ヒロインしか愛さないはずの公爵様が、なぜか悪女の私を手放さない

 あの日から、ジークベルトによる触れあいが加速している。

 この間なんて、目覚めると、背後から抱きしめられていた。

 ジークベルトは寝ぼけていたと言っていたが、これまで同じベッドで寝ていて一度もそんなことはなかったのに不自然すぎる。

(このままじゃ本当に心臓が持たないわ)

 推しとの触れあいが嬉しくないはずがない。

 愛しても世界に影響はないと分かったら、彼の想いを受け容れてしまうような状況なのだ。

(自分の欲望より、世界の趨勢を考える私、このままいけば悟りも開ける気がするわ……!)

 それはともかく。

「……ついてくるのですか」

「ただの協力者なんだろう。だったら、夫として俺が挨拶に行くことに問題もないだろう」

 ジークベルトは言った。正論だ。

「に、ニコラウスに良いかどうかを聞いてみないと」

「良いに決まってるだろ。俺が機密を漏らすような馬鹿だと思ってるのか?」

「……いえ」

 実はニコラウスには、諸事情があって公爵とは近いうちに離縁するつもりだということを教えていた。

 商売に公爵家の力を借りられればまさに鬼に金棒であり、当然、ニコラウスはそれを提案してきた。

 だから離縁のことを話したのだ。

 さすがはニコラウス。詳しい理由は一切聞かずにいてくれた。

 そこのところも商売人としての気配りができる。

「尾行をされているのでもう分かっておられると思いますが、ここです」

 イザベラとジークベルトは馬車から降り立った。

 今日は打ち合わせの予定なので店は休業しているから、裏口から入る。

「来たか」

 ニコラウスは振り返るなり、かすかに表情を変えたが、すぐに笑顔を浮かべた。

「公爵様。まさかご夫婦でいらっしゃるとは。イザベラ様、一言、仰って頂ければ良かったのに」

 心の中で、「不意打ちはやめろ、報連相を欠かすな!」と思っていることだろう。

「え、ええ。ごめんなさい。急遽、ジーク様も一緒に行きたいと仰られたので」

 イザベラはやや笑顔を引き攣らせながら言った。

「妻が世話になっているようですね」

「いえいえ。お世話になっているのは私のほうです。どうぞ、そちらの席におかけください」

「私に構わず、事業の話をしてください。私はただ、いるだけですので」

 ニコラウスは、ジークベルトがイザベラの左手をがっちりと指を絡め合わせるようにして握っている様子をチラ見し、すぐにテーブルに置いた今後の事業計画について説明する。

「――というわけでして、何か問題はありますか?」

「一つ、聞いてもいいかな。どうして都ではなく、サロペンに店舗兼工房を? 大きい街だが、都ほどではない。都においたほうがいいだろう」

「それは……」

 ニコラウスがちらっとイザベラを窺う。

「そ、それは私の案なんです。実はニコラウスと共に事業を行うということ最初が肝心と話し合って。都での店舗兼工房はここを改装しようという話になったんです。ですから、サロペンにある店舗兼工房は二号店、ということになります」

「なるほど。最初から大きく出ていく、ということなんだね」

「そういうことですっ」

 こうしてやや緊張感の漂う打ち合わせは終わった。

 ほっと胸を撫で下ろしつつ、もう精神的にくたくたになったイザベラはさっさと屋敷に帰りたくてしょうがない。お風呂に入って体を休め、夕飯まで一休みしようと密かに決める。

「ああ、それから……」

 帰り際、ジークベルトが見送りに出たニコラウスを振り返った。

「な、なんでしょうか」

「その香水だが少し匂いがきついように思う。家に帰ってくるたびに、君の香りが彼女についてしまっていてね。非常に不愉快なんだ」

 殺意が湧くという本音を、非常に不愉快というマイルドな表現にしたのは、ジークベルトとしては頑張ったほうだろうと思う。

「……気を付けます」

 ニコラウスは頷く。それから、イザベラを鋭い目を向けた。

(あれは絶対、後で詳しく説明してもらうからなって顔だわ……)

 ジークベルトも、ニコラウスも、猫をかぶって、本当の自分を隠しているという点では実は似たもの同士だ。

 馬車に乗り込む。

「ジーク様、ニコラウスはどうですか。仕事がきっちり出来る人だと思いますが」

「そうだな。目端は利くようだな。だが、どうにも好きになれない」

 同族嫌悪という奴かもしれない。

「そうですか」

「商売はお前の領分だ。好きにしろ」

「ありがとうございます。あの、それから、そろそろ手を離してもよろしいのではないでしょうか。馬車の中ですし」

「馬車の中で手を繋いではいけないという法はないだろう」

 溶接でもする勢いでがっちり握り締められていた。

「て、手汗をかいてしまっているので、恥ずかしいなぁと」

「俺は気にならない」

 いつの間にか素の姿に戻ったジークベルト。

 その獲物を決して逃すことのないウルフアイには優しい光がたたえられ、思わず引き込まれそうになって、はっと我に返った。

(危なかったわ。引き込まれるところだった……これはやばいわ。このままじゃ推しと愛し合いたいっていう欲に負けそう……)

 早くヒロインと、ジークベルトをつなげないと、イザベルがもちそうにない。