ヒロインしか愛さないはずの公爵様が、なぜか悪女の私を手放さない

子はできぬか。
皇帝は次はどこの国を攻撃しようとしているか分からないか。
公爵家が次はどこに投資をしようとしているのか――……。

以上がフリードからの手紙である。

嘘でも、元気にやっているか、とか、体の調子はどうか、とか聞けないものなのか。
今は鋭意捜査中です。父上におかれましては健康に気を付けて……などなど、心にもないことを手紙にしたためる。
向こうはただ用件を一方的に書き連ねるだけだというのに、こちらが業務的な返事を返すと機嫌を悪くするのだから面倒すぎる。

さっさと手紙の返事をしたため、サンチェスに届けてもらうようお願いした。
雑務を終わらせ、保湿クリーム、絆創膏のほうに時間を割く。

保湿クリームは少し薔薇の香りがきついからもう少し控え目に、それから男性でも気軽に使えるように甘ったるくない香りを試してみる。
絆創膏は水仕事もできるように付与魔法で、撥水性を与えてみた。
結果、評判はどちらも上々。

そろそろ販売に移ってもいいかもしれない。
公爵家の出入りの商人に託して売ってもらおう。

「イザベラ」

その時、ジークベルトが部屋に入ってきた。
立ち上がったイザベラはうやうやしく頭を下げる。

「おかえりなさいませ、ジーク様。皇宮からお戻りになられたのですね」
「今晩は暇か?」
「暇ですが、どうしたんですか?」
「オペラを見に行くぞ」
「……まさか、オペラ会場に標的が?」

あのジークベルトが何の意味もなくオペラに誘うはずもない。

「違う。皇太子殿下がお前との仲を深めろと貴賓席を使えと仰られた。オペラに興味はないが、殿下の申し出を突っぱねる訳にはいかないだろ」
「ジーク様は、私と、仲を深めたいんですか……?」
「別に」
「ですよねえ。でも折角なので、分かりました」

オペラという特別な言葉の響きに、内心気後れを覚えてしまう。
前世は歌舞伎やミュージカルだって見たことがない。
とはいえ、断るのもあれだ。せっかく皇太子がくれたのだし、ジークベルトと心の距離を縮めるチャンス。

という訳で、その日の夜はオペラへ出かけることになった。
メイドたちが張り切って身支度を整えてもらい、公爵家の馬車に乗って出かける。

(ジークベルト、やっぱ格好いいっ!)

向かいに座る、正装姿のジークベルトを盗み見る。
美しい金髪を整髪料で撫でつけ、つまらなさそうな表情で街の灯を眺めているが、イケメンは何をしてもイケメンなのだ。

都をよく知らないというお上りさんなヒロインと共に、街の散策に出かけるイベントを彷彿とさせた。
スマホがないことが恨めしい。

「人の顔をじろじろと何だ?」

鋭い視線が向けられた。

「ビシッと決めている格好もお似合いだなと思いまして」
「こっちはうんざりだ。人混みは得意じゃない」

意図せず、ヒロインと同じやりとりをしてしまった。

(推しとの生活、万歳……!)

やがて馬車はオペラが上演される帝国劇場に到着した。

「どうぞ、イザベラ」
猫かぶりのジークベルトがエスコートをしてくれる。

「ありがとうございます、ジーク様」

来場者たちがチラチラとこちらに目をやるのが分かった。

「公爵様だわ」
「おかわいそうに。悪女とのご結婚だなんて……」

そんなひそひそ話が聞くともなしに聞こえてくる。

(内緒話のつもりだったらもっと、声を落としなさいよね!)

いや、内緒話という体の嫌味なのか。陰湿なお貴族様らしい。
そんなことをおくびにも出さないよそ行きの笑顔で、ジークベルトと一緒に、輝かしいほどの立派な劇場へ足を踏み入れる。

「ジーク様、夫人、よくいらっしゃってくださいました。どうぞ、こちらでございます」

わざわざ支配人が迎えに来てくれて、貴賓席まで案内してくれる。
さすがは公爵だ。

貴賓席は個室になっていて、ステージがよく見える特等席だ。

(すごい!)

おまけに当然のようにワインまで用意してある。

「ふぁっ」

隣りに座ったジークベルトは無防備に欠伸をこぼす。

「終わったら起こしてくれ」
「まだ始まってもいないんですが」

ジークベルトはさっさと目をつむってしまう。

政略結婚の駒として育てられたイザベラに、オペラの知識なんて全くない。
今回の演目がどういう話なのか、ジークベルトに聞こうと思っていたのに。

「ちょ、ちょっと、ジーク様っ」

起こそうと奮闘している間に会場の明かりが落とされてしまう。
魔道具のスポットライトで壇上が照らされたかと思えば、白いドレスに身を包んだ女性が歌い始めた。

開始十分までは何とか頑張って、話の筋を追いかけようとした。
どうやら恋愛ものらしいということは分かったが、残念ながらそこまでの興味はもてなかった。

貴賓席から他の席を覗くが、女性たちは食い入るようにステージを見つめている。

「ふ、ぁ……」

いけないと思いながらも、殺しきれなかった欠伸を漏らす。
右隣には、ぐっすり眠っているジークベルト。
無理をして興味のないオペラを理解しようとしていることが馬鹿らしくなってしまう。

(別に私だって寝てもいいよね?)

目を閉じる。
さすがは貴賓室の椅子だ。体を包み込むようなフィット感が、最高の心地よさをもたらしてくれた。

自分でもびっくりするほどあっさり、眠りに落ちた。
それからどれくらい経っただろうか。

揺さぶられ、目を覚ます。

「おい」
「……?」

いつの間にか会場は明るい。
イザベラはジークベルトの胸に思いっきりしなだれかかっていた。

(たくましい大胸筋は最高の枕……って、そうじゃない!)

「お、オペラは」
「終わったに決まってるだろ」

呆れた視線を向けられてしまう。

「まさかこういう時に寝る女がいるとはな」

恥ずかしさに、頬が火照った。

「し、仕方ないじゃないですか。よく分からなかったんですから。それに、最初に眠ったのはジーク様のほうですし、私を笑うのはお門違いではないのですかっ?」

タイミングは悪いもので、腹の虫が鳴ってしまう。

「なるほどな。お前には芸術よりも食い気のようだな」

ますますその口調が呆れたものになる。

「……ジーク様は違うのですか」
「俺は、途中で起きたからな。お前のいびきがあまりにうるさいから」
「う、嘘、ですよね」
「嘘だ。途中でレストランにでも寄るか。飢え死にされたら面倒だ」
「し、しません!」

もう完熟トマトくらい、イザベラは顔を真っ赤にした。

見送りに出た支配人には眠っていたことなどおくびにも出さず、
「とても素晴らしい演目でした」と言っておいた。

「妻もかなり楽しんでいましたから」

猫かぶりモードのジークベルトはそうこれみよがしに言った。

馬車でそばのレストランに向かうと、顔パスで、すぐに個室へ案内してもらう。
さすがは公爵家だ。

食前酒のワインが運ばれ、グラスに注がれる。

「酒なんて飲んで大丈夫なのか。食事中にまた眠るんじゃないか」
「もういい加減、からかうのはやめてもらっていいでしょうか。もう眠るつもりはありませんから、お構いなく」
「それもそうだな。一公演分眠ったんだからな」

恥ずかしさのあまり、食前酒をがぶ飲みした。

「あ、このお酒、美味しい」

イザベラは前世もお酒はそこまで強くなかったが、食事の美味しさもあいまって、自分でも思った以上にお酒のペースが速くなった。

おかげで食事を終える頃にはすっかり酔いが回ってしまう。
それでもどうにか自分の足で歩いて馬車に乗り込んだが、屋敷へ到着するころには完全に酔いが回り、動けなくなってしまう。

でも全身がふわふわして心地良い。
まるで空を飛んでいるかのようだった。

とても愉快な気分で、「えへへ」と勝手に笑みがこぼれてしまう。

「奥様、大丈夫ですか」

サンチェスたちが心配そうに顔を覗き込んでくる。
彼らを心配させまいと、「大丈夫。少し飲み過ぎただけだから」とイザベラは自分の足で馬車から降りようとしたが、足がもつれて転びそうになってしまう。

「無理をしては駄目ですよ」

猫をかぶったままのジークベルトは、イザベラを抱き上げた。

「力持ち~ぃ!」

抱えられたまま、はしゃいでしまう。

「こらこら、イザベラ。暴れたら危ない」
「はぁい」

イザベラは舌足らずに呟き、されるがままに二階の寝室まで運び込まれる。

「ったく、勘弁しろ」

悪態をこぼしたジークベルトに、ベッドに寝かされる。

「すぐにメイドを呼んでくる」
「大丈夫! 服を脱ぐくらいできますからっ!」

脱ぎ始める。

「おい」
「別に私の下着姿なんて見ても、ジーク様は何も感じないんだからいいじゃないですかぁ」

しかし天地がくるりと回ってベッドへ倒れ込んでしまう。
呆れ顔のジークベルトに顔を覗き込まれる。

「黙って、そのままじっとしていろ」
「本当に惜しいですよぉ」

イザベラは、ジークベルトの顔に手を持っていく。

「次は何だ」
「私、今の偽物の青い瞳より、ウルフアイのほうが好きです」

本当に前世の頃からそう思ってる。
あの瞳の美しさを目の当たりにした第一印象で、このキャラを攻略したい!と思ったくらいなのだから。

ジークベルトが軽く舌打ちをする。

「酔いすぎだ」
「……かもしれません。でも酔ってはいても、人間、思ってもいないことは言えないと思います」

喋っているうちに、眠気が頭の芯を優しく撫でる。
でもこのまま意識を失いたくない。

「ウルフアイを見せてくれませんか」

呆れながらもジークベルトは見せてくれる。
黄金色の美しい瞳。縦に筋の入った獣を思わせる瞳孔。

まるで宝石だ。
ふにゃ、と頬が緩んだ。

「やっぱり綺麗……」

ヒロインも心を奪われるくらいだ。
標的を殺し、返り血を浴びながらも、その瞳の幻想的にも思える鮮やかな金色は、決して褪せるということはない。

「さすがはあの伯爵の娘だな。この瞳は、皇帝でさえ底知れぬと言って怯えるぞ」
「それも含めて、いいんじゃないですかぁ」

理解できないと言う風に、ジークベルトはかぶりを振った。

「……暗殺者でも、本当に、推せる……」

綿にくるまれるような心地よさに包まれながら、イザベラはそこで意識を放り出した。