを聞いた空子は、あの時自分が腹を立てたことを思い出す。

空子(本当は彼女がいるのに秘密にしたまま、いない理由を私のせいにして……)

しかし、電車内で不覚にも琥珀にドキドキしてしまった自分も思い出す。

空子(私は、本当に秘密にされたことだけに腹を立てたの……?)
(琥珀が、他の子と付き合っていると思って、それで――⁉︎)

瞬間、空子の中で初めての感情が湧き出てきた。
けれどそれはまだ疑惑だと自分に言い聞かせながら、両手で顔を覆う。

琥珀「空子?」
空子「……わかんない。……初めてだから、こんな気持ち……」

明らかに混乱している空子を前にして、何かいつもとは違う雰囲気を察する琥珀。
そして言葉を選びながら、優しく問いかけた。

琥珀「……俺は、空子が仲野と仲良くしてるの見て、嫉妬した……」
空子「っ……?」
琥珀「空子も、俺に彼女がいるってデマ聞いて、同じく嫉妬したんじゃねぇのか?」

顔を覆っていた空子が、ゆっくりとそれを解く。
そして琥珀の目を見ながら、再確認した。

空子「……琥珀、嫉妬してたの?」
琥珀「う……そうだよ、悪いか」

恥じらいながらも琥珀は正直に答えた。空子が知りたいのは、琥珀が嫉妬した理由。

空子「どうして嫉妬するの?」
(それがわかれば、今私が抱いている感情に答えが出る……)
琥珀「それは……」

今まで冗談ぽくしたりふざけたりして遠回しにしてきた。
しかし、ついに素直に思いを伝える日がきた琥珀。
そっと空子の手を取って、琥珀が空子を愛おしそうに見つめる。

琥珀「……空子のことが、好きだから」
空子「……っ」
琥珀「俺の彼女になれるのは空子だけなんだよ」

言いながら空子の手の甲にキスをした琥珀が、熱い眼差しを向ける。
今までそんなこと一度もなかったのに、二人の間に甘い時間が流れて空子が困惑した。

空子(こ、琥珀が私の手に、キキキス……!)
(好きだから嫉妬したってこと⁉︎ じゃあ私はあの時――)

疑惑は確信へと変わり、ハッとした空子。
頬を赤くしながらも、想いを伝えてくれた琥珀に応えるように空子は正直に話しはじめる。

空子「……電車の中で、琥珀に支えてもらってる時……」
琥珀「え?」
空子「ドキドキして、止まらなくて、でも温かくて……。それって、私も琥珀のことが――」

琥珀の目を見て訴える空子。話している途中で、我慢できなかった琥珀が空子の手を引き寄せ抱きしめる。
電車の中での再現かと思いきや、先ほどよりももっと強くて深い抱擁。

空子「っあ、ちょ、琥珀――」
琥珀「今もドキドキしてる?」

琥珀の質問に、腕の中の空子は少し間を空けてこくりと頷いた。
その反応に琥珀の喜びが胸いっぱいに広がって、思わず笑い声が漏れた。

琥珀「はは……答え出てんじゃん」
空子「え?」

空子の温もりを感じながら、琥珀が嬉しそうに断言した。

琥珀「空子も、俺のことが好きなんだよ!」

嬉しくてたまらない琥珀に、空子がぎゅーっと抱きしめられる。
琥珀の心臓も、そして空子自身の心臓も同じような音を重ねていた。

空子(琥珀が、私のことを好きで……)
(私も、どうやら琥珀に恋をしていることがわかった……)

両想いを喜ぶというより、今まで過ごしてきた日々の変化に危機感を覚えた。

空子(ってことは、つまり――凪のような生活終了⁉︎)

学校でも家でも、琥珀がそばにいる限りこのドキドキがずっと続く。
恋愛初心者の空子は、恋をした自分の今後の生活に不安を抱いた。