●住宅街(夕方)
帰宅中の空子と琥珀が、中学時代の同級生と遭遇する。
その人物は、琥珀に告白したけれど振られた挙句、空子に嫌がらせをしていたマネージャーだった。
楽しい雰囲気は一変して、空子の視線は反射的に地面を向いた。
琥珀「空子?」
空子(どうしよう……足がすくんで顔を上げられない)
異変に気づいた琥珀が、空子を心配する。
するとマネージャーが神妙な面持ちで琥珀に挨拶をする。
マネ「……佐々木くん、久しぶり」
琥珀「え? あ、えーと……あ、中学の男バスマネだっけ? 久しぶり」
マネ「……うん、そう。男バスの」
名前を覚えられていないことに、マネージャーが少し落胆する。
それほど琥珀はモテていたし、何人もの告白を受けているから仕方ない。
ただ、マネージャーが本当に話をしたかったのは空子の方だった。
マネ「……青宮さんも」
空子「……っ」
名前を呼ばれたが、喉が詰まったように苦しくて声が出せない。
返事をしない空子に琥珀が違和感を覚えていると、マネージャーは突然頭を下げた。
マネ「あの時は本当にごめんなさい」
空子「……え」
マネ「謝らないまま卒業したこと、ずっと後悔してた……」
マネージャーの行為に驚く空子。
嫌がらせを目撃した時の怒った表情と罵声が印象に強く残っていたせいか、目の前にいるのは別人のように思えた。
琥珀「空子、なんの話……?」
状況がわかっていない琥珀が困惑している。
その様子を見て、未だに“琥珀に言わない”という空子の約束が果たされていることをマネージャーが知った。
マネ「今の今まで、本当に佐々木くんに話してなかったんだ……」
驚くマネージャーに、空子がようやく声を発する。
空子「……私から、約束したことだから……」
マネ「……そう。こんな私との約束なんて守る必要ないのに」
マネージャーは今まで以上の罪悪感を味わう。
そして、なにも知らされていない琥珀の目を見て、あの頃の非道を告白しはじめた。
マネ「私、中三の時に青宮さんのこといじめていたの」
琥珀「…………は?」
マネ「佐々木くんに振られた腹いせと、幼なじみだった青宮さんへの妬みで……」
その事実を聞いて、琥珀の顔から血の気が引いていった。
琥珀「……え……空子、本当……?」
空子「ッ……」
ついに琥珀に知られてしまった空子は、返事ができないくらいに頭の中がいっぱいになっていた。
空子(きっと琥珀は自分を責めるだろうし、黙っていた私に呆れてしまうかもしれない……)
(だから知られたくなかったのに……不思議と肩の荷が下りたような感覚になっているのはどうして……?)
いろんな感情が混濁して胸を押さえる空子。
その雰囲気から、いじめが真実であると捉えた琥珀は怒りが込み上げてきた。
自分の過ちを話すマネージャーは、全ての非難を受け入れる覚悟だった。
マネ「最低なことしてるってわかっていても自分を止められなかった。受験勉強も恋愛も上手くいかなくて、青宮さんに当たって……未熟で最低な、クズ人間だった」
憎悪で心がいっぱいになった琥珀が、マネージャーを睨みつけた。
拳を握りしめたまま、なんとか耐える時間が続く。
マネ「ただ、あの頃から少しだけ成長した私が、愚かだった過去の私自身を許せなくて……」
手首を押さえながら苦悩の表情を浮かべるマネージャーが、怯える空子を見た。
マネ「自己満だけど、それでも青宮さんにちゃんと謝罪したかった」
空子「……っ」
マネ「……たくさん苦しめて傷つけて、本当にごめんなさい」
マネージャーはもう一度空子に頭を下げた。
心の底から謝罪しているのが伝わるも、空子の中では今でも思い出しては嫌な気持ちになるトラウマ級の出来事だった。
空子(……簡単には許せない。だけどこうして謝ってくれたから、許すべきなのかも……)
葛藤する空子が謝罪を受け取る言葉をかけようとした時、琥珀がその口を塞いだ。
空子「むふっ⁉︎」
琥珀「空子。自分の気持ちに正直になれよ」
空子「……っ!」
琥珀「こういうことは“謝ったから許してあげよう”じゃねぇんだよ。許すか許さないかは、空子の自由だ」
そう言って、もう一度空子の口を自由にした琥珀がじっと見つめてくる。
空子の気持ちを尊重しようとする琥珀の思いが伝わってきた。
空子(……私の思考が、全部琥珀に読まれていた)
(でも、そんなふうに言ってくれる琥珀はきっと……私がどんな選択をしても味方してくれるんだ)
そう思うと勇気が湧いてきて、空子が一度深呼吸をする。背筋を伸ばし、まっすぐな視線をマネージャーに向けた。
空子「……私は、まだ許すことできない」
マネ「うん、当然だよ」
許してもらうために謝罪をしたわけじゃないマネージャーは、空子の気持ちを肯定した。
しかし、空子の中でもう一つだけ伝えたいことがあった。
空子「でも、悪いことばかりじゃなかった。あの件があったから色々考えて、色々考えたから今の私が少しだけ強くなれたの」
言いながら隣の琥珀に目を向けた。
大切な存在に気づけないままだったら、今ここに琥珀はいないと思っている空子がその腕を掴んだ。
琥珀「っ⁉︎」
空子「この先どんなことがあっても、私は琥珀とずっと一緒にいたいって自分で決められたから……」
琥珀「……空子」
強い意志を伝えると、琥珀の腕を引き寄せた。
空子「じゃあ、私たちもう行くね……」
戸惑う琥珀を連れて立ち去る空子。遠ざかっていく二人の背中を、マネージャーは無言で見送った。
マネ(“悪いことばかりじゃなかった”なんて、私の心を軽くするようなこと言わなくていいのに)
「……やっぱり、青宮さんは優しすぎるよ」
過去の過ちを深く反省していたマネージャーが、空子の優しさにまた救われた。
●空子の自宅前
終始無言のまま自宅前までやってきた空子と琥珀。
空子が自宅のドアノブに手をかけた時、琥珀が重い口を開いた。
琥珀「……ごめん」
空子「え?」
琥珀「空子が辛い目に遭っていたこと、全然気づけなくて」
やはり琥珀は空子に対して申し訳なく思っていて、ひどく落ち込んでいた。
琥珀「それが原因なんだろ? 高校入学の時、空子が“幼なじみを秘密にしたい”って言い出したの」
空子「っ……」
沈黙するということはイエスなんだと悟った琥珀が、自分自身に怒りを覚える。
琥珀「それなのに俺は、何も知らないまま追及もしないで、情けなさすぎる……」
(やっとわかった)
(俺が空子を無視しないといけなくなったのは、俺のせいだったんだ)
(空子は自衛をしていただけ、なのに俺はわがままな欲望と勝手な嫉妬で空子を困らせていた)
琥珀は以前口にした自分のセリフを思い出す。
琥珀『いつまで空子を無視しないといけないの?』
『知り合い程度に挨拶するくらいはいいんじゃねぇの?』
今まで疑問だった部分が明るみに出て、琥珀の後悔が止まらない。
琥珀(マネージャーに言いたいことは山ほどあったけど、空子以上に出しゃばるわけにもいかなねぇし)
(しかも元凶の俺が何か言う資格もない……)
逆恨みのことを警戒していれば、空子に辛い思いをさせずにすんだ。悔やみきれない琥珀はすっかり元気をなくしていた。
すると空子は、どこか吹っ切れたような声色で話す。
空子「琥珀は謝らないで。私が言いたくなくて黙ってたんだから」
琥珀「……でも好きな子がそんな目に遭ってたら、普通気づくだろ……」
空子より鈍感な自分に気づいて琥珀がさらに落胆する。しかし空子はすぐに首を振った。
空子「当時の私は、琥珀にだけは知られたくなかった。多分、それが私の中で“敗北”だったんだと思う」
琥珀「……空子……」
空子「それに、琥珀にバレなかったのは私の演技力が高かったってことだよ」
琥珀「!」
空子「ふふ、もしかして役者になれちゃうかもね」
琥珀に自責の念を抱いて欲しくなくて、空子が冗談を交えながらドアを開けた。
●自宅、玄関先
そして二人で自宅に入った瞬間、琥珀が背後から空子を抱きしめる。
驚く空子の耳元で、琥珀が低く囁いた。
琥珀「……もっと空子に頼られる男になるって約束する」
空子「っ!」
琥珀「この先ずっと、俺の人生をかけて空子を守る。誰にも傷つけさせないし、俺も絶対に空子を傷つけない」
そう宣言すると、空子を抱きしめる腕に少し力が入る。
琥珀なりの決意が表れていて、空子がそっと琥珀の腕に手を添えた。
空子「……私も、琥珀がいやって言っても絶対離れないから」
琥珀に大切にされていると知るだけで、こんなにも安心するのかと空子が微笑む。
一方の琥珀も、普段の空子が言わなさそうなセリフを聞けて、ドキっと胸を鳴らした。
琥珀「……空子」
名前を呼びながら空子の頬に手を添え、そっと横を向かせる。
空子は背後から抱きしめられた状態で、琥珀と目を合わせた。
至近距離すぎて心臓が痛いくらいにドキドキしている中、そっと目を閉じた。
静かに距離を詰めていく琥珀と、ようやくはじめてキスを交わす。
空子「っ……」
軽く触れただけの唇同士がそっと離れ、空子は感触を残したまま目を開けた。
その蕩けた瞳が、琥珀に再度火をつける。
琥珀「……もういっかい」
空子「え、ちょ……んっ」
おかわりを要求され、空子が答える間もなく二回目のキスが交わされる。
先ほどよりも長くて、息継ぎがうまくできない。
横向きの首も痛み出した空子が、琥珀の腕をバシバシ叩いた。
空子「っも……、もう終わり!」
琥珀「えー、まだこれからなのに――」
空子「――息も首も、限界っ」
残念そうな声を漏らす琥珀の腕から、耳まで赤くなった空子が抜け出た。
空子(っっ……思い描いていたファーストキスの体勢と違った……! でも……なんか、すごく……)
ぎゅーっと胸元を握って幸せを噛み締める空子が、呼吸を整える。
その様子が可愛くて、琥珀も幸福感で満たされていた。
その時、琥珀のスマホが振動してメッセージの受信を知らせる。
琥珀「?」
琥珀がブレザーのポケットからスマホを取り出すと、表示されていたのは入院中の母の名前。
何かあったのかと思い、未だ顔が赤い空子と目を見合わせたあとメッセージを開いた。
それを読んで、琥珀が驚きの声をあげる。
琥珀「……はあ⁉︎」
空子「?」
目を丸くしたまま琥珀が固まった。
まだメッセージ内容を知らない空子は、その琥珀の様子に首を傾げる。
●空子の自宅、ダイニング(夕食時)
仕事から帰ってきた空子の母、香苗も交えて夕食を食べる空子と琥珀。
真衣から報告を受けた琥珀の話を聞いて、香苗が眉を下げて笑う。
香苗「ごめんね〜! 琥珀くんに心配かけたくないって真衣さんが言うから私も黙っておくしかなくて」
琥珀「だからって、息子に手術日教えないってありえねぇ……」
事前に知らされていた香苗が、真衣に代わって謝る。
しかし琥珀は呆れ果て、大盛りの白米を持った茶碗片手にやけ食いしていた。
空子(真衣さんのメッセージは【手術が無事成功しました】という事後報告だった)
(手術日当日は学校を休んで立ち会うつもりでいた琥珀だったから、今少し、いやかなり拗ねている)
(でも息子に心配と負担をかけたくない真衣さんの気持ちも、私はわかるなぁ……)
ふふっと微笑む空子の正面に座っていた琥珀は、すぐに気づいた。
琥珀「空子。今俺のこと笑っただろ?」
空子「あ、ごめん。でも真衣さんの手術が成功して本当に良かったよ」
琥珀「そうだけど……母さんも空子も秘密主義でほんと困る」
ため息をついた琥珀に、香苗が興味を示して空子に尋ねる。
香苗「なになに? 空子も何か秘密にしてたの?」
空子「ち、違う、別に何も秘密になんて――」
香苗「あやしー」
中学時代の嫌がらせの件や、琥珀と幼なじみという関係を高校のみんなに秘密にしていた空子。
そして今、母の香苗に琥珀と交際していることを秘密にしている。
空子(いつかはちゃんと親にも伝えないとって思ってるけど……)
(まだ付き合って間もないし……)
そう思いながら白米を口に運ぶ空子が、琥珀の視線に気づいた。
琥珀(ほら、今香苗さんに言っちゃえよ)
空子(むりむり、こっち見ないで)
脳内でなんとなくそんな会話をする空子と琥珀。
幼なじみ同士の謎のテレパシーに気づくわけがない香苗が、寂しそうに呟いた。
香苗「真衣さん帰ってきたら、琥珀くんの半同居生活も終わっちゃうのね」
空子「っ……!」
香苗「寂しいわー」
香苗の言葉にハッとした空子と琥珀は、互いを見合った。
空子「……」
琥珀「……」
真衣の入院期間中限定で実施されていた、琥珀との半同居生活。
その真衣が無事手術を終え、退院できるのはとても喜ばしい。
――が、もうすぐこの生活が終わろうとしていた。