●住宅街(日没後、午後八時前)
ドカッという音がして、空子が目を見開いた。
空子(――こ、琥珀……!)
不審者に飛び蹴りを喰らわせたのは琥珀。不審者は道に倒れ、被っていた帽子も吹っ飛んだ。
それを慌てて拾う不審者の胸ぐらを、琥珀が乱暴に掴む。
琥珀「おいてめぇなにしてんだ」
殺気立った目で見下ろし、ドスの効いた声を浴びせる。
不審者はおどおどしながら、帽子を深く被り直した。
不審者「お、俺はなにもしていない!」
琥珀「あとつけてただろーが」
不審者「さ、さっきその子が泣いていたから、どうしたのかと思っただけだ!」
どうやら不審者は、コンビニで泣いていた空子を見ていたらしい。
その言い訳を聞いて一瞬動揺した琥珀が、手の力を緩めてしまう。
隙をついた不審者が、琥珀を蹴り飛ばした。
琥珀「あ、てめぇ――!」
拘束が解けた不審者は、そのまま勢いよく走り出す。
琥珀が追いかけようとした時、空子が背中に抱きつき全身を使って止めた。
空子「――お、追いかけないでっ」
琥珀「はあ⁉︎ だってあいつ――」
空子「琥珀が怪我するのやだ……、もういいから、ここにいて……」
そうしているうちに不審者の姿は見えなくなり、逃げられてしまった。
しかし、震える手で必死にしがみつく空子を置いていけるわけがない。
不審者に憤りを覚える琥珀も、少し冷静になって空子を安心させようと抱きしめる。
琥珀「……わかった、空子のそばにいる」
久々に感じる琥珀の匂いと体温に包まれて、空子の中の恐怖と緊張が徐々に落ち着いていく。
空子「っ……怖かった、けど……」
琥珀「ん?」
空子「やっと、琥珀の声聞けた……」
次第に膨らむ安堵と嬉しさで、空子が琥珀の胸の中で微笑んだ。
空子(怖い思いをしたはずなのに、目の前に琥珀がいてくれるだけで、こんなに嬉しいなんて……)
感動を噛み締める空子が、沈黙したまま琥珀を強く抱きしめる。
自制心がいつまで保つかわからない琥珀が空子に声をかけた。
琥珀「……そろそろ帰ろ」
空子「あ、うん……ごめん」
そっと離れた空子は、そこでようやく膝の鈍痛に気づいて顔を顰める。
同じく空子の異変に気づいた琥珀が、擦りむいた両膝を確認した。
琥珀「派手にやったな……」
空子「さっき思い切り転んじゃって……わっ!」
説明している途中に、突然琥珀に抱き抱えられた空子。
空子「ちょっと、歩けないほどじゃないから、おろして!」
琥珀「やだ、このまま家まで運ぶ」
空子「な……私がやだ! お、重いし恥ずかしいっ」
初めてのお姫様抱っこを体験して、空子が頬を赤くする。
琥珀は空子の訴えを却下し、抱えたまま自宅へ向かって歩く。
琥珀「……空子、ごめん」
空子「え……?」
琥珀「空子の気持ちを勝手に試して、勝手に拗ねて意地を張って……」
空子が悲しむのをわかっていて、自分の気持ちも止められなかった琥珀が謝る。
琥珀「ゆっくりでいいって言っておきながら、本当は焦ってたんだ」
空子「琥珀……」
琥珀「空子と仲野の噂もどこかで疑ってたんだと思う。空子のこと、信じてたのに……」
正直な気持ちを吐露して、琥珀の表情に影が落ちる。
空子「違うよ、私が――」
琥珀「ほら、家ついたぞ」
琥珀を不安にさせたのは自分なんだと空子が説明しようとしたが、ちょうど自宅前に到着した。
●空子の自宅、リビング
ソファに座る空子が、琥珀に膝の消毒をしてもらう。
消毒液が傷にしみるが、空子が歯を食いしばって我慢する。
正方形の絆創膏を両膝に貼って、処置が完了。
琥珀「はい、終わり」
空子「……ありがとう」
琥珀が救急箱を元の場所に戻そうと立ち上がった。その手を空子が掴む。
空子「待って、ちゃんと琥珀に話したい」
琥珀「え?」
空子「私やっとわかった。自分がとても酷いことを琥珀に強制してたって」
真剣な瞳を向けてくる空子に、琥珀も聞く姿勢をとる。
空子「この前、学校の廊下で琥珀に無視された日。本当は琥珀にお弁当渡そうと思ってたの」
琥珀「っ……」
空子「琥珀はいつも通りに無視してくれただけなのに、その時すごく胸が痛くなって。好きな人に存在を無いことにされるってこんなに苦しいんだってわかった……」
視線を落とす空子は、鼻奥にジンとした痛みを感じる。
空子「琥珀のこと、ずっと傷つけて苦しめていた。本当にごめんなさい……」
琥珀「空子……」
空子「私は、琥珀のことちゃんと好きだよ、琥珀だけを想ってるよ……」
涙を浮かべる空子。琥珀は空子の手を取ってその場に跪いた。
琥珀「俺も空子のこと大好きだ。あと、俺は空子が思ってるほど傷ついてねぇよ」
空子「……え?」
空子が顔を上げると、琥珀が眉を下げて微笑んでいた。
琥珀「学校でチャージできない分、家で空子を独占してたし特別感味わえていたし」
空子「……チャー、ジ……」
琥珀「あ、今キモって思ったろ」
ジッと睨む琥珀に、少しそう思っていた空子は慌てて首を振る。
琥珀「空子と完全に接触絶ったのは今回が初めてだもんな。俺の方こそ、傷つけてごめん」
空子「琥珀……」
こぼれ落ちそうになった空子の涙を、琥珀が優しく指で拭う。
愛おしそうに見つめる琥珀に、空子はようやく自信を持って伝えることができると思った。
空子「……私を、琥珀の彼女にして……!」
空子の欲望を耳にした琥珀が一瞬驚くも、すぐに優しく微笑んで返事をする。
琥珀「俺の彼女になれるのは空子だけだって、最初から言ってるだろ」
空子の中で、琥珀への愛が広がり最上級に達した。
空子「……今なら……できるかも」
琥珀「え、なにを――」
言いかけた琥珀の肩に手を置いて、空子が自ら顔を近づけた。
不意を突かれた琥珀は、全身に緊張が走り息を止めた。
唇が触れそうな時、玄関のドアが開く音と香苗の大きな声が聞こえてきた。
香苗「ただいまー!」
空子・琥珀「ッ⁉︎」
光の速さで距離をとった空子と琥珀。
リビングにやってきた香苗は、いつも通り二人に帰宅を報告。
香苗「遅くなってごめんねー」
空子・琥珀「……お帰りなさい」
香苗「あら、やっと琥珀くんきてくれた。仲直りしたのねー」
琥珀不在が続いていて、なんとなく二人が喧嘩でもしたと思っていた香苗が喜ぶ。
香苗「え! 空子、その膝どうしたの?」
空子「あ、これは……」
空子の両膝の絆創膏に気づいた香苗。空子が正直に不審者の件を話し、琥珀も説明に入る。
琥珀「手当も終わったんで、警察にはこれから連絡しようかと」
香苗「わかったわ。その不審者が物騒な物持ってたら危なかったし、二人とも無事で本当によかった」
ひとまず安堵した香苗が空子の頭を撫で、琥珀の肩をトンと叩いて労う。
空子と琥珀は視線を合わせて、恥じらいつつも微笑みあった。
空子(そのあと警察への連絡をして、付近の見回りを強化してくれることになった)
(そして琥珀も、明日からの登下校は片時も私と離れないと言ってきかなかった)
(少し不安は残るけれど……それでも私は、琥珀と並んで歩くことを拒む理由はもうない)
(正真正銘、琥珀の彼女になれた――今日から私たちの関係は解禁となる)
●翌日、高校近くの通学路(朝八時頃)
琥珀の友人、廉がいつもの時間の通学路を歩く。
道の合流地点で琥珀の姿を見つけ、声をかけた。
廉「琥珀、おはよ」
琥珀「おはよ」
すると琥珀の隣に並んで歩いている空子に気づく。
廉「……青宮さんも、おはよ」
空子「お、おはよう……」
挨拶を交わして一緒に歩きはじめる廉。しばらくして琥珀が廉に突っ込んだ。
琥珀「疑問くらい湧くだろ普通」
廉「え? なにが」
琥珀「だから、俺と……空子が一緒に登校してることだよ」
自分で言うのも恥ずかしい琥珀が、ほんのり頬を赤くしながら話す。
すると廉は何食わぬ顔で返答する。
廉「二人が知り合いかもしれないって、前々から思ってたよ」
琥珀「っ……ただの知り合いじゃない。俺たち付き合いはじめたんだよ」
ついムキになって、交際宣言した琥珀。
交際情報解禁の第一号となった廉だが、その反応は琥珀が呆れるほどにあっさりしていた。
廉「おめでと。琥珀が青宮さんのこと目で追ってたのは知ってたし」
琥珀「え」(恥ずかし)
廉「もしかして好きなのかなーって見てたから、今更なんの意外性もない」
他人に無関心のように見えて、実はすごく観察能力の高い廉。
ズバッと言い当てられた琥珀は、期待外れの廉の反応にいじける。
しかし空子が隣で笑うのを見て、すぐに機嫌を直した。
琥珀「つーわけだから、今後昼休みは空子と過ごすから」
すると空子が申し訳なさそうな顔をして、琥珀の提案を断る。
空子「え、私のことは気にしないで。琥珀はクラスの友達と過ごしていいよ」
琥珀「は? 俺の願望なんだよ、空子と弁当食うのはぁ!」
言いながら駄々っ子のようになる琥珀。
そんな構図が面白くて、いつも冷静な廉がふふっと笑う。
廉「じゃあ、みんなで食べればいいんじゃない?」
空子・琥珀「え?」
廉の提案に、空子と琥珀が目を丸くして驚いた。
●空子の教室(四時間目終了後、昼休み)
昼休み開始のベルが鳴り、空子が席を立つ。
そして昼食準備をする啓介に声をかけた。
空子「仲野くん、今少し話してもいい?」
啓介「どうしたの?」
空子「昨日、仲野くんが琥珀に話してくれたんだね、ありがとう」
啓介が琥珀の背中を押したと聞かされた空子が礼を言う。
啓介「そんな、お礼を言われるほどでは――」
空子「ううん、琥珀も私も感謝してるの。仲野くんのおかげで仲直りできたから」
啓介「本当? よかったね」
笑顔で報告する空子は幸せそうで、啓介も自然と笑みがこぼれる。
そんな啓介にも、一つ空子に報告したいことがあった。
啓介「実は俺も、幼なじみと一旦仲直りすることにした」
空子「え? あの仲違いになった幼なじみの女の子と?」
啓介「うん。青宮さんと佐々木くんを見ていて、俺ももう一度仲良くしたいって思えたんだ。だから、こちらこそありがとう」
眼鏡の向こうで優しい目をする啓介からは、嬉しさが伝わってきた。
互いに変化があった幼なじみとの関係。
しかし、空子はもう一つ報告があり、恥じらいながら話しはじめた。
空子「あ、仲野くん。それとね、実は私と琥珀は……」
啓介「ん?」(まさか……?)
空子「その、お付き合いを、することになって――」
啓介「!」(やっぱり!)
啓介が感動していると、空子の背後に他クラスの琥珀が現れた。
琥珀「空子、迎えにきた〜」
空子「わ、来なくていいって言ったのに」
ランチを誘いにきた琥珀に驚いた空子は、周囲の目を気にしてオドオドする。
案の定、クラスメイトたちは突然の琥珀登場と空子との仲に困惑している様子だった。
男子1「八組の佐々木だ。おひとり様の青宮さんと話してる……?」
女子6「まさか仲野と三角関係とか?」
女子7「わ〜佐々木くんだ、眼福〜!」
などと囁かれる中、琥珀の視線は啓介に向けられた。
琥珀「仲野もこいよ。涼音が待ってる」
空子・啓介「……え?」
なぜここで涼音の名前が出るのか、空子にはまだわからなかった。
しかし啓介にはその意味がよく伝わり、渋々合流する。